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2016年12月29日 (木)

元俳優の根津甚八氏が死去

俳優として活躍した根津甚八(ねづ・じんぱち、本名・根津透=ねづ・とおる)氏が29日昼、深部静脈血栓症および肺塞栓症による肺炎のため都内の病院で死去した。69歳。山梨県出身。葬儀については故人の遺志により近親者のみの密葬を行う。同日、所属事務所が発表した。

根津氏は1969年に劇団「状況劇場」に入団、78年のNHK大河ドラマ「黄金の日日」で石川五右衛門役を演じ、黒澤明監督の映画「影武者」「乱」のほか、舞台など幅広く活躍した。2001年ごろから「右眼下直筋肥大」という目の病気を発症、芸能活動を縮小。04年に死亡交通事故を起こし、活動を自粛。以降、ブログなどでの活動以外、表舞台から姿を消していた。09年に鬱病を患い、持病の椎間板ヘルニアも悪化したため療養生活を送っていた。

10年に引退を発表し、その後は、演出家、脚本家として活動。15年に映画館監督の石井隆氏の要望に応じ、映画『GONIN サーガ』に出演。一度限りの銀幕復帰を果たしていた。

リンク:【訃報】根津甚八さん=俳優 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津さん 14日にアルバム発売したばかり…「完成楽しみ」と思い - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:無言の4時間ドライブ そして笑う/根津さんを悼む - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん訃報に名付け親の唐十郎さんは絶句 - 速報:Yahoo!ニュース.
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リンク:根津甚八さん死去 2000年以降は病との闘い…10年引退 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん死す 晩年は病魔と闘い…俳優業引退から6年で帰らぬ人に - 速報:Yahoo!ニュース.
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リンク:根津甚八さん死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん死去=大河ドラマや黒沢映画に出演 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:元俳優・根津甚八さん死去 昨年「GONIN サーガ」で1作限りの“復帰” - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八が69歳で逝去、黒澤明や石井隆の作品で活躍 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん略歴 黒澤映画で脚光浴びる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん死去 69歳 大河「黄金の日日」、黒澤作品など出演 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:元俳優の根津甚八さん死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん死去 昨年1度限りの俳優復帰「未練捨てて終止符を打てた」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん妻、闘病の苦悩語っていた TBSビビットで - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん死去 目、腰、うつで闘病…10年に俳優引退 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:元俳優の根津甚八氏が死去 69歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:元俳優・根津甚八さん、69歳で死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「影武者」など故黒沢明作品出演/根津甚八さん略歴 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:根津甚八さん死去、69歳 10年に俳優引退 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:元俳優の根津甚八さん死去 69歳…事務所が発表 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

【訃報】根津甚八さん=俳優
読売新聞 12/30(金) 9:48配信

 俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名・透=とおる)さんが、29日に肺炎で死去した。

 69歳だった。所属事務所によると、告別式は近親者で済ませる。

 山梨県出身。1969年に唐十郎さんが率いる劇団「状況劇場」に入り、看板役者となった。78年のNHK大河ドラマ「黄金の日日」で石川五右衛門役を演じて人気を博し、テレビドラマや映画などで広く活躍。80年には黒沢明監督の映画「影武者」に出演、同監督による85年の「乱」でも鮮烈な演技を見せた。代表作に、映画「さらば愛しき大地」「吉原炎上」などがある。

 近年は療養などで俳優活動から遠ざかっていたが、出演した映画「GONIN」(95年)の続編である「GONIN サーガ」(2015年公開)に登場。これが最後の出演作となった。


根津さん 14日にアルバム発売したばかり…「完成楽しみ」と思い
スポニチアネックス 12/30(金) 8:34配信

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アルバム「やすらぎ 根津甚八・男の哀歌」

 ◇根津甚八さん死去

 NHK大河ドラマ「黄金の日日」や黒澤明監督の映画「影武者」などに出演した元俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名透=とおる)さんが29日、肺炎のため都内の病院で死去した。69歳。うつ病や目の病気などで2010年に俳優業引退を表明していた根津さんだったが、14日にアルバム「やすらぎ 根津甚八・男の哀歌」を発売したばかりだった。

 1976年の初アルバム「―ゆきずり―根津甚八・男の哀歌」に収録した12曲とカバー曲5曲の計17曲を収めている。新たに録音し直した歌はないが、根津さんは所属事務所を通じて発売元のディレクターに「完成を楽しみにしています」と思いを伝えていたという。


無言の4時間ドライブ そして笑う/根津さんを悼む
日刊スポーツ 12/30(金) 7:54配信

 NHK大河ドラマ「黄金の日日」や映画「影武者」などで知られ、10年に俳優を引退していた根津甚八さん(本名・透=とおる)が29日昼、肺炎のため、都内の病院で死去した。69歳だった。

 とにかく、黙って、笑っている。そんな人だった。

 釣りが趣味と聞き、エッセーの連載記事「根津甚八のフィッシュ・オン」を企画、担当した。当時、新人の釣り記者だった私は、寡黙な彼に、とにかく毎日のように会いに行っていた。秋晴れのある日、都内の自宅にうかがうと、新車のポルシェが止まっていた。上機嫌そうにこう言って笑った。

 「秋田の渓流を見に行けば、慣らし運転は大丈夫だろ」

 私は黙って助手席に乗った。4時間ほどのドライブをほぼ無言で終え、自宅に戻った。秋田へは行かなかった。

 毛バリを巻くのが好きだと聞いていたので、巻く姿を見たいと伝えると、自宅に招き入れてくれた。1時間ほど無言。そして大きな目を輝かせ、完成品を手に満面の笑みで「どう?」。

 何て楽しそうな人生を生きている人なんだろう、そう思った。その後は、お目にかかるたびに「ロシアでベニザケを釣ろうぜ」「カナダに行こう」などと話しかけてくれた。同行取材はかなわなかったが、黙ってお供したかった。【元日刊スポーツ記者・荒牧公哉】


根津甚八さん訃報に名付け親の唐十郎さんは絶句
日刊スポーツ 12/30(金) 7:54配信

 俳優根津甚八さんの訃報が伝わった29日、芸能界から悲しみの声が上がった。

 根津さんが若き日に所属した劇団「状況劇場」主宰の劇作家唐十郎さん(76)は訃報を聞いて絶句したという。病気療養中だが、家族によると「亡くなったことを知らせると一瞬、言葉を失って驚いた表情を見せました」という。

 根津さんは69年から79年まで、アングラ演劇といわれた「状況劇場」に在籍。紅テントを拠点に、看板俳優として劇団の全盛期を支えた。芸名も、本名「根津」には真田十勇士の1人である「根津甚八」が合うと唐さんが命名。唐さんの家族は「遠くを見つめているようなまなざしで、根津さんとの思い出を懐かしんでいるようでした」と話した。


根津甚八さん死去 闘病15年 波乱の人生静かに幕
日刊スポーツ 12/30(金) 7:54配信

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80年4月 映画「影武者」公開で、劇場前に長蛇の列ができて顔もほころぶ根津甚八さん(右)。左は仲代達矢

 NHK大河ドラマ「黄金の日日」や映画「影武者」などで知られ、10年に俳優を引退していた根津甚八さん(本名・透=とおる)が29日昼、肺炎のため、都内の病院で死去した。69歳だった。体調悪化や人身事故などが重なり、うつ病に悩まされた。憂いのある演技と独特の存在感で多くの観客や視聴者を魅了した。葬儀・告別式は近親者で行う。

 関係者によると、根津さんは数カ月前から体調を崩して入院していた。所属事務所に先月、仁香(じんか)夫人から「体調が芳しくない」と連絡があった。容体はかなり悪かった。今月1日に69歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 15年ほど前から闘病を続けていた。02年、右目下直筋肥大で、ものが二重に見えてしまう複視など症状に悩まされ、手術を繰り返した。04年に都内の交差点で車を運転中、自転車に乗った男性をはねて死亡させる事故を起こした。その後、体調が悪化して芸能活動をしばらく休止した。復帰後もヘルニア手術の後遺症でつえを手放せなくなり、満足な仕事ができなかった。

 俳優業に強い執着と愛着を持っていた根津さんは09年、度重なる闘病などから、うつ病を患った。夫人は後に当時を「笑えないし、眠れない。体温調節もできなかった」と出演番組で明かした。投薬治療も始めたが好転しなかった。医師の薦めで日記もつけた。その中で復帰への強い意欲も示したが、「なぜ次々と試練が降り掛かる」「ほんの少しでも希望が欲しい」とつづり、「もう自分の力ではどうにもできない」など無力感や「ろくなことを考えない」と自己嫌悪も記していた。俳優生活40周年を迎えた10年、満足な演技ができないとして、夫人を通じて俳優引退を発表した。その後、自宅で療養を続けていた。

 69年に唐十郎氏の劇団「状況劇場」に入って俳優業をスタート。78年NHK大河ドラマ「黄金の日日」で松本幸四郎(当時市川染五郎)演じる主人公・助佐の友人、石川五右衛門を演じてお茶の間にその名が知れ渡った。ワイルドな風貌やニヒルで憂いのある演技、独特の存在感などが高く評価され、映画「影武者」「乱」など黒沢明監督作品にも出演し、日本を代表する名脇役として活躍した。

 昨年は、多くの作品に出演した石井隆監督の熱意に応える形で、映画「GONIN サーガ」に出演したが、あくまでも1度きりの復帰だった。4日間の撮影を終えると「天が再び機会を与えてくれるものなら、仕事を続けたかった思いももちろんある。でも今回やり遂げたことで、未練を捨てて、終止符を打てたと思う」とコメント。俳優復帰は、かなわないと自覚していた。

 ◆根津甚八(ねづ・じんぱち)1947年(昭22)12月1日、山梨県生まれ。独協大中退後の69年に唐十郎主宰の状況劇場に入り、70年に舞台「ジョン・シルバー 愛の乞食編」でデビュー。78年NHK大河ドラマ「黄金の日日」の石川五右衛門役で注目された。その後、「影武者」「乱」など黒沢明監督作品や、高倉健主演「駅 STATION」などの映画に出演。82年映画「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞主演男優賞。右目下直筋肥大の発症や、うつ病などもあって10年に俳優を引退。172センチ。


根津甚八さん死去 2000年以降は病との闘い…10年引退
スポニチアネックス 12/30(金) 7:01配信

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映画「GONIN サーガ」で1作限りの俳優活動を行った根津甚八

 NHK大河ドラマ「黄金の日日」や黒澤明監督の映画「影武者」などに出演した元俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名透=とおる)さんが29日、肺炎のため都内の病院で死去した。69歳。山梨県出身。故人の遺志で近親者のみで密葬を行う。うつ病や目の病気などで2010年に俳優業引退を表明。15年公開の映画「GONIN サーガ」に1作限定で復活し、ファンを感激させたが、これが最後の晴れ舞台となった。

 舞台、映画、ドラマに歌と幅広く活躍した根津さんが、29日の昼すぎに静かに息を引き取った。数カ月前に体調を崩して入院。関係者によると、近しい人と面会することも避け、最期は仁香夫人(54)との水入らずの時間を過ごしたようだ。

 15年ほど前から病との格闘の日々を送った。2001年ごろ、右目下直筋肥大という顔面の病気を発症。後遺症に悩まされ、次第に活動を縮小させた。さらに04年7月には被害者が死亡する交通事故を起こし、謹慎生活に入った。06年5月に立ち上げた自身のブログで活動休止中の様子をうかがわせたが、08年2月から更新していなかった。

 翌09年には仁香夫人が雑誌に手記を発表。根津さんがうつ病を患っていることと、持病の椎間板ヘルニアが悪化していることを明かした。療養生活は続いたが、10年9月に俳優業からの引退を表明。同時に闘病の様子と俳優時代を回顧した夫人著の「根津甚八」(講談社)が出版された。献身的に看病した仁香夫人はテレビのインタビューで「つらいことばかり降りかかってきた。なぜこの人と結婚したのかと思ったこともあった」と胸中を明かしていた。

 そんな根津さんを再び表舞台に引っ張り出したのが石井隆監督(70)だった。それが15年公開の「GONIN サーガ」。根津さんが扮した元刑事の氷頭要は、95年公開の前作のラストで銃に撃たれて誰もが死んだものと思ったが、生きていたという設定にして続編を計画。何度も自宅に足を運んで説得する監督に根津さんも「本をじっくり読んで、これなら今の自分にできるという気持ちが湧いてきた」と心動かし復帰を決めた。

 関係者によれば、根津さんの撮影が終わると、すさまじい役者魂に東出昌大(28)や桐谷健太(36)ら共演者やスタッフが感涙。根津さんも「やり遂げたことで、未練を捨てて終止符を打てたと思う」と笑みを浮かべたという。

 突然の悲報に石井監督は「凄い役者で大好きでした。色悪というか、何をやっても格好がいいものだから、アクションスターと呼ばれましたが、とても繊細で、でもカチンコが鳴ると捨て身で演じるから腰を痛めたり、いつも満身創痍(そうい)でした。もう一度だけスクリーンでカッコイイ根津さんを見たくて、根津さんのために書いたシナリオを、一昨年、10年がかりで成立させたのですが、ただただ残念です」とコメントを寄せた。

 唐十郎主宰の「状況劇場」の出身。芸名は唐が真田十勇士の根津甚八に絡めて命名。勇士の甚八は大坂夏の陣で幸村の影武者となって討ち死にしたが、大河ドラマが「真田丸」だった年の根津さんの死。運命的なものを感じさせる。

 ◆根津 甚八(ねづ・じんぱち)本名・根津透。1947年(昭22)12月1日、山梨県生まれ。独協大中退後の69年に状況劇場に入団し、翌年の舞台「ジョン・シルバー 愛の乞食篇」でデビュー。75年にフジテレビ「娘たちの四季」でドラマ初出演。78年のNHK大河ドラマ「黄金の日日」で人気俳優となった。79年に状況劇場を退団。82年の「さらば愛しき大地」「この子の七つのお祝いに」の演技で日本アカデミー賞優秀主演男優賞などを受賞。黒澤明監督の「影武者」(80年)や「乱」(85年)、降旗康男監督の「駅 STATION」(81年)など多数の作品で活躍した。


根津甚八さん死す 晩年は病魔と闘い…俳優業引退から6年で帰らぬ人に
サンケイスポーツ 12/30(金) 7:00配信

 NHK大河ドラマ「黄金の日日」や映画「影武者」などで知られ、2010年に病気を理由に俳優を引退した根津甚八(ねづ・じんぱち、本名・根津透=ねづ・とおる)さんが29日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなった。69歳だった。所属事務所によると、数カ月前に体調を崩して入院。一度限りの役者復帰を果たした昨年9月公開の映画「GONIN サーガ」が遺作となった。

 数々の作品で、圧倒的な存在感を見せてきた根津さん。引退から6年で静かに逝った。

 所属事務所によると、数カ月前から体調を崩し、都内の病院に入院していたが、この日昼、深部静脈血栓症および肺塞栓症による肺炎のため帰らぬ人に。最後は1994年に結婚した夫人の仁香さんに見守られながら息を引き取った。

 2人の間には今年20歳になった長男がいるが、息子が看取ったかは不明。葬儀は故人の遺志により、近親者のみの密葬になるという。

 1969年に唐十郎(76)主宰の状況劇場に入団し、看板俳優として活躍。78年のNHK大河「黄金の日日」で石川五右衛門役を演じ、一躍脚光を浴びた。

 他にも黒澤明監督の映画「影武者」や「乱」、降旗康男監督(82)の「駅 STATION」など多数の話題作に出演。しかし2001年に「右目下直筋肥大」の手術をして以降は後遺症に悩み、徐々に活動を縮小。04年に自動車を運転中に死亡事故を起こしてからは、活動を自粛していた。

 その後は病との闘いが続いた。09年に鬱病を患い、持病の椎間板ヘルニアも悪化。満足する演技が困難になったとして10年に俳優業引退を発表。だが昨年、親交の深い石井隆監督(70)の熱烈オファーを受け、ほとんど体を動かせない状態ながら映画「GONIN サーガ」で一度限りの復帰を果たした。

