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三笠宮崇仁殿下の墓所五十日祭の儀
三笠宮崇仁殿下の墓所五十日祭の儀
三笠宮殿下の墓に拝礼される天皇陛下
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀 一般参拝
三笠宮彬子女王殿下
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の墓所の儀
三笠宮崇仁殿下の墓所の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
三笠宮崇仁殿下の斂葬の儀
斂葬の儀の葬列のルート
三笠宮邸に入られる秋篠宮家の眞子・佳子両内親王殿下
天皇皇后両陛下が三笠宮殿下に最後の別れ
ラクダに乗られた三笠宮殿下
三笠宮崇仁殿下の御通夜
三笠宮崇仁殿下の御通夜
三笠宮崇仁殿下の御通夜
三笠宮崇仁殿下の御通夜
三笠宮崇仁殿下の御通夜
斂葬の儀の葬列のルート
斂葬の儀の葬列のルート
三笠宮崇仁殿下ご薨去 伝統踏まえご葬儀
皇太子殿下ご夫妻、三笠宮崇仁殿下ご薨去にご弔問
秋篠宮殿下ご夫妻、三笠宮崇仁殿下ご薨去にご弔問
天皇皇后両陛下、三笠宮崇仁殿下ご薨去にご弔問
皇太子殿下、三笠宮崇仁殿下ご薨去にご弔問
三笠宮崇仁殿下ご薨去
三笠宮崇仁殿下ご薨去
三笠宮崇仁殿下ご薨去 伝統踏まえご葬儀
三笠宮崇仁殿下ご夫妻
三笠宮崇仁殿下ご薨去 皇位継承資格者、4人に減少
三笠宮崇仁殿下ご夫妻
三笠宮崇仁殿下ご薨去
三笠宮崇仁殿下ご薨去
三笠宮崇仁殿下ご薨去
三笠宮崇仁殿下ご薨去
三笠宮崇仁殿下ご薨去 ダンススポーツ発展に尽力
三笠宮崇仁殿下ご薨去
三笠宮崇仁殿下ご薨去
孫に囲まれる三笠宮殿下
三笠宮崇仁殿下ご薨去 皇位継承資格者、4人に減少
フォークダンスを踊られる三笠宮殿下
三笠宮殿下と御兄弟御家族
展覧会を鑑賞される三笠宮殿下
孫に囲まれる三笠宮殿下
三笠宮崇仁殿下ご夫妻
聖路加国際病院を退院される三笠宮殿下
三笠宮崇仁殿下ご夫妻
三笠宮崇仁殿下ご夫妻
高円宮殿下の「斂葬の儀」に向かわれる三笠宮殿下ご夫妻
晩さん会でお礼を述べられる三笠宮殿下
三笠宮崇仁殿下ご夫妻
三笠宮殿下と御兄弟
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三笠宮崇仁殿下ご薨去

三笠宮崇仁殿下ご薨去

三笠宮崇仁親王殿下(2007年5月12日)

 三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)親王殿下は、27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で逝去された。

 100歳だった。昭和天皇の末の弟宮で、天皇陛下の叔父にあたり、明治以降の皇族では最高齢だった。皇位継承順位5位で、三笠宮さまの逝去により、皇位継承権を持つ男性皇族は4人になった。〈ありし日の宮さま2面、関連記事10・11面〉

 宮内庁では、加地隆治・宮務主管が27日午前10時半から記者会見し、三笠宮さまの逝去を発表した。同席した宮内庁の名川弘一・皇室医務主管によると、最近の三笠宮さまの容体は安定した状態が続いていたが、この日の午前7時40分頃から徐々に心臓の拍動が遅くなり、意識不明となった。同8時頃に心停止状態となり、同34分、妃殿下の百合子さま(93)にみとられ、逝去が確認されたという。

 三笠宮さまは2006年頃、心臓の僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症と診断された。長男の寛仁(ともひと)さまが亡くなられた翌月の12年7月、急激に心機能が低下、弁の機能回復のため心臓を止めて人工心肺を使った手術を受けられた。当時96歳の高齢者には異例の手術だったが順調に回復し、今年5月までは宮邸で静かに過ごされていた。

 15年12月2日に100歳の誕生日を迎えられた。今年1月2日の皇居一般参賀に臨まれたが、急性肺炎で5月16日、同病院に入院。心臓機能の低下が発覚し、経過観察を続けられていた。名川医務主管は「懸命の治療を続けてきたが、年齢からくる心機能の低下はいかんともしがたかった」と説明した。

 三笠宮さまは1915年(大正4年)12月2日、昭和天皇、秩父宮、高松宮に続き、大正天皇と貞明皇后の第4皇子として誕生された。幼時の称号は澄宮(すみのみや)。32年(昭和7年)、学習院中等科4年を修了して陸軍士官学校予科に進まれた。

 卒業後、騎兵連隊勤務を経て陸軍大学校で学び、先の大戦中は支那派遣軍の参謀や大本営陸軍参謀などを務められた。終戦時は少佐で、陸軍の方針には反対の立場を取られていた。この間の35年12月、三笠宮家を創立。41年10月、高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚された。

 戦後は東大文学部の研究生として西洋史や宗教史を修め、オリエント学者の道を歩まれた。55年から東京女子大や青山学院大の講師を務められ、75年にロンドン大の客員教授、85年には東京芸術大美術学部の客員教授にも就任。一方で、大戦中の軍部批判や、建国記念の日の制定に絡む「紀元節」復活反対の発言なども話題となった。

 百合子さまとの間に寛仁さま、桂宮さま、高円宮さま、近衛寧子(やすこ)さん、千容子(まさこ)さんの3男2女をもうけられた。2002年11月に高円宮さまが、12年6月に寛仁さまが、14年6月には桂宮さまが亡くなり、3人の男子ともに先立たれた。

 三笠宮さまの逝去により、皇室の方々は19人、うち皇位継承権を持つ男性皇族は4人になり、昭和天皇の弟は3人とも亡くなられたことになる。

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