 ちょうど50本目の映画出演作。根津さんは当時「久しぶりの撮影現場に気持ちが高揚し、自分はこの仕事が心底好きなんだと改めて感じた」としつつ、「やり遂げたことで、未練を捨てて終止符を打てた」と改めて俳優業との決別を宣言した。

 復帰作で主演の東出昌大(28)ら若手をうならせた渾身の役者魂は、確実に後輩たちに引き継がれるはずだ。


根津さん 1回限りの役者復帰 昨年「GONIN サーガ」が遺作に
スポニチアネックス 12/30(金) 6:30配信

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映画「GONIN」の製作発表が行われ、主役5人が初顔合わせ(前列左から佐藤浩市、本木雅弘、後列左から椎名桔平、根津甚八、竹中直人)

 ◇根津甚八さん死去

 根津さんは昨年9月、遺作となった映画「GONIN サーガ」の初日舞台あいさつに手紙を寄せた。

 手紙では「演じることは自分にとって生きることそのものでした。それができなくなり、引退は諦めでもありました。諦めていた自分に、再び演じることの楽しさを味わわせてくれた監督に心からのお礼を申し上げます」と感謝。同作に主演し、事務所の後輩でもある東出昌大に対し「たすきを受け取ったと言ってくれた東出くん。その言葉で、演じたいのに演じることのできない無念を断ち切ることができました」とつづり、「若い俳優たちの姿を見て、自分の思いを次の世代が背負ってくれる、自分は精いっぱいのことをしたんだという気持ちで俳優人生を締めくくることができました」と万感の思いを明かした。手紙を代読した東出は目を潤ませた。

 ▼東出昌大 はっきりと、畏敬の念を抱いております。どれだけの孤独を抱え続け、どれほどの努力を積み重ねてこられたのかは想像に及びませんが、ずっと闘ってこられたのだろうと思います。今はゆっくり休んでください。心よりご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。


根津甚八さん死去 視覚障がい、ヘルニア、うつ…病に苦しみ10年俳優引退
スポーツ報知 12/30(金) 6:05配信

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根津甚八さん

 2010年に芸能界を引退した元俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名・根津透=ねづ・とおる)さんが29日昼、都内の病院で深部静脈血栓症及び肺塞栓症による肺炎のため死去した。69歳だった。根津さんは視力に障害が出る右目下直筋肥大や体のまひなどを発症。04年に人身事故を起こしたことから、うつにも悩まされ、引退後は療養していた。15年夏には1作限りのスクリーン復帰を果たした。根津さんの遺志により近親者のみで密葬を行う。

 味のある渋い演技で、数々の名作を残した名俳優が天国に旅立った。関係者によると、根津さんはかねて療養中だったが、2、3か月前に体調を崩し入院。この日の昼過ぎに家族にみとられ息を引き取った。

 根津さんは、2002年ごろから物が二重に見えるなどの視覚障害が出る右目下直筋肥大、さらにヘルニア、体のまひに悩まされていた。04年には自動車を運転中に自転車の男性をはね、相手が死亡する人身事故を起こし、自身も足を負傷。08年ごろから車いすで過ごすようになり、うつ状態でリハビリ生活を送ったこともあった。10年には妻の仁香(じんか)さんが著書「根津甚八」で「思うような演技ができない」ことを理由に、俳優引退を公表していた。

 1作限りの復活がかなったのは昨年9月に公開された映画「GONIN サーガ」。根津さんが95年に主演した「GONIN」の続編にあたり、盟友でもある石井隆監督(70)が自宅に何度も出向き、口説き落とした。根津さんは前作と同じ元刑事役で出演。14年夏の撮影では、まひが残る体をさらけ出し、石井監督の激しい演出に応えた。過去の因縁に決着をつけるシーンは鬼気迫るものだった。

 劇作家・演出家の唐十郎さん(76)が主宰していた状況劇場出身。芸名は唐さんが、名字の「根津」に合うものとして真田十勇士の名から名付けたと言われている。在団中の78年、NHK大河ドラマ「黄金の日日」の石川五右衛門役で一躍ブレイク。翌年に劇団を退団後は80年の「影武者」、85年の「乱」など黒澤明監督の映画で存在感を発揮していた。

 ◆根津 甚八(ねづ・じんぱち)本名・根津透。1947年12月1日、山梨・都留市生まれ。69年に唐十郎の状況劇場に入団し、翌年の舞台「ジョン・シルバー 愛の乞食篇」でデビュー。75年にフジテレビ系「娘たちの四季」でテレビドラマ初出演。77年のTBSドラマ「冬の運動会」、78年のNHK大河ドラマ「黄金の日日」で人気に。79年に劇団を退団後は、映画俳優や歌手など多岐に活躍した。その他の出演作に「吉原炎上」(87年)など。家族は妻と長男。


根津甚八さん、唐十郎氏の演劇論「特権的肉体論」に感銘
スポーツ報知 12/30(金) 6:03配信

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根津甚八さん

 2010年に芸能界を引退した元俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名・根津透=ねづ・とおる)さんが29日昼、都内の病院で深部静脈血栓症及び肺塞栓症による肺炎のため死去した。69歳だった。

 根津さんは視力に障害が出る右目下直筋肥大や体のまひなどを発症。04年に人身事故を起こしたことから、うつにも悩まされ、引退後は療養していた。15年夏には1作限りのスクリーン復帰を果たした。根津さんの遺志により近親者のみで密葬を行う。

 父親が歯科医だった根津さんは全共闘運動盛んなころ、唐十郎氏の演劇論「特権的肉体論」に感銘を受け、大学を中退して「状況劇場」へ。“赤テントのプリンス”と23歳で注目される存在となった。「黄金の日日」で人気はさらに全国区に。放送が終了し、舞台に戻ると劇団にはファンが殺到するようになる。本人は残るつもりだったが、驚異的な人気は劇団のヒエラルキーやアングラの世界からずれていく。居づらくなり、悩んだ末、去るしかなかった。その後の活躍を見れば、この選択は間違っていなかった。


根津甚八さん逝く 波乱万丈の二枚目俳優 大河「黄金の日日」黒澤映画など出演
デイリースポーツ 12/30(金) 5:59配信

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 亡くなった根津甚八さん

 大河ドラマ「黄金の日日」や映画「影武者」などに出演し、俳優として活躍した根津甚八(ねづ・じんぱち、本名透=とおる)さんが29日昼、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。69歳。山梨県出身。01年に右眼下直筋肥大を発症するなど体調を崩し、近年は入退院を繰り返していた。2010年に俳優を引退。盟友・石井隆監督(70)のために1作限りで復帰した15年公開の映画「GONIN サーガ」が遺作となった。故人の遺志により、葬儀は近親者のみの密葬を執り行う。

 壮絶な人生を歩んだ実力派が旅立った。所属事務所によると、肺炎のため、かねて病気療養していた都内の病院で昼ごろに亡くなったという。

 96年に長男が誕生するなど順風満帆に思われた根津さんの家庭生活だったが、01年に右眼下直筋肥大という病気を患った。手術を受けたことで顔のバランスが崩れてしまい、耳の軟骨を注入するなど何度も目の周辺にメスを入れた。表情の演技に支障をきたし、理想とする芝居とのギャップに苦しんだ。

 04年には自動車を運転中に自宅近くで事故を起こし、被害者が死亡。活動はほぼ休止状態となり、05年に持病のヘルニアを手術してからは、つえでの生活を余儀なくされた。15歳年下の妻・仁香さんによると、心身の不調からうつ病にも悩まされていたという。

 自身の目指す演技ができなくなったことで、2010年に俳優引退を発表。近年はマヒが残ることから車いすでの生活を送っていた。引退後は公の場に姿を見せていなかったが、事務所の後輩でもある俳優の東出昌大(28)が主演した映画「GONIN サーガ」で11年ぶりに1作限りの復帰を果たした。

 メーンキャストだった「GONIN」(95年公開)の19年後を描いた続編で、映画50作目の節目。自身最多8作品でタッグを組む石井監督からの熱烈なオファーを受け、最後の演技を決意。2014年6月の撮影時には、植物状態から意識を取り戻した人物を、這(は)いながら演じるなど鬼気迫る姿を披露した。往年の面影よりも体重が増え、髪は白くなっていたが、存在感は健在だった。役者魂を振り絞り「未練を捨てて、終止符を打てた」と自身が語る遺作となった。

 私生活でも3度の結婚を経験。公私ともに浮き沈みの大きい生涯を送り、多くの人に愛された二枚目だった。


<根津甚八さん>69歳で死去
まんたんウェブ 12/29(木) 20:50配信

 2010年に俳優を引退した根津甚八(本名・根津透)さんが29日、肺炎のため死去したことが分かった。69歳だった。所属事務所がファクスで発表した。

 所属事務所は「かねてより病気療養中のところ深部静脈血栓症および肺塞栓症による肺炎のため本日12月29日昼、都内病院にて逝去いたしました」とし、葬儀は「故人の遺志により近親者のみの密葬を執り行います」とした。

 根津さんは1947年12月1日生まれ。山梨県出身。黒澤明監督の「影武者」(80年)、「乱」(85年)などに出演し、82年の「さらば愛しき大地」(柳町光男監督)で、日本アカデミー賞優秀主演男優賞、キネマ旬報主演男優賞などを受賞した。2010年に俳優業を引退。15年の映画「GONIN サーガ」(石井隆監督)で一作限りの俳優復帰をした。


根津甚八さん死去 “生みの親”唐十郎は絶句
デイリースポーツ 12/29(木) 20:43配信

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 亡くなった根津甚八さん

 元俳優の根津甚八さんが、29日に亡くなった。根津さんが俳優としての第一歩を踏み出した劇団の「状況劇場」を主宰していた劇作家・俳優の唐十郎(76)は訃報に絶句していたという。劇団唐組の関係者が明かした。

【写真】根津甚八さん“最初で最後”の俳優復帰

 唐は2012年5月26日に自宅前で転倒した際に頭部を強打。外傷性脳内血腫と脳挫傷と診断され、その後リハビリを続けている。追悼コメントは発表しなかったが、“俳優・根津甚八”の生みの親とも言える立場なだけに、訃報には驚きを隠せない様子だったという。

 根津さんは1969年から79年まで唐が主宰する「状況劇場」に所属。唐とは後にたもとを分かったが、アングラ劇団で芝居への情熱を燃やした“同志”でもあった。


根津甚八さん死去 うつ病、死亡事故、目の病気で手術…孤独とも闘った晩年
デイリースポーツ 12/29(木) 20:37配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年に俳優を引退した根津甚八=本名・根津透=さんが29日、都内の病院で亡くなった。69歳。かねて病気療養中だった。所属事務所は報道各社にあてたFAXで、死因が深部静脈血栓症及び肺塞栓症による肺炎のためと説明した。葬儀については、故人の遺志により近親者のみの密葬を執り行うという。

【写真】死亡事故を起こし、憔悴し被害者の通夜に出席した根津甚八さん

 根津さんは1978年、大河ドラマ「黄金の日日」で脚光を浴び、82年の映画「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞。ほかに「吉原炎上」などでも存在感が光った。黒澤明監督の映画「影武者」や「乱」などにも出演。憂いのある色気は男女問わず、多くのファンを魅了した。演技同様に寡黙な人柄だった。

 根津さんは01年秋ごろからうつ病を患っていた。04年7月には、自宅近くの交差点で交通事故を起こし、被害者が死亡。心に深い傷を負い、俳優活動をしばらく休止した。晩年は持病のヘルニアや目の病気など、けがや病気との闘いの連続だった。

 94年3月に15歳年下の仁香さん(54)と結婚。96年には長男が誕生。順風満帆に思われた家庭生活だったが、01年に右目下直筋肥大という病気を患った。右目の下まぶたが垂れ下がり、物が二重に見える「複視」という症状が出て、日常生活が不自由となったため、下まぶたを整形する手術を受けた。

 視界は改善されたが、顔の左右のバランスが崩れてしまい、その後何度も整形手術を受けた。しかし、元の顔に戻らず、「これではテレビには出られない」と大きなショックを受けたという。

 妻・仁香さんによると、同じころに最愛の母をなくし、金銭トラブルにも見舞われ、心身ともにダメージを負った。10年9月。俳優引退を発表した。


根津甚八さん死去「生前のご厚誼を深謝」所属事務所がコメント
スポーツ報知 12/29(木) 19:48配信

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根津甚八さん

 元俳優の根津甚八さんが29日午後に死去していたことが、関係者の話で明らかになった。69歳だった。

 所属事務所が報道各社へファクスでコメントを寄せた。

 「弊社所属の根津甚八(本名・根津透)がかねてより病気療養中のところ、深部静脈血栓症及び肺塞栓症による肺炎のため、本日12月29日昼、都内病院にて逝去いたしました。ここに生前のご厚誼を深謝するとともに、謹んでお知らせ申し上げます。尚、葬儀につきましては、故人の遺志により、近親者のみの密葬を執り行います」


元俳優の根津甚八氏、死因は肺炎
サンケイスポーツ 12/29(木) 19:24配信

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根津甚八氏(写真:サンケイスポーツ)

 元俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名・根津透=ねづ・とおる)氏が29日昼、肺炎のため東京都内の病院で死去した。69歳。山梨県出身。所属事務所が明らかにした。葬儀は根津氏の遺志により、近親者のみで執り行う。

 根津氏は1978年、NHK大河ドラマ「黄金の日日」に石川五右衛門役で出演、80年に映画「影武者」に出演するなど俳優として活躍。2002年頃から右目下直筋肥大という顔面の病気を患い、芸能活動を縮小。04年7月に死亡交通事故を起こし、しばらくの間、活動を停止。09年に鬱病を患い、持病の椎間板ヘルニアも悪化したため療養生活を送っていた。

 10年に引退を発表し、その後は、演出家、脚本家として活動。表舞台からは遠ざかっていた。15年に映画館監督の石井隆氏(70)の要望に応じ、映画『GONIN サーガ』に出演。一度限りの銀幕復帰を果たしていた。

 芸名は、真田十勇士の根津甚八に由来し、劇団「状況劇場」所属時に、主宰の唐十郎が苗字の「根津」に合う芸名として命名した。


根津甚八さん死去 死因は肺炎…哀愁のある演技、寡黙な人柄で魅了
デイリースポーツ 12/29(木) 19:22配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年に俳優を引退した根津甚八=本名・根津透=さんが29日、都内の病院で亡くなった。69歳。かねて病気療養中だった。所属事務所が報道各社にFAXで死因を公表。「深部静脈血栓症及び肺塞栓症による肺炎のため本日12月29日昼、都内病院にて逝去いたしました」と記されている。

【写真】根津甚八さん“最初で最後”の俳優復帰

 なお、葬儀については、故人の遺志により近親者のみの密葬を執り行うという。

 根津さんは1978年、大河ドラマ「黄金の日日」で脚光を浴び、82年の映画「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞。ほかに「吉原炎上」などでも存在感が光った。黒澤明監督の映画「影武者」や「乱」などにも出演。哀愁のある色気は男女問わず、多くのファンを魅了した。演技同様に寡黙な人柄だった。

 根津さんは1993年に撮影で落馬し腰椎(ようつい)を損傷。2001年ごろ右目下直筋肥大という目の病気を発症。物が二重に見える「複視」に苦しみ、右目下まぶたが垂れ下がってきたことから、俳優の“顔”を取り戻すため、何度も整形手術を繰り返した。

 04年7月に人身事故を起こし、被害者が亡くなってからは、公の場に出ることがなくなっていた。

 01年秋ごろからうつ病も患っており、持病の椎間板ヘルニアも悪化したことなどで、10年9月に俳優を引退した。

 2015年9月に公開された東出昌大主演の映画「GONIN サーガ」で、石井隆監督との男の友情から、一度限りの俳優復帰を果たしており、これが遺作となった。


元俳優・根津甚八さんが死去 6年前に俳優業を引退
J-CASTニュース 12/29(木) 18:45配信

 元俳優の根津甚八さんが2016年12月29日午後に亡くなった。69歳だった。所属事務所が同日、発表した。

 かつての名優も近年は病気に悩まされ、目立った活動を行っていなかった。

■「BOØWY」高橋まことも「安らかに」と追悼

 1947年、山梨県都留市生まれ。黒澤明監督の「影武者」、五社英雄監督の「吉原炎上」、原田真人監督の「金融腐蝕列島 呪縛」、降旗康男監督の「駅 STATION」などの人気映画に出演し、82年に日本アカデミー賞主演男優賞を受賞した。プライベートでは病気に悩まされていた。02年ごろ右目下直筋肥大を発症。09年にはうつ病の発症や持病の椎間板ヘルニアの悪化も報じられ、10年に俳優業を引退した。

 発表をうけ、ツイッターでは

  「びっくりしました。」
  「俳優を引退されてたのね」
  「最近お見かけしないと思ったら」

とファンから驚きの声が上がった。

 また、東京芸術劇場の公式アカウントは同日、「ご冥福をお祈りいたします」と追悼。ロックバンド「BOØWY」の元ドラマー、高橋まことさんも「ボウイのベルリンでの録音の裏話、佐久間(正英)さんが根津さんのアルバムをベルリンでやった事からの繋がりでした。安らかに」とツイートした。


根津甚八さん 14日にCD発売したばかり…歌手としても哀愁の魅力放つ
デイリースポーツ 12/29(木) 18:42配信

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14日に発売された根津甚八さんのアルバム

 2010年に俳優を引退した根津甚八=本名・根津透=さんが29日、亡くなった。69歳。1978年、大河ドラマ「黄金の日日」で脚光を浴び、82年の映画「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞。ほかに「吉原炎上」などでも存在感が光った。黒澤明監督の映画「影武者」や「乱」などにも出演。演技同様に寡黙な人柄だった。

 根津さんは、今月14日にCDアルバム「やすらぎ 根津甚八・男の哀歌」を発売していた。発売元のテイチクエンタテイメントによると、同アルバムは、1976年に発表したアルバム「ゆきずり」の12曲に加え、カバー曲などテイチク在籍時に収録した音源のすべてとなる17曲を収録したもの。

 根津さんが新たにレコーディングした楽曲はなかったが、男の生き様や哀愁、優しさ、強さ、もろさなど、自身の個性が豊かに表現された味わい深い歌が収録された作品の完成に、テイチクの関係者は「ずっと完成を楽しみにされていたようです」と語った。


根津甚八さん死去、69歳…「影武者」など出演
読売新聞 12/29(木) 18:37配信

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根津甚八さん

 俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名・透=とおる)さんが、29日に肺炎で死去した。69歳だった。

 所属事務所によると、告別式は近親者で済ませる。

 山梨県出身。1969年に唐十郎さんが率いる劇団「状況劇場」に入り、看板役者となった。78年のNHK大河ドラマ「黄金の日日」で石川五右衛門役を演じて人気を博し、テレビドラマや映画などで広く活躍。80年には黒沢明監督の映画「影武者」に出演、同監督による85年の「乱」でも鮮烈な演技を見せた。代表作に、映画「さらば愛しき大地」「吉原炎上」などがある。

 近年は療養などで俳優活動から遠ざかっていたが、出演した映画「GONIN」(95年)の続編である「GONIN サーガ」(2015年公開)に登場。これが最後の出演作となった。


根津甚八さん 04年に交通死亡事故で心に深い傷…うつ病も悪化
デイリースポーツ 12/29(木) 18:34配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年に俳優を引退した根津甚八=本名・根津透=さんが29日、亡くなった。69歳。1978年、大河ドラマ「黄金の日日」で脚光を浴び、82年の映画「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞。ほかに「吉原炎上」などでも存在感が光った。黒澤明監督の映画「影武者」や「乱」などにも出演。演技同様に寡黙な人柄だった。

【写真】死亡事故を起こし、憔悴し被害者の通夜に出席した根津甚八さん

 根津さんは1993年に撮影で落馬し腰椎(ようつい)を損傷。2001年ごろ右目下直筋肥大という目の病気を発症。物が二重に見える「複視」に苦しみ、その後、右目の下まぶたが垂れ下がる症状が出て、何度も整形手術を繰り返した。

 04年7月に自身が運転する車で交通死亡事故を起こし、被害者が亡くなってからは、公の場に出ることがなくなっていた。01年からはうつ病も患い、事故をきっかけに心に深い傷を負い、症状は悪化した。持病の椎間板ヘルニアも悪化したことなどで、10年9月に俳優を引退した。

 根津さんは交通死亡事故をきっかけに、心身ともに不調が続いた。04年7月6日、東京都目黒区内の交差点で、自身が運転する乗用車で、自転車で交差点を横切ろうとした男性(当時67歳)をはね、男性は頭を強く打ち、同日死亡した。

 都内で営まれた通夜には根津さんも参列したが、顔は青白く、妻らに両脇を抱えられ、片足を引きずるようにフラフラしながら斎場に入った。とても取材に対応できる状態ではなく、マスコミ各社には直筆署名入りのファクスで「○○(被害者)さん、もう私の声など届きようもなく、どんな言葉を並べようが、許されないことは重々承知しておりますが、言わせて下さい。本当に申し訳ありませんでした」などと記してあった。


<訃報>根津甚八さん69歳=元俳優
毎日新聞 12/29(木) 17:58配信

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根津甚八さん

 ニヒルな風貌で映画やテレビに幅広く活躍した元俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち<本名・透=とおる>)さんが29日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。69歳。葬儀は近親者で営む。

 1969年に唐十郎さんの状況劇場に入団し、70年に初舞台を踏む。「唐版・風の又三郎」などに主演し、同劇場を代表する二枚目俳優となった。78年にNHK大河ドラマ「黄金の日日」の石川五右衛門役で人気に。79年に退団した後、黒沢明監督の「影武者」「乱」をはじめとする映画やテレビドラマに数多く出演した。2010年、目の病気の後遺症に悩まされ俳優引退を表明。15年には映画「GONIN サーガ」で一度限りのスクリーン復活を果たした。


元俳優の根津甚八さん死去 69歳
オリコン 12/29(木) 17:45配信

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根津甚八さん

 元俳優の根津甚八(本名・根津透)さんが29日昼、「深部静脈血栓症」及び「肺塞栓症」による肺炎のため亡くなった。69歳だった。同日、所属事務所が発表した。

■根津甚八さんのプロフィール&出演作

 根津さんは、2001年に右眼下直筋肥大の病気で複視を患いながらも俳優業を続けていたが、映画『るにん』(04年)の出演を最後に役者としての活動を休止。復帰のためのリハビリとトレーニングを続けるも、10年に発行された書籍『根津甚八』のなかで事実上の俳優業の引退を表明。15年9月に公開された東出昌大主演の映画『GONIN サーガ』(石井隆監督)に1作限りの“復帰”を果たしたが、再び療養生活を送っていた。


根津甚八さん最後のブログで「一回り大きくなってお目にかかりたい」
デイリースポーツ 12/29(木) 17:43配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年9月に俳優引退を発表した根津甚八=本名・根津透さん=さんが29日、亡くなったことがわかった。69歳だった。所属事務所が発表した。事務所への取材では、この日昼過ぎに亡くなったと連絡が入ったという。根津さんは目の病気や持病の腰痛、うつで闘病し、10年9月に引退を発表した。

【写真】根津甚八さん“最初で最後”の俳優復帰

 最後のブログ更新は08年2月8日。根津さんの看病を続けてきた15歳年下の妻・仁香さんが07年に転倒して、左膝を陥没骨折。今後について考えるきっかけになったことを伝えていた。【以下、08年2月8日のブログ全文】

 「永らくご無沙汰しておりました2008年02月08日」

 皆さん、いかがお過ごしですか? 根津甚八です。

 永らくご無沙汰しておりました。ブログを休んでいたことで、皆様にはご心配をかけてしまいました。申し訳ありません。

 その間、たくさんのメッセージをありがとうございました。コメントのひとつひとつに、心から感謝しています。

 妻の怪我を機に、あれこれ自分を振り返り、考えていました。

 去年の12月に還暦を迎えました。60歳になった今、思うところあって、これからの生き方を模索しています。

 今しばらく、じっくり考える時間、充電する時間をいただきたいと考えています。

 というわけで、このブログも一旦お休みさせてください。

 今より一回り大きくなって、皆様にお目にかかりたいと思います。

 それまで、どうぞお元気で。感謝をこめて。


根津甚八さん死去
時事通信 12/29(木) 17:39配信

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渋くニヒルな演技で知られた俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名透=とおる)さんが29日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。69歳だった。


根津甚八さん死去=大河ドラマや黒沢映画に出演
時事通信 12/29(木) 17:28配信

 渋くニヒルな演技で知られた俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名透=とおる)さんが29日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。

 69歳。山梨県出身。葬儀は近親者のみで行う。

 強い意志を秘めた寡黙な役柄などで存在感を発揮した。唐十郎さん主宰の劇団「状況劇場」を経て映画やドラマで活躍。NHK大河ドラマ「黄金の日日」の石川五右衛門役などで人気を集め、1982年の映画「さらば愛(いと)しき大地」などに主演。黒沢明監督の映画「影武者」「乱」にも主要な役で出演した。

 所属事務所によると、目の病気などを患い、近年は活動を休止していたが、昨年、9年ぶりに映画「GONINサーガ」に出演。同作が俳優として最後の仕事になった。数カ月前から体調が悪化し、入院していたという。


元俳優・根津甚八さん死去 昨年「GONIN サーガ」で1作限りの“復帰”
東スポWeb 12/29(木) 17:24配信

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元俳優・根津甚八さん

 黒澤明監督の映画「影武者」の出演などで知られる元俳優・根津甚八(本名・根津透)さんが29日、死去したことがわかった。69歳だった。

 根津さんは1993年に撮影で落馬して腰椎を損傷。2001年ごろに右眼下直筋肥大を発症し、04年に起こした交通事故以後、表舞台に出ることはなかった。その後うつ状態になり、リハビリを続けていたが、10年に俳優引退を発表。それでも15年9月に公開された東出昌大主演の映画「GONIN サーガ」(石井隆監督)に1作限りの“復帰”を果たしファンを喜ばせたが、再び療養生活を送っていた。

 69年に唐十郎が主宰する状況劇場に入団した根津さんは、78年にNHK大河ドラマ「黄金の日日」に石川五右衛門役で出演し、注目された。79年に状況劇場を退団し、80年に「影武者」、85年に「乱」と黒沢作品に出演したほか、多くの映画やテレビドラマに出演。82年には映画「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞した。


根津甚八が69歳で逝去、黒澤明や石井隆の作品で活躍
映画ナタリー 12/29(木) 17:18配信

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根津甚八

根津甚八が本日12月29日昼に逝去したことを所属事務所が発表した。69歳だった。

かねてより病気療養中だった根津は、深部静脈血栓症および肺塞栓症による肺炎のため、東京都内の病院にて息を引き取った。本人の遺志により葬儀は近親者のみの密葬となる。

唐十郎が主宰する状況劇場からキャリアをスタートさせた根津は、その後大河ドラマ「黄金の日日」、黒澤明の「影武者」、柳町光男の「さらば愛しき大地」などに出演。2010年に俳優業を引退するも、多数の作品でタッグを組んできた石井隆の要望に応え、2015年公開の「GONIN サーガ」に出演。遺作となった。


根津甚八さん略歴 黒澤映画で脚光浴びる
デイリースポーツ 12/29(木) 17:12配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年に俳優を引退した根津甚八さんが29日、亡くなったことがわかった。69歳だった。所属事務所が発表した。事務所への取材では、この日昼過ぎに亡くなったと連絡が入ったという。根津さんは目や腰、うつで闘病し、10年9月に引退を発表した。

【写真】1976年撮影 若き日の根津甚八さん

 根津さんは1947年山梨県出身。1969年に劇団・状況劇場に入団、1975年「娘たちの四季」でエランドール賞を受賞。同年、「濡れた賽の目」で映画デビュー。1978年NHK大河ドラマ「黄金の日日」に出演。1980年に黒澤明監督の「影武者」で脚光を浴びる。

 1982年「さらば愛しき大地」でキネマ旬報主演男優賞、日本アカデミー賞主演男優賞受賞。1985年に再び黒澤明監督「乱」に出演し評価を高めた。

 1993年に撮影で落馬し腰椎を損傷。その後も目の病気やうつ病、椎間板ヘルニアなどを患い、2010年9月に俳優を引退し、表舞台から遠ざかったが、2015年に「GONINサーガ」で1作限定で復帰したのが遺作となった。


根津甚八さん死去 69歳 大河「黄金の日日」、黒澤作品など出演
スポニチアネックス 12/29(木) 16:58配信

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根津甚八さん(97年撮影)

 俳優として活躍した根津甚八(ねづ・じんぱち、本名透=とおる)さんが29日昼、深部静脈血栓症および肺塞栓症による肺炎のため都内の病院で死去した。69歳。山梨県出身。葬儀については故人の遺志により近親者のみの密葬を行う。同日、所属事務所が発表した。

 1969年に劇団「状況劇場」入り。78年のNHK大河ドラマ「黄金の日日」で石川五右衛門役を演じ、黒澤明監督の映画「影武者」「乱」のほか、舞台など幅広く活躍した。2001年ごろから「右眼下直筋肥大」という目の病気を発症。04年には東京都目黒区内で被害者が亡くなる人身事故を起こし活動を自粛。以降、ブログなどでの活動以外、表舞台から姿を消していた。10年に自身が万全の状態で演技をするのが困難となり、引退していたが、昨年のバイオレンスアクション作「GONIN サーガ」に1作限定で出演した。


元俳優の根津甚八さん死去
産経新聞 12/29(木) 16:45配信

 映画やテレビドラマ、舞台で活躍した元俳優の根津甚八さんが29日、死去したことが分かった。所属事務所に同日昼ごろ、連絡が入ったという。69歳だった。

 根津さんは平成13年ごろに目の病気を発症、治療を続けていたが後遺症などに悩まされ、22年9月、所属事務所が俳優活動の引退を発表、演出家や脚本家として活動するとしていた。

 所属事務所のホームページなどによると、根津さんは昭和22年12月1日生まれ。57年には日本アカデミー賞主演男優賞を受賞した。

 映画では黒澤明監督の「影武者」、降旗康男監督の「駅 STATION」、五社英雄監督の「吉原炎上」、原田真人監督の「金融腐蝕列島 呪縛」 などに出演。平成27年には石井隆監督の代表作「GONIN」(7年)の続編「サーガ」に一作限りで復活した。

 テレビドラマではNHKの連続テレビ小説「ほんまもん」(13年)などに出演した。


根津甚八さん死去 昨年1度限りの俳優復帰「未練捨てて終止符を打てた」
デイリースポーツ 12/29(木) 16:44配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年に俳優業からの引退を発表していた根津甚八=本名・根津透=さんが29日、亡くなったことがわかった。69歳だった。所属事務所が発表した。事務所への取材では、この日昼過ぎに亡くなったと連絡が入ったという。根津さんは俳優引退後、ヘルニアなどの後遺症でマヒが残るため車イス生活を送り、公の場に姿を見せていなかったが、2015年9月に公開された東出昌大主演の映画「GONIN サーガ」で“最初で最後”の俳優復帰を果たしており、これが遺作となった。

【写真】ピストルを構え、熱演する根津甚八さん

 俳優業を引退していた根津さんは過去7作出演していた盟友・石井隆監督のために最初で最後の俳優復帰。ちょうど映画出演50作目で、「やり遂げたことで、未練を捨てて、終止符を打てた」と俳優人生に区切りを付けるコメントを発表していた。

 根津さんは一度限りの俳優復帰にあたり「自分自身が志すような演技者であることが困難になったため、引退を決めた。石井監督でなければ、この仕事は受けなかった」と明かしていた。


根津甚八さん妻、闘病の苦悩語っていた TBSビビットで
デイリースポーツ 12/29(木) 16:44配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年に俳優を引退した根津甚八さんが29日に69歳で亡くなった。所属事務所が発表した。事務所への取材では、この日の昼過ぎに亡くなったと連絡が入ったという。

 根津さんの妻・仁香さんは2015年9月、TBS系情報番組「白熱ライブ ビビット」のインタビューに答え、「うつ」「椎間板症」など、さまざまな病に襲われ車いす生活となった夫に「本当に辛いことばかり降りかかってくるような…。なんでこんな人と結婚したんだろうって思ったこともたくさんあった」と苦悩を告白。

 また引退を宣言した後、2015年に東出昌大主演の「GONIN サーガ」で1作限りの出演を決意したことにも、根津は仁香さんに「できるか、できないか…でもできるものであればやりたい」と思いを語っていたことも明かしている。

 結婚して以来、「最初で最後」の撮影現場に立ち会った仁香さんは「根津の映画への愛を感じました」と語り、完成作は「2人で見ました。何かを話したわけではないけど、多分、同じ気持ち」と、“遺作”となってしまった作品を夫婦で鑑賞したことも明かした。

 あまりにも多くの苦難に見舞われた仁香さんだが、インタビュー最後には「愛しています」と夫への愛を語っていた。


根津甚八さん死去 目、腰、うつで闘病…10年に俳優引退
デイリースポーツ 12/29(木) 16:27配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年に俳優を引退した根津甚八さんが29日、亡くなったことがわかった。69歳だった。所属事務所が発表した。事務所への取材では、この日昼過ぎに亡くなったと連絡が入ったという。根津さんの晩年は、ケガや病気との闘いの連続だった。

【写真】根津甚八さん“最初で最後”の俳優復帰

 根津さんは引退に際し、「役者という自分の肉体を使って表現することをやるつもりはない(中略)これからもまっすぐ前を見て、自分のできることを精いっぱいしていきたい」などとパソコンで書いた手紙をメディアに発表していた。

 2001年に右目下直筋肥大という病気を患った。右目の下まぶたが垂れ下がり、物が二重に見える「複視」という症状が出て、日常生活が不自由となったため、下まぶたを整形する手術を受けた。しかし、左右の顔のバランスが変わってしまい、耳の軟骨を右目の下まぶたに注入。今度は目の周りが垂れ下がってくるなどしたため、手術…と目の整形手術を繰り返した。しかし、顔が元通りになることはなく、根津さんは落ち込んだという。

 05年に持病だったヘルニアの手術もし、後遺症で杖で生活するようになったことなどから、うつ病を患った。復帰を目指して治療をしていたが、万全の状態で仕事をするのが困難となり、引退を決意していた。


元俳優の根津甚八氏が死去 69歳
サンケイスポーツ 12/29(木) 16:22配信

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根津甚八氏(写真:サンケイスポーツ)

 元俳優の根津甚八(ねづ・じんぱち、本名・根津透=ねづ・とおる)氏が亡くなったことが29日、分かった。69歳だった。所属事務所が明らかにした。

 根津氏は1978年、NHK大河ドラマ「黄金の日日」に石川五右衛門役で出演、80年に映画「影武者」に出演するなど俳優として活躍。2002年頃から右目下直筋肥大という顔面の病気を患い、芸能活動を縮小。04年7月に死亡交通事故を起こし、しばらくの間、活動を停止。09年に鬱病を患い、持病の椎間板ヘルニアも悪化したため療養生活を送っていた。

 10年に引退を発表し、その後は、演出家、脚本家として活動。表舞台からは遠ざかっていた。15年に映画館監督の石井隆氏(70)の要望に応じ、映画『GONIN サーガ』に出演。一度限りの銀幕復帰を果たしていた。

 芸名は、真田十勇士の根津甚八に由来し、劇団「状況劇場」所属時に、主宰の唐十郎が苗字の「根津」に合う芸名として命名した。


元俳優・根津甚八さん、69歳で死去
スポーツ報知 12/29(木) 16:19配信

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根津甚八さん

 元俳優の根津甚八さんが29日午後に死去していたことが、関係者の話で明らかになった。69歳だった。

【写真】根津甚八さん

 ドラマ「男たちの旅路」、映画「影武者」などに出演した。02年ごろから根津さんは右目下直筋肥大という病気を患い、俳優業を縮小。09年、うつ病であることが明らかになった上に、椎間板ヘルニアが悪化。10年、俳優業を引退することを発表した。

 04年7月には被害者が亡くなる交通事故を起こしている。


「影武者」など故黒沢明作品出演/根津甚八さん略歴
日刊スポーツ 12/29(木) 16:14配信

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根津甚八さん

 元俳優の根津甚八さんが29日、死去したことが分かった。所属事務所が発表した。69歳だった。主な略歴は以下の通り。

【写真】根津甚八ラスト出演映画、石井隆監督「GONINサーガ」の印象的シーン

 ◆根津甚八(ねづ・じんぱち)本名・根津透。1947年(昭22)12月1日、山梨県生まれ。独協大中退後の69年に状況劇場入り。70年「ジョン・シルバー」で初舞台。76年フジテレビ「娘たちの四季」でドラマ初出演、同年「任侠外伝・玄界灘」で映画デビュー。78年NHK大河ドラマ「黄金の日々」で注目される。79年に状況劇場退団。80年「影武者」85年「乱」と故黒沢明監督作品に出演。82年の映画「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞主演男優賞。171センチ。血液型B。


根津甚八さん死去、69歳 10年に俳優引退
日刊スポーツ 12/29(木) 16:14配信

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根津甚八さん

 NHKのドラマ「男たちの旅路」「黄金の日日」などで知られる元俳優の根津甚八さんが29日、死去した。69歳だった。所属事務所に死去したという連絡があったという。

【写真】根津甚八さんラストの出演映画、石井隆監督「GONINサーガ」の印象的なシーン

 根津さんは右眼下直筋肥大の発症や、うつ病などもあって、10年に俳優引退を発表。車いす生活を余儀なくされたが、15年に映画「GONIN サーガ」(石井隆監督)に出演して一時的な復帰を果たしていた。その後は、再び療養生活を送っていた。

 69年に唐十郎が主宰する状況劇場に入団。79年まで在籍した。78年にNHK大河ドラマ「黄金の日日」に石川五右衛門役で出演して注目された。また黒沢明監督の映画「影武者」「乱」にもメインキャストとして出演するなど、抜群の存在感と演技力で名脇役として活躍した。


元俳優の根津甚八さん死去 69歳…事務所が発表
デイリースポーツ 12/29(木) 16:02配信

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 亡くなった根津甚八さん

 2010年に俳優を引退した根津甚八=本名・根津透=さんが29日、亡くなったことがわかった。69歳だった。所属事務所が発表した。事務所への取材では、この日昼過ぎに亡くなったと連絡が入ったという。

 1978年、大河ドラマ「黄金の日日」で脚光を浴び、82年の映画「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞。ほかに「吉原炎上」などでも存在感が光った。黒澤明監督の映画「影武者」や「乱」などにも出演。演技同様に寡黙な人柄だった。2010年9月に俳優業を引退している。

 根津さんは1993年に撮影で落馬し腰椎(ようつい)を損傷。2001年ごろ右目下直筋肥大という目の病気を発症。物が二重に見える「複視」に苦しみ、右目下まぶたが垂れ下がってきたことから、俳優の“顔”を取り戻すため、何度も整形手術を繰り返した。04年7月に人身事故を起こし、被害者が亡くなってからは、公の場に出ることがなくなっていた。

 01年秋ごろからうつ病も患っており、持病の椎間板ヘルニアも悪化したことなどで、10年に俳優を引退した。

2016年7月29日 (金)

ピアニストの中村紘子さんが死去

世界的ピアニスト、中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが7月26日に大腸がんのため死去した。29日の各紙で報じられた。72歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫で作家、庄司薫(しょうじ・かおる=本名・福田章二)氏。後日、お別れの会を行う予定。

中村紘子さんは山梨県生まれ。幼時からピアノを習い、全日本学生コンクールの小学生、中学生部門で続けて優勝して「天才少女」として知られた。1959年日本音楽コンクールで史上最年少で第1位特賞を受賞、翌年にはNHK交響楽団などと共演した。
その後、米ニューヨークのジュリアード音楽院へ留学。65年の第7回ショパンコンクール(マルタ・アルゲリッチ優勝)で、日本人としては10年ぶり二人目の入賞(4位)と最年少賞を受けた。
以降、日本の代表的トップピアニストとして国内外で演奏活動を展開。古典派からロマン派に至るレパートリーを軸に、華麗な技巧と豊かな感情表現で多くの聴衆を魅了した。

リンク:<お別れの会>中村紘子さん=9月12日、サントリーホール - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:9月12日にピアニスト中村紘子さんのお別れの会  - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:故中村紘子さん(ピアニスト)のお別れの会 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニスト、中村紘子さんの音色は永遠/芸能ショナイ業務話 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん 急逝前夜もともに過ごした夫が語った闘病2年半 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん 亡くなる前日に病院を抜け出して夫の庄司薫氏と過ごす - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さんのピアノ人生、盤歴からみる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「中村紘子」は唯一無二のピアニストだった - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子が逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニスト中村紘子さん死去 熊本地震にメッセージも - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニスト中村紘子が死去、5月8日のリサイタルが最後の公演に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:世界的ピアニスト・中村紘子さん死去 72歳、大腸がん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:華やぎと真摯、併せ持つ=逆境にうせぬ向日性―中村紘子さん死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さんが死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん、最後まで復帰に執念…夫に夢語る - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん死去 世界的ピアニストCMでもおなじみ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:世界的ピアニスト、中村紘子さん死去 数多くの国際コンクールで審査員 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん死去 前日まで新しい奏法に意欲も…72歳で - 速報:Yahoo!ニュース.
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リンク:中村紘子さん死去 CMに、情報番組に…。気さくな人柄、クラシック広げる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん死去 「もう一度モーツァルト聞きたかった」夫の庄司薫さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:デビュー50周年記念の中村紘子さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:亡くなった中村紘子さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去=ショパンコンクール入賞―72歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:夫・庄司薫さん、中村紘子さん死去に「残念です」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>国際的ピアニストの中村紘子さん死去、72歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニスト・中村紘子さんが死去 72歳、大腸がん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子、逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去 大腸がんで闘病も…72歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:人気ピアニスト、中村紘子さん死去…文筆活動も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

<お別れの会>中村紘子さん=9月12日、サントリーホール
毎日新聞 8月19日(金)19時50分配信

 中村紘子さんのお別れの会=ピアニスト・7月26日死去=9月12日午後2時半、東京都港区赤坂1の13の1のサントリーホール・ブルーローズ。主催はジャパン・アーツ。


9月12日にピアニスト中村紘子さんのお別れの会 
産経新聞 8月19日(金)19時20分配信

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中村紘子さん(撮影日:2007年10月26日)(写真:産経新聞)

 故中村紘子さん(ピアニスト)のお別れの会 9月12日午後1時、東京都港区赤坂1の13の1、サントリーホールのブルーローズで。一般の入場は午後2時半から。主催はジャパン・アーツ。


故中村紘子さん(ピアニスト)のお別れの会
時事通信 8月19日(金)17時29分配信

 故中村紘子さん(ピアニスト、7月26日死去)のお別れの会 9月12日午後1時から東京都港区赤坂1の13の1のサントリーホール ブルーローズで。

 一般の入場は午後2時30分から。主催は音楽事務所ジャパン・アーツ。


ピアニスト、中村紘子さんの音色は永遠/芸能ショナイ業務話
サンケイスポーツ 8月12日(金)14時28分配信

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中村紘子さん(写真:サンケイスポーツ)

 7月26日、国民的人気ピアニスト、中村紘子さんの訃報を聞いて言葉を失った。

 がんと闘った中村さんは昨年8月から演奏活動を休止していたが、今年4月30日、川崎市内で開かれた「東京交響楽団 名曲全集 第116回」で仕事復帰。その取材で「私の生命線は長いから大丈夫!」と、右手を突き出して写真に応じてくれたことが走馬灯のように蘇った。

 同公演で8カ月ぶりに演奏し、30分を超える「モーツァルト ピアノ協奏曲第24番」を披露。多くの「ブラボー!」の掛け声と何度ものカーテンコール、3分以上の万雷の拍手を浴びた中村さんは、右手を胸に置き、丁寧に感慨深そうな表情を見せていた。

 終演後、ドレス姿のまま楽屋で取材に応じてくれ、「ここが私の場所なんだな、と思いました」と噛み締めるように語る姿が脳裏に焼き付いている。正真正銘のプロに対して「しびれました」と拙い感想を伝えると「元気なときは、ああだ、こうだ、と考えて、あがって。今は(演奏を)できるだけでいい、と変な欲がなく、楽しく行こう、と力が抜けた結果、音が響いたと思います。元気なときは今の3倍練習して、緊張もしたけど、きょうはリラックスして弾けました。長いキャリアで初めての経験。いい演奏をするのには病気をするのがいいのかな」とユーモアをまじえ、この日の演奏を振り返った姿はキュートでエレガントだった。

 民間療法を経て、医療に身を委ねた中村さん。大変な吐き気に見舞われても「この5年、日本のがんの治療水準は上がっているの」などと前向きに治療に向かっていた。

 この取材の冒頭、中村さんは「あなた、あのときの…」と声を掛けてくれた。あのとき、というのは2015年6月に都内で開かれた大腸がん治療の現状報告会のことだが、本当に覚えていてくれたかどうかは中村さんしか分からない。

 きっと一般紙の番記者に交じり、やや緊張気味だった記者の気持ちを和らげようとしてくれたのだと思う。1度しか会ったことのない記者を思いやってくれる人柄が、中村さんという人のように感じてならない。人間としての懐の大きさが、中村さんの音色そのものだった。ご冥福を心からお祈りいたします。(くのいち)


中村紘子さん 急逝前夜もともに過ごした夫が語った闘病2年半
女性自身 8月7日(日)6時0分配信

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「今日のモーツァルトの演奏はね、とても肩の力が抜けて、無欲でできました。かつてギャンギャンに練習していたころは、本番になるとコチコチになって指が動かないなんてことがあったのに。そう、私、『がんになってよかった』っていま、感じているんです」

 今年5月4日、本誌のインタビューに満面の笑みで応えていた世界的なピアニストの中村紘子さんが、このときから、およそ2カ月半後の7月26日22時25分、大腸がんでこの世を去った。享年72。それは、夫の芥川賞作家・庄司薫さん(79)と祝った彼女の誕生日の翌日だった。

 世間に突然の訃報がもたらされたのは7月28日の深夜。夫の庄司薫さんは中村さんの所属事務所を通じて、次のようなコメントを寄せた。

《誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です》

 5月の公演後、中村さんが体調を崩し入院していたと語るのは所属事務所の関係者だ。

「25日の誕生日は、『病院はつまらないから』という中村さんのたっての希望で、庄司さんと愛犬のウリちゃんとでご自宅で過ごしました。そこで庄司さんが誕生日プレゼントとして、イヤリングを手渡したんです」

 72歳の誕生パーティを“家族水入らず”で過ごした中村さんは、痩せてはいるものの非常に元気で、復帰後の夢などを打ち明けていた。9月も東京でトーク&コンサート「少女の頃の夢」が予定されていたが、翌26日に容体が急変。夫らに見守られながら静かに息を引き取った。

「ご葬儀は、28日にご自宅で、近親者のみで行われました。小ぢんまりとしていましたが、とても温かいものでした。中村さんは本当に柔らかい表情で、眠っているかのようでしたね。夫の庄司さんは気丈にされていましたが、『まさかこんなに早く逝ってしまうとは。とても寂しくなるなぁ……』とおっしゃっていました」(同・事務所関係者)

 中村さんは生前、本誌にこう語っていた。

「今日、一生懸命練習すると、明日、必ずいいことがある。それがピアノです。がん闘病もそれと同じだと思う。今日より明日のほうが、きっといいことがあるって、私は信じて生きています!」

 きっと天国でも、毎日ピアノに向かうことだろう。中村さんとの「お別れ会」は9月に行われる予定だ。


ピアニストの中村紘子さん 亡くなる前日に病院を抜け出して夫の庄司薫氏と過ごす
週刊女性PRIME 8月3日(水)11時0分配信

 ピアニストの中村紘子さんが大腸がんで亡くなった。72歳だった。

「今から40年以上前、高校生のときです。学校に公演に来てくれた中村さんの演奏を聴き、なぜかとても幸せな気分になったことを覚えています」と話すのは本誌ベテラン記者。

 それまでクラシック音楽をピアノの生演奏で聴く経験などなかった少年時代、中村さんが奏でる音色に魅了されたのだという。

 かつて、彼女は雑誌のインタビューでこう答えている。

《いちばん大切なのは、たとえどこであっても、自分の言葉で語りかける演奏ができて、その私の演奏を聴いて元気になったり、幸せになったりしてくれる人がひとりでもいるということなんです》

 20歳のときに『ショパン国際ピアノコンクール』で入賞と最年少受賞の栄冠に輝き、

「入賞は日本人としては2人目でしたが、10年ぶり、しかも最年少でもあったので話題になり、一躍注目されるようになりました」(全国紙記者)

 日本を代表するピアニストとなった彼女は、テレビ、ラジオ、CMなどにも次々と出演。番組で共演したことのある南こうせつをゲストに呼んだコンサートでは、「音楽にジャンルや国境はない」と熱く語ることもあった。

 私生活では、’74年に芥川賞作家の庄司薫氏と結婚。ふたりのなれ初めはユニークだった。

「庄司氏の受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』の中に中村さんの名前が出てきて、それがきっかけとなったようですが、庄司氏はもっと若いころから彼女に憧れていたみたいですよ」(文芸誌編集者)

 前出のインタビューではそのときの様子も語っていて、

《本の中に私の名前が出ていると友人が教えてくれたんです。カバーに載った作者の写真を見た瞬間、あっ、私この人と結婚する! ってなぜか思ってしまったんですね(笑)。で、彼がカンヅメになっているホテルを突き止めて電話したんです》

 結局、結婚するまで交際は5年間続いたが、

《その付き合いで、私は自分がいかに音楽バカで、いわゆる大学に行っていたら身についたであろう幅広い視野や教養が欠けていたか、学んでいったのは確かです》(前出のインタビュー)

 夫はよき伴侶であると同時に、よき師匠だったようだ。海外演奏会には必ず夫婦そろって出かけるほど"おしどり夫婦"として知られていたが、そんな彼女に大腸がんが見つかったのが’14年のこと。

 翌年には復帰したが、再び活動休止に。病魔と闘いながらも今年の4月に復帰して、8か月ぶりに演奏を披露したが、その後、体調が悪化して再入院。

「"病院はつまらない"といって、亡くなる前日、彼女の誕生日の7月25日に自宅に戻り、夫と愛犬と過ごしたようです」(前出・全国紙記者)

 みんなに愛された"天才ピアニスト"は、最愛の夫と愛犬に見送られて、天国へ旅立っていった。


中村紘子さんのピアノ人生、盤歴からみる
NIKKEI STYLE 8月3日(水)7時0分配信

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2016年4月30日、ミューザ川崎コンサートホールで聴衆の歓声にこたえる中村紘子さん(中央)撮影=青柳聡(提供=東京交響楽団)

 日本を代表する音楽家、ピアニストの中村紘子さんが7月26日に亡くなった。72歳の誕生日を夫で作家の庄司薫さんと、自宅で祝った翌日だった。転機は1960年代初頭。留学先の米ニューヨークのジュリアード音楽院でロシア人女性教師、ロジーナ・レヴィーンさんに「卵をつかむように手を丸め、指を立てる日本独特の『ハイフィンガー奏法』」の誤りを指摘されたときに訪れた。以来、小柄な体と小さな手の持ち主は少しでも美しく、輝かしく、豊かな音を生み出すための合理的な奏法を究め続けた。亡くなる前日も「モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試す」と庄司さんに、興奮の面持ちで語っていたという。国際コンクールの審査や文筆などを通じ、後に続く世代を教える側に回っても「あしき日本奏法の撲滅と、グローバルスタンダードへの接近」をつねに標榜し、日本のピアノ界全体の水準向上に全身全霊をささげた。
 日本政府の外資規制緩和を受けた1968年、ソニーは米CBSと共同出資のレコード会社「CBSソニー」を発足させ、バリトン歌手出身の大賀典雄さんが社長に就いた。大賀社長は自身の体験も踏まえ、日本人演奏家の録音を積極的に手掛ける方針を打ち出し、当時24歳の中村さんと第1号の専属契約を結んだ。中村さんには、レコーディングアーティストとしても半世紀に及ぶキャリアがある。故人の足跡、芸風、偉業をしのぶにふさわしい5点を選んでみた。
矢代秋雄「ピアノ協奏曲」岩城宏之指揮NHK交響楽団 今年は早世した作曲家、矢代秋雄さん(1929~76年)の没後40年。中村さんは矢代さんの代表作「ピアノ協奏曲」(67年)の世界初演者である。放送録音での初演は若杉弘さん、NHK交響楽団臨時演奏会での初演は森正さんの指揮。日本コロムビアは翌年に改めてセッションを組み、岩城宏之さんとN響の名コンビで万全を期した。岩城さんも今年は没後10年。ここに列挙した演奏家たちが素晴らしかったのは初演後も矢代作品を繰り返し演奏し、古典名曲に匹敵する定番の地位まで導いたこと。中村さんはバブル経済のころ、ある地方都市でスーパーをスポンサーに開催された「ニューイヤーコンサート」でもショパンやチャイコフスキーではなく、矢代さんの協奏曲を平然と奏で、なおかつ客席を魅了し尽くした。超絶技巧を求め、弾くだけでも大変な曲なのに、中村さんは持ち前の華やかなピアニズム、エレガントなたたずまいで、価値を高めたのだった。(コロムビア)
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」ほか渡邉暁雄指揮東京都交響楽団 ラフマニノフらと直接親交のあったレヴィーンさんの薫陶を受けて以来、ロシア音楽は中村さんの重要なレパートリーとなった。その後の旧ソ連への演奏旅行、チャイコフスキー国際音楽コンクールの審査員……という展開は大宅壮一ノンフィクション賞を受けた文筆活動での出世作、「チャイコフスキー・コンクール」(89年)に結実した。ロシア音楽を奏でる際に求められる息の長いフレーズ、感情の波動に応じて自在に揺れるテンポの妙を中村さんが比較的早い時期に体得していた実態は、渡邉さんが音楽監督を務め、日の出の勢いにあった時代の都響との76年録音でもはっきり確認できる。渡邉さんも日本の作曲家の守護神であり、自ら創立した日本フィルハーモニー交響楽団のために多くの新作を委嘱初演した。中村さんとは矢代さんのピアノ協奏曲でも共演したことがある。(ソニー)
ショパン「ピアノ協奏曲第1番&第2番」アナトール・フィストゥラーリ指揮ロンドン交響楽団 中村さんは65年、ワルシャワの第7回ショパン国際ピアノコンクールで第4位と最年少者賞を得て以降、ショパンのスペシャリストと目される機会が増えた。2曲の協奏曲はそれぞれ2度の録音を残したが、84年7月にロンドンのアビー・ロード・スタジオで制作したこのディスクは第1番の再録音、第2番の初録音に当たる。フィストゥラーリさん(1907~95年)はウクライナ生まれ、英国に帰化した指揮者で作曲家マーラーの次女と結婚していた。ロシア・東欧の作品、特にバレエ音楽を得意とし、オーケストラを少し古風な響きに整え、旋律をたっぷり歌わせ、情感を自然に盛り上げていく。78年に読売日本交響楽団を客演指揮した際のソリストだった中村さんに強い印象を受け、ロンドン響との共演とレコーディングに発展した。中村さんはマエストロ(巨匠)の敷いたぜいたくな音のじゅうたんに乗って、ショパン特有のテンポの微妙な変化を自在に操りながら、美しいタッチの限りを尽くす。(ソニー)
チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」/ラフマニノフ「同第2番」エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団 ソニーは88年にCBSレコードを買収、クラシック音楽のレーベル名を国際規模で「ソニー・クラシカル」に統一した。ソニー本体の社長となった大賀さんが久しぶりにプロデューサーを買って出たのが、この日本でのライブ盤で、世界発売された。ともに中村さんにとって2度目の録音。モスクワ出身のカリスマ指揮者、スヴェトラーノフさん(1928~2002年)は65年に旧ソ連国立響のシェフに抜てきされ、連邦解体後にロシア国立響と改名した後も2000年まで音楽監督に君臨した。中村さんは83年にこの2曲を独奏して以来、87、90、92、95、97年まで計6度にわたり、スヴェトラーノフさんとロシア(ソビエト)国立響の日本公演のソリストであり続けた(97年にはスヴェトラーノフさんのN響客演でも共演)。雄大で、おおらかなロシア管弦楽の洪水に立ち向かうというよりは、自らもその一員として、独特の音の世界に浸りきる風情に指揮者との相性の良さ、ピアニストとしての円熟を実感させる。(ソニー)
モーツァルト「ピアノ協奏曲第24番&第26番『戴冠式』」/ショパン「マズルカ集」山田和樹指揮横浜シンフォニエッタ 2014年、古希(70歳)とデビュー55周年を記念して企画した最新盤。残念ながら、長い盤歴のラストレコーディングとなった。中村さんはかねがね「私のキャリアを通じ、日本の指揮者の協奏曲伴奏能力は飛躍的に向上した」といい、若い世代と積極的に共演した。現在、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務める山田さん(1979年生まれ)が東京芸術大学在学中に結成した「トマト・フィル」の流れをくむのが、横浜シンフォニエッタ。実演では長く弾きこんできたモーツァルトの協奏曲だが、セッションを組んでの正規録音は、意外にもこれが初めてだった。協奏曲で管弦楽が静まり、独奏楽器のソロだけになる部分を「カデンツァ」と呼ぶ。モーツァルトのピアノ協奏曲には作曲者自身のカデンツァが残っていないものも多く、後世の作曲家や演奏家が腕を競ってきた。第24番の場合、中村さんはN響との共演で自作を弾いた時代もあったが、このCDでは恩師の一人でハンガリー出身の名ピアニスト、リリー・クラウスさん(1903~86年)のカデンツァを採用した。「戴冠式」の方はレコード会社が話題性を狙ったのか、「ゴーストライター騒動」の果てに作曲家としての能力を再評価された新垣隆さんが新たなカデンツァを書き下ろした。(ドリーミュージック)
 ◇   ◇
 2016年4月30日。ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川県)の飯森範親さん指揮東京交響楽団の演奏会で、中村さんは大腸がん闘病のための療養期間を終えての「現場復帰」を宣言した。選んだのはモーツァルトの第24番。第1楽章のカデンツァは自作でも、クラウス作でもない耳慣れないものだった。庄司さんに促されて楽屋を訪ね、「最初はモーツァルトに近かった音の世界が次第にロマン派の色彩を帯びていく。かなり変わったカデンツァでしたけど、いったいどなたの作曲ですか?」と聞いた。中村さんは「わが意を得たり」といった風情で「ふふふ、おもしろいでしょ。実はブラームスなのよ」と、タネを明かした。この作品が生涯最後に弾いた協奏曲になろうとは中村さんも、庄司さんも、私たちも思っていなかった。だが最後の最後まで好奇心を失わず、進歩し続けた名ピアニストの到達した境地として、不思議なほど、すがすがしさを覚える時間の記憶である。
(池田卓夫)


「中村紘子」は唯一無二のピアニストだった
東洋経済オンライン 8月3日(水)6時0分配信

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音楽の伝道師は、作家や教育者としても超一流だった(写真:読売新聞/アフロ)

 ピアニスト、中村紘子が亡くなった。これはまさに、日本クラシック界、特にピアノ界の1つの時代が終わりを告げたに等しい出来事だ。その栄光に満ちた人生は、戦後急速に繁栄し広がりを見せた日本クラシック界と共にあり、つねにその先頭に立つシンボル的存在が、中村紘子だったのだ。

 第二次世界大戦終結の前年にあたる1944年、山梨県に生まれた中村紘子は、3歳からピアノを始め、桐朋学園「子供のための音楽教室」の第1回生として、名ピアニスト井口愛子の下で本格的にピアノを学び始める。その時の同期生には、小澤征爾(指揮者)、堤剛(チェリスト/サントリーホール館長)、江戸京子(ピアニスト)など、後の日本クラシック界を支える逸材が顔をそろえていたのだから興味深い。

 1954年の学生音楽コンクール小学生の部で全国1位となったのを皮切りに、中村紘子伝説の幕が開く。日本国内のコンクールを総なめにした中村紘子は、当時在籍していた桐朋女子高等学校を中退し、アメリカの名門ジュリアード音楽院に日本人初の全額奨学生として留学。名教師ロジーナ・レヴィンの下で研鑽を積む。

■ 忘れられないリサイタルの感動

 そして迎えた1965年の第7回ショパン国際ピアノコンクールに第4位入賞、併せて最年少者賞受賞を果たすなど、世界の注目を集める存在となったのだ。時に中村紘子19歳。この時の優勝者がマルタ・アルゲリッチであったことからも、このコンクールのレベルの高さが伺える。そしてこの後、日本を代表するピアニストとして華々しい演奏活動が展開される。

 初めて中村紘子のステージを体験したのは、忘れもしない1976年5月11日、横須賀市文化会館で行われたリサイタルだった。なぜ正確な日時まで覚えているのかといえば、今も大切に保管してある当時のプログラムには、中村紘子のサインが入っているから。ご丁寧に公演チラシと当日のチケットまでが添えられていることからも、当時の自分の感激ぶりが想像できる。

 中村紘子体験は、自分にとって初の“本物のピアニスト体験”であり、初めて楽屋まででかけてサインをもらった体験でもあった。リサイタルの感動もそのままに、目の前で観る当時32歳の中村紘子の美しさと存在感は圧倒的。優しい笑顔で握手をしてもらったその手に残る香水の香りは今も忘れ難く、当時は「もう一生手を洗わない・・・」などと思う純情な19歳であった。アーティストの影響力の大きさを改めて感じる瞬間だ。

 1968年に、ソニー・レコードの専属第1号アーティストになったことも彼女の人気に拍車をかけた。日本人アーティストに着目した「J-クラシック」なる言葉が生まれるのは、もっとずっと後の話。当時のクラシック界、特にレコード業界は完全に外国人演奏家中心の世界だったことを思えば、専属アーティストとなって50枚にも及ぶアルバムを世に送り出した事実は驚異的だ。

 20世紀を代表する音楽評論家の1人、ハロルド・ショーンバーグが著書『ピアノ音楽の巨匠たち』の中で中村紘子を紹介したのもその頃の話。本の中に登場する唯一のアジア人ピアニストであることからも、その評価の高さが伺える。曰く「西欧の音楽家に感銘を与えた数少ないアジア人ピアニストの1人中村紘子は、見事なテクニックと溢れる情感があり、ロマン派音楽を好んで演奏する」と記載されているのだから素晴らしい。

■ クラシック音楽の大衆化に貢献

 お茶の間への浸透という意味で、テレビCM出演の影響も見逃せない。ネスカフェ「ゴールドブレンド」のほか、ハウス食品「ザ・カリー」のCMに出演。特に「ザ・カリー」のCMで描かれた中村紘子の“料理が得意なピアニスト”としての側面は、“高尚なクラシックのピアニスト”を“親しみやすい身近なピアニスト”へと変化させ、狭いクラシックの世界を超越した“誰もが知っているピアニスト中村紘子”へと昇華させた。その結果として、日本全国津々浦々で行われるコンサートは大人気となり、レコードの売り上げも桁外れという人気ピアニスト中村紘子が誕生した。

 その意味では、クラシック音楽普及のために一役買ったテレビ番組「オーケストラがやってきた」(1972年~1983年放送)の山本直純(指揮者・作曲家、1932年~2002年)と並んで、クラシックの大衆化に大きく貢献した最初のアーティストだとも言えそうだ。当時、中村紘子のピアノをきっかけにクラシックに親しんだ人の数はどれほどいるのだろう。子どもにピアノを習わせようと思い立った母親の数もきっと半端ではないはずだ。私自身、1976年のリサイタル体験は、熱烈なピアノファンとして今に至る過程の中で、忘れられない想い出の一つとなっている。

 中村紘子を語る上で忘れてならないキーワードが「執筆活動」だ。1974年に芥川賞作家、庄司薫と結婚した影響もあるのだろうか、自らも執筆活動を開始したその腕前はピアノと同じように素晴らしく、著書『チャイコフスキー・コンクール』は1989年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、第2作『ピアニストという蛮族がいる』も文芸春秋読者賞を受賞するなど、ノンフィクション作家・エッセイストとして高く評価されている。

 知性と教養、そして豊富な経験を背景にしたチャーミングな文章は、一般の人々をクラシックの世界へと誘う大きな道標となったに違いない。『アルゼンチンまでもぐりたい』『どこか古典派(クラシック)』『コンクールでお会いしましょう・・・名演に飽きた時代の原点』など、ウィットの効いた文章は、今読んでも新鮮そのものだ。

■ 国内外の若手ピアニストを育成

 そして、中村紘子を語る最後のキーワードは「教育」だ。1980年代以降、世界各地のコンクールの審査員を務めるとともに、広く国内外の若手ピアニストの育成・紹介に力を注いだ中村紘子は、文字通りピアノ界の頂点に立つ存在となる。審査員としては、1982年の「チャイコフスキー国際コンクール」の審査員を務めて以来、「ショパン国際ピアノコンクール」「ロン=ティボー国際コンクール」「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」「リーズ国際ピアノコンクール」など、世界有数のコンクールの審査員を歴任した。

 その貴重な経験は、国内コンクールの発展にも生かされ、1994年の第3回から15年間にわたって審査委員長を務めた「浜松国際ピアノコンクール」は、創立10年足らずで「国際コンクール連盟」に加盟。毎回優秀な若手ピアニストを世に送り出す実績によって、今や世界有数のコンクールのひとつに数えられるまでに成長している。さらには、個人的にレッスンや指導を受けたピアニストの数は、数え切れないほどだろう。

 1959年のデビュー以来、これまでに国内外で3800回以上のコンサートに出演してきた中村紘子。病と闘いながら、死の直前までピアニストとしての活動にこだわり続けたというその人生は、まさに“音楽の伝道師”と呼ぶにふさわしい。中村紘子の死によって、輝かしい1つの時代が幕を閉じたことは否めない。しかし、彼女が切り開いた道の先には、今や確実に新たな光が灯り始めている。


ピアニストの中村紘子が逝去
CDジャーナル 7月29日(金)16時22分配信

 ピアニストの中村紘子(本名: 福田紘子)が、2016年7月26日午後(22:25)大腸がんのため自宅で逝去しました。享年72。中村紘子は2015年に大腸がんの診断を受けたことを公表、治療と演奏活動とを行なっていました。葬儀は、7月28日に近親者のみで執り行なわれました。

 中村紘子は早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢されデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に〈第7回ショパン・コンクール〉で入賞し、以後日本のピアニストの代名詞に。国内外のオーケストラとの共演、世界各国でのリサイタルなど、3,800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了しました。レコーディングも活発に行ない、1968年にソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来、50点余りの録音を残しました。文筆家としても知られ、著書「チャイコフスキー・コンクール - ピアニストが聴く現代」で〈大宅壮一ノンフィクション賞〉を受賞。2008年に紫綬褒章を受章したほか、翌年には日本芸術院賞・恩賜賞に選ばれました。

 1982年からは〈チャイコフスキー・コンクール〉〈ショパン・コンクール〉など数多くの国際コンクールの審査員、1994年から15年間にわたって〈浜松国際ピアノコンクール〉の審査委員長も歴任。“難民を助ける会”や日本赤十字などを通じてのボランティア活動にも積極的な役割を果たしました。デビュー50周年を迎えた2009 / 10年シーズンは80回を超える〈デビュー50周年記念コンサート〉を実施。2015年には東京交響楽団と36年連続37回目となる〈ニューイヤーコンサート〉に出演しました。病気と闘いながら、2016年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第24番を共演。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行なったリサイタルが最後の公の場での演奏でした。

 夫で芥川賞作家の庄司 薫は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とコメントしています。

 後日、お別れの会が執り行なわれる予定です。


ピアニスト中村紘子さん死去 熊本地震にメッセージも
J-CASTニュース 7月29日(金)11時49分配信

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世界で活躍した中村紘子さん(画像は、中村紘子さんの公式HPのスクリーンショット)

 国際的に活躍したピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが2016年7月26日、大腸がんのため死去した。72歳だった。夫は芥川賞作家の庄司薫氏。

 さまざまなコンクールの審査員、審査委員長なども務めて後進の育成にも尽力。大宅ノンフィクション賞を受賞するなど文筆も達者で、テレビや雑誌などメディアにも数多く登場した。一ピアニストにとどまらない人気と知名度を誇った人だった。晩年はがんとの闘病生活が続き、再起を期していたが、かなわなかった。

■天才少女として知られる

 1944年、疎開先の山梨県で生まれ、3歳からピアノを始め天才少女と評判になる。59年、慶應中等部3年在学中に「音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)で史上最年少の第1位特賞となり、早くも楽壇デビュー。翌年には、NHK交響楽団の世界一周演奏旅行のソリストに。63年から米国ジュリアード音楽院で学び、65年にショパン国際ピアノコンクールで日本人初の第4位に入賞。世界的に注目されるようになった。

 その後もN響の海外公演や、国際的な音楽祭への出演など海外で活躍した。音楽評論家の中河原理氏は「朝日人物事典」で、「演奏はわかりやすく多くの人に親しまれ、魅力ある容貌ともども大衆的な人気を誇った」と評している。

 母親は著名な銀座の画廊「月光荘」経営に関わり、文化サロンを主宰。政界、経済界、文壇などに幅広い有名人のネットワークがあった。中村さんはその娘ということでも知られ、内外の著名人との交遊も深かった。

9月にはトーク&コンサート予定していた
 74年に作家の庄司薫氏(69年に『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞)と結婚。才人同士のカップルとして話題になった。中村さんはエッセイなどにも才を見せ、著書『チャイコフスキー・コンクール』(88年)は、音楽家としては珍しく大宅ノンフィクション賞を受賞した。

 近年はがんとの闘病が続いたが、最後まで演奏活動への復帰に執念を見せた。オフィシャルサイトによると、9月24日には「中村紘子トーク&コンサート ~少女の頃の夢」が予定されていた。

 サイトの最後の更新となった6月14日には、「ご挨拶」と題し、熊本地震について、「発生から、早くも2ヵ月が経ちました。震災により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆さまに対しまして心よりお見舞い申し上げます」と、被災地の一日も早い復旧・復興を祈る文章が掲載され、そこでは、「私も、音楽を通して、被災地の皆さまへの一助となれるように、日々励んで参ります」とつづられていた。


ピアニスト中村紘子が死去、5月8日のリサイタルが最後の公演に
Billboard Japan 7月29日(金)11時30分配信

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ピアニスト中村紘子が死去、5月8日のリサイタルが最後の公演に

 ピアニストの中村紘子(本名:福田紘子)が、2016年7月26日午後(22時25分)に72歳で大腸がんのため自宅で逝去した。

 夫の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です。」とコメントを出している。葬儀は、7月28日に近親者のみで既に執り行われており、後日、お別れの会が予定されている。

 中村紘子は早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に第7回ショパン・コンクールで入賞。以後、日本のピアニストの代名詞となり、国内外のオーケストラとの共演、世界各国でのリサイタルなど3800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了し続けた。レコーディングも活発に行い1968年にソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来、50点余りの録音を残した。1982年からはチャイコフスキー・コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員、1994年から15年間にわたって浜松国際ピアノコンクールの審査委員長も歴任。「難民を助ける会」や日本赤十字などを通じてのボランティア活動にも積極的な役割を果たした。デビュー50周年を迎えた2009/2010年シーズンには80回を超える「デビュー50周年記念コンサート」を実施。2015年には東京交響楽団と36年連続37回目となるニューイヤーコンサートに出演。病気と闘いながら、2016年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第24番を共演。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏となった。photo by Hiroshi Takaoka


中村紘子さん
時事通信 7月29日(金)10時28分配信

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インタビューに答えるピアニストの中村紘子さん=東京都港区

(時事通信社)


中村紘子さん
時事通信 7月29日(金)10時28分配信

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ピアニストの中村紘子さん=東京都港区

(時事通信社)


世界的ピアニスト・中村紘子さん死去 72歳、大腸がん
オリコン 7月29日(金)10時14分配信

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死去した中村紘子さん (C)Hiroshi Takaoka

 世界的に活躍したピアニストの中村紘子(本名・福田紘子)さんが、26日午後10時25分に大腸がんのため自宅で死去した。享年72。葬儀、告別式は近親者で執り行われ、喪主は夫で作家の庄司薫氏。後日お別れの会を開催予定としている。

 庄司氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とコメントを発表した。

 中村さんは1994年7月25日、東京都生まれ。早くから天才ピアニストとして注目され、60年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜てきされデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に第7回ショパン・コンクールで入賞し、日本を代表するピアニストとして、世界各国で活躍してきた。

 2014年2月に大腸がんを患い、翌15年1月から活動休止を発表。同年6月に活動再開の会見を行い、治療と平行してコンサート活動を続けてきたが、8月より再び休止。今年4月に復帰したが、5月8日の兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏となった。


華やぎと真摯、併せ持つ=逆境にうせぬ向日性―中村紘子さん死去
時事通信 7月29日(金)9時54分配信

 演奏にも、振る舞いにも、大輪の花を思わせる華やぎと向日性があった。

 それが戦後を脱し、経済発展の道を進む時期の日本で、豊かさの象徴としてのクラシック音楽の在りようと、ある意味で重なり、ジャンルの枠を超えた人気を博した。

 自身、デビュー50年を祝った7年前、「高度成長にちゃっかり乗るように自分も成長し、国際社会へ出て行った。時代の幸運なしにはあり得なかった」と振り返った。

 その結果が1965年のショパンコンクール4位の栄誉だが、決して幸運のみによるものではない。「聴衆の耳と心に演奏をさらすことで鍛えられ、支えられてきた」の言葉通り、常に自身を客観視し、真摯(しんし)に音楽と向き合う姿勢がもたらした果実だ。

 亡くなる数日前まで、「このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって興奮していた」と夫の庄司薫氏が語るように、その姿勢を生涯持ち続けた。

 昨年1月に大腸がんを公表した。一時休養を宣言し、その後は復活と休止を繰り返したが、今年4月「体がむずむずして、弾きたくてしょうがない」と再復帰。「楽しく、のんびり、無理をしないように演奏を続けていけたら」と笑顔を浮かべた。

 死に直面する中でも失わなかった向日性と華やぎ。それが「聞く者の心を激しく揺さぶる情熱的な躍動感と繊細な叙情性の両面を併せ持つ演奏」(2008年紫綬褒章の受章理由)を生んだ。


ピアニストの中村紘子さんが死去
デイリースポーツ 7月29日(金)9時51分配信

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亡くなった中村紘子さん

 ピアニストの中村紘子(本名・福田紘子)さんが26日に大腸がんのため死去していた。72歳だった。所属事務所が28日深夜にマスコミ各社宛てのFAXで発表した。葬儀・告別式は28日に近親者だけで行われた。後日にお別れの会を行うという。

 所属事務所によれば、早くから天才少女ピアニストとして注目されてきた中村さんは、1965年にショパン・コンクールで入賞。世界各国のリサイタルなど3800回を超える演奏会に出演し、50点以上のレコーディングも行ってきた。

 ほかに数多くの国際コンクールの審査員を務め、94年からは浜松国際ピアノコンクールの審査委員長を歴任。音楽活動とともに難民救済などのボランティア活動にも携わってきた。

 今年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲24番を共演。5月8日に兵庫・淡路島で行ったリサイタルが公の場での演奏だったという。


中村紘子さん、最後まで復帰に執念…夫に夢語る
読売新聞 7月29日(金)9時50分配信

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都内の自宅で、愛犬とくつろぐ中村さん(2011年)

 26日に亡くなったピアニストの中村紘子さんは晩年はがんとの闘病が続いたが、最後まで演奏活動への復帰に執念を見せた。

 最後は夫の作家・庄司薫さん(79)に見送られた。

 「何より本人があまりにも早い死にびっくりしているでしょう。紘子は最期まで美しく賢いピアニストでした」

 28日に密葬を終えた庄司さんは、グランドピアノのある東京都内の自宅に戻った妻の遺骨を前に悲しみをこらえていた。

 「病院はつまらない」との中村さんの希望で、2人は25日の中村さんの誕生日から、愛犬のミニチュアダックスフントが待つ自宅で一緒の時を過ごした。中村さんは夫からイヤリングを贈られ、「モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試したい」と語っていたが、翌日、夫らにみとられて旅立った。28日の出棺に際し、庄司さんは何度も妻の顔を見つめ、棺(ひつぎ)に2人の著作や写真を納め、最後のお別れをした。


ピアニストの中村紘子さん死去
時事通信 7月29日(金)9時2分配信

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ショパン国際ピアノコンクールに入賞し、日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子さんが26日午後10時25分、大腸がんのため東京都港区の自宅で死去した。72歳だった=4月撮影


中村紘子さん死去 世界的ピアニストCMでもおなじみ
スポーツ報知 7月29日(金)7時5分配信

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26日に72歳で亡くなった中村紘子さん

 日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため都内の自宅で死去したことが28日、分かった。72歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫で作家、庄司薫(しょうじ・かおる=本名・福田章二)氏。後日、お別れの会を行う予定。

 中村さんは山梨県で生まれ東京・世田谷で育った。指揮者の小澤征爾さんらを輩出した桐朋学園「子供のための音楽教室」で幼児期から学び、1959年、「音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)で史上最年少で第1位特賞を受賞。米国留学後、65年にショパン国際ピアノコンクールで入賞し、名声を得た。チャイコフスキー国際音楽コンクール、ショパン国際ピアノコンクールなど世界的なコンクールの審査員も歴任。著書「チャイコフスキー・コンクール」は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど、文筆家としても活躍。紫綬褒章、日本芸術院賞・恩賜賞を受けた。ハウス食品やネスカフェのCMに出演、お茶の間でも親しまれた。

 中村さんは、2014年2月に腸閉塞の手術で大腸がんが見つかり、15年1月に初期の大腸がんと診断された。同年2月から音楽活動を休止したが、3月には復帰。闘病生活を送りながら、公演に励んだ。今年5月8日の兵庫県洲本市でのステージが最後になった。亡くなる前日の25日は72歳の誕生日。ホームページによると、9月24日に都内で公演の予定が入っていた。

 夫の庄司氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、モーツァルトやラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。残念です」とコメントした。


世界的ピアニスト、中村紘子さん死去 数多くの国際コンクールで審査員
サンケイスポーツ 7月29日(金)7時0分配信

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中村紘子さん(写真:サンケイスポーツ)

 日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日に大腸がんのため死去していたことが28日、分かった。72歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫で作家、庄司薫(しょうじ・かおる)氏。後日、お別れの会を開く。

 山梨県生まれ、東京・世田谷育ち。指揮者の小澤征爾さんらを輩出した桐朋学園「子供のための音楽教室」で幼児期から学んだ。慶応義塾中等部在学中の1959年に日本音楽コンクールで史上最年少で第1位特賞を受賞し、翌年にはNHK交響楽団初の演奏旅行のソリストに起用された。その後、米ニューヨークのジュリアード音楽院に留学。1965年の第7回ショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞した。

 チャイコフスキー国際音楽コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員も歴任。その体験に基づく著書「チャイコフスキー・コンクール」は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。ハウス食品のカレーのCMにも出演し、お茶の間でも親しまれた。

 大腸がんの治療のために、2015年2月から音楽活動を休止したが、同年3月にはステージに復帰。16年5月の兵庫県でのリサイタルが、最後の公の場での演奏となった。

 庄司氏は「誕生日(25日)を迎える日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とのコメントを発表した。


中村紘子さん死去 前日まで新しい奏法に意欲も…72歳で
スポニチアネックス 7月29日(金)5時37分配信

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死去した中村紘子さん

 世界的に活躍したピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため都内の自宅で死去した。72歳。山梨県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日お別れの会を開く。喪主は夫で作家の庄司薫(しょうじ・かおる)氏。

 関係者によると、中村さんは庄司氏(79)にみとられ息を引き取った。2、3日前から体調を崩していたが、26日夜に急変したという。最近は病院で抗がん剤治療を受けながら、自宅と行き来する生活を続けていた。

(誕生日翌日26日に/) 14年2月、腸閉塞(へいそく)の手術をした際に大腸がんが見つかった。手術はせずに治療を続け、昨年3月に復帰したが、その後、治療に専念するため、同8月から再び活動を休止。今年4月に神奈川県川崎市内で行われた演奏会で復帰し「やっぱりここが私の生きている世界だなと思った」と笑顔で感想を語っていた。5月8日に兵庫・淡路島で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏になった。

 亡くなる前日が誕生日で、庄司氏は「誕生日を迎える日も、このところ見つけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだと言って、興奮していました。僕も、それを聴きたいと熱望していました」と、最期までピアノに情熱を燃やしていたことを明かした。

 中村さんは65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞を果たした。チャイコフスキー国際コンクールなど、世界のピアノコンクールの審査員を歴任したほか、ハウス食品の「ハウス ザ・カリー」、ネッスル(現ネスレ)の「ネスカフェ」のCMでも親しまれた。

 ◆中村 紘子(なかむら・ひろこ)本名福田紘子(ふくだ・ひろこ)。1944年(昭19)7月25日、山梨県生まれ。59年、慶応中3年で日本音楽コンクール1位入賞。翌60年、東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でデビューし、同年にNHK交響楽団初の世界一周公演のソリスト抜てき。65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞するなど海外で活躍。08年紫綬褒章、09年日本芸術院賞恩賜賞を受ける。


中村紘子さん死去 前日まで新しい奏法に意欲も…72歳で
スポニチアネックス 7月29日(金)5時1分配信

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死去した中村紘子さん

 世界的に活躍したピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため都内の自宅で死去した。72歳。山梨県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日お別れの会を開く。喪主は夫で作家の庄司薫(しょうじ・かおる)氏。

 関係者によると、中村さんは庄司氏(79)にみとられ息を引き取った。2、3日前から体調を崩していたが、26日夜に急変したという。最近は病院で抗がん剤治療を受けながら、自宅と行き来する生活を続けていた。

(誕生日翌日26日に/) 14年2月、腸閉塞(へいそく)の手術をした際に大腸がんが見つかった。手術はせずに治療を続け、昨年3月に復帰したが、その後、治療に専念するため、同8月から再び活動を休止。今年4月に神奈川県川崎市内で行われた演奏会で復帰し「やっぱりここが私の生きている世界だなと思った」と笑顔で感想を語っていた。5月8日に兵庫・淡路島で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏になった。

 亡くなる前日が誕生日で、庄司氏は「誕生日を迎える日も、このところ見つけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだと言って、興奮していました。僕も、それを聴きたいと熱望していました」と、最期までピアノに情熱を燃やしていたことを明かした。

 中村さんは65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞を果たした。チャイコフスキー国際コンクールなど、世界のピアノコンクールの審査員を歴任したほか、ハウス食品の「ハウス ザ・カリー」、ネッスル(現ネスレ)の「ネスカフェ」のCMでも親しまれた。

 ◆中村 紘子(なかむら・ひろこ)本名福田紘子(ふくだ・ひろこ)。1944年(昭19)7月25日、山梨県生まれ。59年、慶応中3年で日本音楽コンクール1位入賞。翌60年、東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でデビューし、同年にNHK交響楽団初の世界一周公演のソリスト抜てき。65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞するなど海外で活躍。08年紫綬褒章、09年日本芸術院賞恩賜賞を受ける。


ピアニストの中村紘子さん死去 大腸がんで72歳
東スポWeb 7月29日(金)2時4分配信

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中村紘子さん

 日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子さん(本名・福田紘子)が26日午後10時25分、大腸がんのため東京都内の自宅で死去した。72歳だった。所属事務所が29日、発表した。

 葬儀・告別式は28日、近親者で執り行われた。後日お別れの会を開く。

 中村さんは2015年に大腸がんの診断を受けたことを公表。闘病中も演奏活動を続けていた。

 夫で作家の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」と文書でコメントした。

 中村さんは天才少女ピアニストとして注目され、1960年にNHK交響楽団初の世界一周公演ソリストに抜てきされ、デビュー。65年にショパン国際ピアノコンクールで日本人初の入賞を果たし、国内外での演奏活動で評価を確立した。

 チャイコフスキー国際コンクールなど、世界のピアノコンクールの審査員を歴任したほか、著書「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど文筆家としても活躍。CMでも親しまれた。

 大腸がんと闘いながらも今年4月に東京交響楽団と共演。5月8日に兵庫県洲本市で開催されたリサイタルが最後の演奏となった。


中村紘子さん死去 CMに、情報番組に…。気さくな人柄、クラシック広げる
産経新聞 7月29日(金)1時29分配信

 世界的なピアニストでありながら、おしゃべりで気さくな一面を持つ、希有な人だった。NHK教育(現Eテレ)のクラシック音楽番組「N響アワー」で司会を務めたほか、教育・教養から社会情報番組までテレビにも出演。カレーのCMにも出演し、お茶の間でも親しまれた。

 華のある人だった。平成27年に大腸がんの治療で活動休止し、復帰後も、その華やかさでクラシックの魅力を伝え続けた。

 休養明け、昨年6月の東京公演は「ロシアの六月」と題した約2時間のトーク&コンサートだった。ロシアの作曲家、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」の解説をし、ピアノでも演奏。無心に鍵盤をたたく姿は舞台復帰を、この上なく喜んでいるように見えた。

 そして、チャイコフスキー国際音楽コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員を歴任した経験を生かしたトーク、アンコールではショパン作曲「子犬のワルツ」「別れのワルツ」「英雄ポロネーズ」の3曲を披露。自身の原点はチャイコフスキー・コンクールと、1965年の第7回で4位に入賞したショパン・コンクールだと印象づけた。

 国内外の後進の育成にも精力的に取り組んだ。今年4月、ポーランドの作曲家でピアニスト、パデレフスキの名を冠した「日本パデレフスキ協会」の副会長に就任。記者会見で「日本の若手にチャンスを与えるのが役目の一つ」とアピールしていた。日本のクラシックを大きく広げた人だった。(竹中文)


中村紘子さん死去 「もう一度モーツァルト聞きたかった」夫の庄司薫さん
産経新聞 7月29日(金)1時27分配信

 ◆夫で作家の庄司薫氏

 「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」


デビュー50周年記念の中村紘子さん
時事通信 7月29日(金)1時1分配信

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デビュー50周年記念記者会見で撮影に応じる中村紘子さん=2009年4月、東京都港区


亡くなった中村紘子さん
時事通信 7月29日(金)0時57分配信

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26日に大腸がんで亡くなったピアニストの中村紘子さん。2016年4月撮影


ピアニストの中村紘子さん死去=ショパンコンクール入賞―72歳
時事通信 7月29日(金)0時49分配信

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ショパン国際ピアノコンクールに入賞し、日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子さんが26日午後10時25分、大腸がんのため東京都港区の自宅で死去した。72歳だった=4月撮影

 ショパン国際ピアノコンクールに入賞し、日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子(なかむら・ひろこ=本名福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため東京都港区の自宅で死去した。

 72歳だった。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を行う予定。喪主は夫で作家の庄司薫(しょうじ・かおる、本名福田章二=ふくだ・しょうじ)氏。

 山梨県生まれ。幼時からピアノを習い、小澤征爾さん、堤剛さんらと共に桐朋学園「子供のための音楽教室」第1期生となった。

 全日本学生コンクールの小学生、中学生部門で続けて優勝、「天才少女」として知られるように。1959年日本音楽コンクールで1位特賞。翌年にはNHK交響楽団などと共演した。

 その後、米ジュリアード音楽院へ留学。65年の第7回ショパンコンクール(マルタ・アルゲリッチ優勝)で、日本人としては10年ぶり二人目の入賞(4位)と最年少賞を受けた。

 以降、トップピアニストとして国内外で演奏活動を展開。古典派からロマン派に至るレパートリーを軸に、華麗な技巧と豊かな感情表現で多くの聴衆を魅了した。

 チャイコフスキー、ショパンなど国際的コンクールの審査員として後進の指導にも尽力。浜松国際ピアノコンクールの審査委員長を務め、短期間で世界レベルの競技会にレベルアップさせた。

 自身の体験を基に執筆活動も行い、89年「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。華やかな容姿と親しみやすい語り口で、音楽番組の司会やテレビCMでも人気を博した。


夫・庄司薫さん、中村紘子さん死去に「残念です」
スポーツ報知 7月29日(金)0時45分配信

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中村紘子さん

 ピアニストの中村紘子さんが26日午後10時25分、都内の自宅で死去した。72歳だった。

 中村さんは2015年に大腸がんの診断を受けたことを公表。その後も治療と演奏活動を並行して行ってきた。葬儀は28日、近親者のみで営まれた。後日、お別れの会を行うという。

 中村さんの夫で「赤頭巾ちゃん気をつけて」などで知られる芥川賞作家・庄司薫さん(79)は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とコメントを発表した。


<訃報>国際的ピアニストの中村紘子さん死去、72歳
毎日新聞 7月29日(金)0時44分配信

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ピアニストの中村紘子さん=2007年3月、米田堅持撮影

 ◇「天才少女」 ショパン国際コンクールで最年少者賞も

 軽妙なエッセーやCM出演でも親しまれた国際的ピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため死去した。72歳。葬儀は近親者で営んだ。お別れの会を後日開く。喪主は夫で小説家の庄司薫(しょうじ・かおる、本名・福田章二=ふくだ・しょうじ)さん。

 山梨県生まれ、東京都育ち。桐朋学園の前身「子供のための音楽教室」の1期生として、井口愛子に師事。全日本学生音楽コンクールの小・中学校両部を制して「天才少女」と呼ばれた。1959年、史上最年少の15歳で現・日本音楽コンクールの1位・特賞に。全額奨学生として米ジュリアード音楽院で学び、65年にはショパン国際コンクールで4位と最年少者賞を受けた。当時の演奏ぶりを毎日新聞は「その音色は新鮮で、若さに輝く」と報じている。

 以来、日本を代表するピアニストとして活躍し、チャイコフスキー国際コンクールなどの審査員も歴任。経験をつづったエッセー集「チャイコフスキー・コンクール」で89年の大宅壮一ノンフィクション賞を受けるなど、文筆家としても名をはせた。

 華やかな美貌とユーモアあふれる人柄で人気を博し、カレールーのCMなどにも長年出演。クラシック音楽界とお茶の間の距離を縮めた。近年は後進の育成にも尽力。2008年に紫綬褒章を受けた。

 09年にはデビュー50周年を記念し、全国ツアーを敢行。演奏活動への意欲は衰えなかったが、14年に大腸がんが見つかり、「一病息災で生き抜きたい」と闘病を続けていた。

 庄司薫さんの話 誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。僕もそれを聞きたいと熱望していました。残念です。


ピアニスト・中村紘子さんが死去 72歳、大腸がん
スポーツ報知 7月29日(金)0時35分配信

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中村紘子さん(15年6月)

 ピアニストの中村紘子(本名・福田紘子)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため都内の自宅で死去した。72歳だった。

 中村さんは2014年2月、腸閉塞の手術で大腸がんが見つかった。その後は治療と演奏活動を並行して行ってきた。葬儀は28日、近親者のみで営まれた。喪主は夫で芥川賞作家の庄司薫氏(79)。後日、お別れの会を行うという。

 ◆中村紘子(なかむら・ひろこ)1944年7月25日、東京都生まれ。3歳でピアノを始め、慶応中の3年時に日本音楽コンクールで史上最年少の1位特賞を獲得し天才少女として話題に。60年にNHK交響楽団の世界一周公演にソリストとして抜てきされ華々しくデビュー、日本を代表するピアニストとして活躍。90年代にはハウス食品の「ハウス ザ・カリー」のCMにも出演。


中村紘子、逝去
BARKS 7月29日(金)0時34分配信

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中村紘子、逝去

ピアニストの中村紘子(本名:福田紘子)が、2016年7月26日午後(22時25分)大腸がんのため自宅で逝去した。享年72歳だった。葬儀は、7月28日に近親者のみで執り行われた。

中村紘子は早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビューを飾った。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に第7回ショパン・コンクールで入賞し、以後、日本のピアニストの代名詞となり、国内外のオーケストラとの共演、世界各国でのリサイタルなど3800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了し続けた。レコーディングも活発に行い、1968年にソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来50点余りの録音を残している。

1982年からはチャイコフスキー・コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員、1994年から15年間にわたって浜松国際ピアノコンクールの審査委員長も歴任し、「難民を助ける会」や日本赤十字などを通じてのボランティア活動にも積極的な役割を果たした。デビュー50周年を迎えた2009/2010年シーズンには80回を超える「デビュー50周年記念コンサート」を実施し、2015年には東京交響楽団と36年連続37回目となるニューイヤーコンサートに出演、病気と闘いながら、2016年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第24番を共演している。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏となった。

夫の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です。」とコメントを出している。

2015年に大腸がんの診断を受けたことを公表、治療と演奏活動を行ってきたところだった。後日、お別れの会が執り行われる予定となっている。ご冥福をお祈りいたします。


ピアニストの中村紘子さん死去 大腸がんで闘病も…72歳
スポニチアネックス 7月29日(金)0時18分配信

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死去した中村紘子さん

 ピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため東京都内の自宅で死去した。72歳だった。

 葬儀は28日、近親者のみで執り行われた。後日、お別れの会を開く。喪主は作家の夫庄司薫(しょうじ・かおる)氏。

 中村さんは早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜てきされデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年ショパン国際ピアノコンクールで日本人初の入賞を果たし、世界各国で3800回を超えるリサイタルを開催してきた。チャイコフスキー国際コンクールなど、世界のピアノコンクールの審査員を歴任。著書「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受けるなど文筆家として知られたほか、CMでも親しまれた。紫綬褒章、日本芸術院賞・恩賜賞。若手ピアニストの育成にも意欲的に取り組んだ。

 しかし、2014年2月、腸閉そくの手術をした際に大腸がんが発覚。その後、昨年1月に大腸がんを公表し一部公演を休演。その後、演奏を再開したが同年8月、治療に専念するためとして活動休止を発表。今年の5月には川崎市内で行われた演奏会に出演し、約8カ月ぶりに演奏活動を再開。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公演となった。

 で夫の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだと言って、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とコメントを発表している。


人気ピアニスト、中村紘子さん死去…文筆活動も
読売新聞 7月29日(金)0時17分配信

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中村紘子さん

 国民的な人気のピアニストとして活躍し、機知に富んだ文筆活動でも知られた中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため死去した。

 72歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は、夫で芥川賞作家の庄司薫氏。

 山梨県生まれ。3歳で斎藤秀雄らが主宰した「子供のための音楽教室」に入り、後にチェロ奏者となった堤剛さんらと学んだ。天才少女と評判になり、1959年、「音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)で史上最年少で第1位特賞となり、楽壇デビュー。60年には、NHK交響楽団が初めて行った世界一周演奏旅行のソリストに抜てきされた。米国留学の後、65年にショパン国際ピアノコンクールで日本人初の第4位に入賞し、名声を確立した。


ピアニストの中村紘子さん死去
産経新聞 7月29日(金)0時16分配信

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中村紘子さん(写真:産経新聞)

 ショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞し、世界各国のピアノコンクールの審査員も歴任した世界的ピアニスト、中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日に大腸がんのため死去していたことが28日、分かった。72歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫で作家、庄司薫(しょうじ・かおる=本名・福田章二)氏。

 山梨県生まれ、東京・世田谷育ち。指揮者の小澤征爾さんらを輩出した桐朋学園「子供のための音楽教室」で幼児期から学んだ。慶応義塾中等部在学中の昭和34年に日本音楽コンクールで史上最年少で第1位特賞を受賞し、翌35年にはNHK交響楽団初の演奏旅行のソリストに起用された。その後、米ニューヨークのジュリアード音楽院に留学。1965年の第7回ショパンショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞した。

 チャイコフスキー国際音楽コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員も歴任。その体験に基づく著書「チャイコフスキー・コンクール」は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

 後進の指導にも情熱を注ぎ、平成8年から「浜松国際ピアノアカデミー」を開催。一方、大腸がんの治療のために、平成27年2月から音楽活動を休止したが、同年3月にはステージに復帰。その後は闘病生活を送り、活動休止と復帰を繰り返しながら公演にも励んだ。

 今年4月には「日本パデレフスキ協会」の副会長の就任会見で元気な姿を見せていた。

 20年に紫綬褒章を受章したほか、国内外での受賞多数。著書に文芸春秋読者賞を受賞した「ピアニストという蛮族がいる」「コンクールでお会いしましょう~名演に飽きた時代の原点~」など。

2015年8月11日 (火)

天皇皇后両陛下、広島交響楽団のコンサートご鑑賞

天皇皇后両陛下は11日、東京都港区のサントリーホールで、広島交響楽団によるコンサート「平和の夕べ」をご鑑賞された。

コンサートは広島への原爆投下から70年にあたって企画された。両陛下は入場の際、客席から大きな拍手で迎えられ、にこやかに会釈で応えられていた。

皇后陛下9日に心臓の冠動脈の精密検査を受けられて以来、皇居の外で公務に臨まれるのは初めて。

宮内庁によれば、皇后陛下は精密検査の結果、冠動脈に軽度の「狭窄(きょうさく)」が見つかったが、6月末頃から訴えられていた胸の痛みは、ストレスなどが原因で生じた可能性があり、今後注意深く経過観察するとしている。

リンク:両陛下、被爆70年記念コンサートをご鑑賞 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下が「平和の夕べ」鑑賞 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下が「平和の夕べ」鑑賞 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:皇后さまがコンサート鑑賞 - 速報:@niftyニュース.
リンク:<天皇、皇后両陛下>広島交響楽団のコンサートを鑑賞 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、広島交響楽団コンサートに=皇后さま、精密検査後初の外出 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、広島交響楽団の公演「平和の夕べ」鑑賞 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

両陛下、被爆70年記念コンサートをご鑑賞
産経新聞 8月11日(火)23時59分配信

 天皇、皇后両陛下は11日夜、東京都港区のサントリーホールで、被爆や終戦から70年を記念した広島交響楽団のコンサート「平和の夕べ」を鑑賞された。

 皇后さまは、9日に心臓につながる冠動脈の精密検査を受け、強いストレスなどが要因とみられる「心筋虚血」と診断されてから初めての皇居外でのご公務。両陛下は広島に原爆が投下された6日に毎年黙●(=示へんに寿の旧字体)(もくとう)をささげるなど被爆者に心を寄せ続けており、今回は楽団側の要請に応じられた。

 両陛下は会場内の聴衆から拍手で迎えられ、皇后さまは笑顔を浮かべながら何度も会釈して応えられた。楽団には、世界的ピアニストのマルタ・アルゲリッチさんがゲスト参加。ベートーベンのピアノ協奏曲第1番が演奏され、両陛下はさかんに拍手を送られた。

 宮内庁によると、皇后さまは今後も体調を見ながら公務に臨まれるという。


両陛下が「平和の夕べ」鑑賞
時事通信 8月11日(火)22時7分配信

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広島交響楽団による「平和の夕べ」を鑑賞するため、会場に到着された天皇、皇后両陛下=11日午後、東京都港区のサントリーホール(代表撮影)

(時事通信社)


両陛下が「平和の夕べ」鑑賞
時事通信 8月11日(火)22時7分配信

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広島交響楽団による「平和の夕べ」を鑑賞するため、着席される天皇、皇后両陛下=11日午後、東京都港区のサントリーホール(代表撮影)

(時事通信社)


皇后さまがコンサート鑑賞
2015年8月11日(火)22時2分配信 共同通信

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 広島交響楽団のコンサート「平和の夕べ」を鑑賞するため、サントリーホールを訪問された天皇、皇后両陛下=11日夜、東京都港区(代表撮影)

 天皇、皇后両陛下は11日夜、東京都港区のサントリーホールを訪れ、広島の被爆や終戦から70年を記念する広島交響楽団のコンサート「平和の夕べ」を鑑賞された。9日に精密検査を受け、血管が細くなって心臓に血液が十分に行き届かなくなる心筋虚血などが確認された後、公の場に姿を見せたのは初めて。

 皇后さまは、観客から拍手で迎えられると、笑顔を浮かべながら繰り返し会釈して応えた。ベートーベンのピアノ協奏曲を聞き終えた際には、隣に座る天皇陛下とにこやかに言葉を交わし、拍手を送っていた。


<天皇、皇后両陛下>広島交響楽団のコンサートを鑑賞
毎日新聞 8月11日(火)21時52分配信

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広島交響楽団による「平和の夕べ」を鑑賞に訪れられた天皇、皇后両陛下=東京都港区のサントリーホールで2015年8月11日午後8時29分、代表撮影

 天皇、皇后両陛下は11日、東京都港区のサントリーホールで、広島交響楽団のコンサートを鑑賞された。コンサートは広島に原爆が投下されて70年に合わせて催された。皇后さまが皇居の外で公務を行うのは9日に冠動脈CT(コンピューター断層撮影)検査を受けてから初めて。

 コンサートでは世界的なピアニストのマルタ・アルゲリッチさんと同楽団がべートーベンのピアノ協奏曲第1番を演奏した。また広島で被爆した作家の原民喜(1951年没)が原爆の惨劇を描いた作品「鎮魂歌」を、作家の平野啓一郎さんらが朗読した。【高島博之】


両陛下、広島交響楽団コンサートに=皇后さま、精密検査後初の外出
時事通信 8月11日(火)21時48分配信

 天皇、皇后両陛下は11日夜、東京都港区のサントリーホールで開かれた広島交響楽団「平和の夕べ」の後半を鑑賞された。
 
 9日の精密検査で心臓の冠動脈に軽度の狭窄(きょうさく)が見つかり、経過観察となった皇后さまは、検査後初の外出。会場では、天皇陛下と共に観客に笑顔で手を振り、元気な姿を見せた。
 コンサートは広島の被爆70年に当たって企画され、音楽監督の秋山和慶さんが指揮し、アルゼンチン出身のマルタ・アルゲリッチさんがピアノを演奏。後半の冒頭には作家平野啓一郎さんらが、広島で被爆した作家原民喜の作品「鎮魂歌」の一節を朗読した。 


両陛下、広島交響楽団の公演「平和の夕べ」鑑賞
読売新聞 8月11日(火)21時45分配信

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広島交響楽団による「平和の夕べ」鑑賞のため、着席される天皇、皇后両陛下(11日夜、東京都港区で)=代表撮影

 天皇、皇后両陛下は11日、東京都港区のサントリーホールで、広島交響楽団による公演「平和の夕べ」を鑑賞された。

 皇后さまは9日に心臓の冠動脈の精密検査を受けて以来、皇居の外で公務に臨まれるのは初めて。

 広島への原爆投下から70年たち平和への願いを込めて企画された公演。両陛下は入場の際、客席から大きな拍手で迎えられ、にこやかに会釈で応えられていた。

 皇后さまは精密検査の結果、冠動脈に軽度の「狭窄(きょうさく)」が見つかった。ただ、6月末頃から訴えられていた胸の痛みは、ストレスなどが原因で生じた可能性があり、注意深く経過観察することとなった。宮内庁は「今後は精神的なご負担が軽くなるように考えていく」とする一方で、公務については「直ちに変更することは考えていない」としている。

2014年1月20日 (月)

世界的名指揮者・巨匠クラウディオ・アバド氏逝く

クラシック音楽の巨匠、イタリア出身の世界的名指揮者、20世紀最後のマエストロの一人クラウディオ・アバド氏が20日、死去したと伝えられた。
1933年イタリア・ミラノ生まれ。ミラノ・スカラ座、ロンドン響、ウィーン・フォルクス・オパー、ベルリン・フィル等の主席指揮者、芸術監督を歴任した。80歳。

いまはその偉大な功績を讃えるとともに、静かにご冥福をお祈りしたい。どうぞ安らかに。

リンク:世界的指揮者クラウディオ・アバド氏 80歳で死去 - 速報:@niftyニュース.
リンク:指揮者のアバド氏が死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:アバド氏死去「良き友亡くし、悲しい」=小澤征爾さんがコメント - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:伊指揮者アバド氏が死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:クラウディオ・アバド氏が死去 - 速報:@niftyニュース.
リンク:<訃報>クラウディオ・アバドさん80歳=指揮者 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:伊指揮者クラウディオ・アバド氏が死去…80歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:指揮者のアバド氏死去=クラシック音楽の巨匠、80歳 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

世界的指揮者クラウディオ・アバド氏 80歳で死去
2014年1月21日(火)13時0分配信 J-CASTニュース

世界的に活躍した指揮者、クラウディオ・アバド氏が2014年1月20日、イタリア北部のボローニャの自宅で死去した。80歳だった。

アバド氏は1933年、ミラノの音楽一家に生まれた。ウィーン国立音大などで音楽を学び、60年には「オペラの殿堂」とされるミラノのスカラ座の指揮者としてデビューした。72年には音楽監督に就任し、79年にはロンドン交響楽団首席指揮者、86年にはウィーン国立歌劇場の音楽監督になった。90年、カラヤン氏の後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で芸術監督に就任した。また、ヨーロッパ各地で若手中心のオーケストラの創設にかかわるなど、後進の育成にも力を入れていた。

死因は不明だが、アバドさんは2000年に胃がんの手術を受けていて、長い間、闘病生活を続けていた。13年10月に予定されていた来日公演も健康上の理由で中止になっていた。


指揮者のアバド氏が死去
時事通信 1月20日(月)22時59分配信

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ルツェルン音楽祭の開幕コンサートでオーケストラを指揮するクラウディオ・アバド氏=2007年8月、スイス・ルツェルン


アバド氏死去「良き友亡くし、悲しい」=小澤征爾さんがコメント
時事通信 1月20日(月)22時44分配信

 クラウディオ・アバド氏死去で、親交のあった小澤征爾さんは20日夜、「クラウディオと私は、デビュー前から今日に至るまで、ずっと良き友人でした。彼も私も厄介な病気になってからは、お互いに心配しあってきました。クラウディオは自己管理がとても上手な人だったので、きっと病気を克服して良くなってくれると信じていました。良き友を亡くして本当に悲しいです」とのコメントを出した。 


伊指揮者アバド氏が死去
時事通信 1月20日(月)21時55分配信

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ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督などを歴任したイタリアの世界的指揮者、クラウディオ・アバド氏が20日、死去した。80歳だった。関係者がアバド氏の医師の話として明らかにした。


クラウディオ・アバド氏が死去
2014年1月20日(月)21時35分配信 共同通信

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 スイス・ルツェルンでオーケストラを指揮するクラウディオ・アバド氏=2007年8月(AP=共同)

 【ローマ共同】イタリアのメディアによると、クラシック音楽界の巨匠で同国の指揮者クラウディオ・アバド氏が20日、北部ボローニャで死去した。80歳。死因は不明だが、かつて胃がんの手術を受けたことがあり、体調不良で昨年末からコンサート活動などをキャンセルしていた。

 1933年イタリア北部ミラノの音楽一家に生まれた。ミラノ音楽院などでピアノや指揮を学び、60年に27歳の若さでミラノ・スカラ座の指揮者としてデビュー。

 89年にカラヤンの後任として世界最高峰とされるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督に選ばれ、2002年まで務めた。


<訃報>クラウディオ・アバドさん80歳=指揮者
毎日新聞 1月20日(月)20時49分配信

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クラウディオ・アバド氏=AP

 イタリアメディアによると、長年にわたって率いたベルリン・フィルをはじめ多くのオーケストラの近代化を図り音楽界に大きな影響を与えたクラウディオ・アバド氏が20日、亡くなった。80歳だった。病気のため療養を続けていた。

 ミラノ生まれ。ミラノとウィーンで指揮を学び、27歳でミラノ・スカラ座にデビュー、一躍注目を浴びた。その後、スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ロンドン交響楽団など伝統の劇場、オーケストラの音楽監督を歴任する一方、若手の音楽学生を組織してECユース・オーケストラ、グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラを創設するなど、新世代指揮者のトップとして活躍した。その地位を決定づけたのが1989年のベルリン・フィルの常任指揮者への就任。長年強大な権力を誇った“帝王・カラヤン”が没したあと、団員の全員投票によって行われた指揮者選びは、世界的に話題を呼んだ。その後ベルリン・フィルをカラヤン風豪華けんらんな音色から、切れの良い、機能的でインターナショナルな“新生ベルリン・フィル”へと体質転換させた。昨年10月にはルツェルン祝祭管弦楽団を率いて来日公演を予定していたが、健康上の理由で中止になっていた。【梅津時比古】

 安永徹・元ベルリンフィル第1コンサートマスターの話 アバド氏とはオーケストラを通じて10年近くの交流があった。特別な感覚を持った人で、偉大な指揮者というより偉大な音楽家。とても残念です。


伊指揮者クラウディオ・アバド氏が死去…80歳
読売新聞 1月20日(月)20時30分配信

 【ローマ=青木佐知子】世界的に活躍したイタリアの指揮者、クラウディオ・アバド氏が20日、伊北部ボローニャの自宅で死去した。

 80歳だった。氏は胃がんを患い、治療を続けていた。

     ◇

 ミラノでバイオリニストの父、ピアニストの母という音楽一家に生まれた。1953年、ベルディ音楽院を卒業後、ウィーン国立音大で指揮を学んだ。63年に米国のミトロプーロス国際指揮者コンクールで優勝。オペラと管弦楽コンサートの双方を得意とし、みずみずしく端正な音楽作りで評価を確立した。

 72~86年にミラノ・スカラ座の音楽・芸術監督、79~88年にロンドン交響楽団の首席指揮者、86~91年にはウィーン国立歌劇場の音楽監督を歴任した。多くの録音を残し、現代音楽にも精力的に取り組んだ。


指揮者のアバド氏死去=クラシック音楽の巨匠、80歳
時事通信 1月20日(月)19時40分配信

 【ジュネーブ時事】ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督などを歴任したイタリアの世界的指揮者クラウディオ・アバド氏が20日、死去した。80歳だった。同国のメディアが伝えた。2000年に胃がんの手術を受け、闘病生活を続けながら音楽活動をしていた。
 古典から現代作品まで幅広いレパートリーで知られ、ムーティやメータ、小澤征爾らと共に世界の巨匠の一人とされる。
 1933年ミラノ生まれ。ジュゼッペ・ベルディ音楽院でピアノや作曲を、ウィーン音楽アカデミーで指揮を学んだ。イタリア国内を中心に活躍していたが、65年ザルツブルク音楽祭に招かれウィーン・フィルを指揮、圧倒的な成功を収めた。
 68年にミラノ・スカラ座の首席指揮者、86年まで音楽監督などを務めた。79年ロンドン交響楽団の首席指揮者、86年ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任、世界音楽界の主要ポストを担った。特に89年ベルリン・フィルの団員選挙で芸術監督に決まった(90年就任)時には、帝王と呼ばれた故カラヤンの後任に誰が選ばれるか注目された。
 73年ウィーン・フィルの公演で初来日。その後もたびたび訪れ、根強い人気があった。昨年10月に7年ぶりの来日公演が予定されていたが、健康上の理由から中止になった。
 若手の音楽家を育てるEC(現EU)ユース・オーケストラなどを創設、後進の育成にも熱心だった。13年8月には母国イタリアの終身上院議員に指名された。 

2013年8月23日 (金)

天皇皇后両陛下、松本で小沢征爾指揮のオペラ鑑賞へ

天皇皇后両陛下は23日午前、松本市内で開催される世界文化賞受賞者で指揮者の小澤征爾さんが総監督を務める音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」鑑賞などのため、新幹線で長野県へご出発された。同日夜の音楽祭では、体調を崩して活動を休止していた小澤征爾さんが本格復帰する歌劇をご鑑賞された。

リンク:皇后さま、ピアノを演奏 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:皇后さま、草津でピアノをご演奏 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<両陛下>草津で音楽鑑賞 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアノを練習される皇后さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:テニスをプレーされる天皇、皇后両陛下 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、思い出のコートでテニス - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:思い出のコートでテニス=両陛下、息合ったプレー—長野・軽井沢 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、軽井沢でテニス=出会いの地で1時間—長野 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、両腕切断の画家作品ご覧に 長野 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<皇室>両陛下が水村喜一郎美術館を訪問 長野 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:天皇・皇后両陛下、長野で美術館をご訪問 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、水村喜一郎美術館に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、水村喜一郎美術館に=長野 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下「日本最古の小学校」ご視察 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:長野県歌に皇后さま「疎開先で聞きました」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、静養で軽井沢入り - 速報:@niftyニュース.
リンク:両陛下、軽井沢で静養 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、旧開智学校ご視察 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、最古の小学校見学 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、最古の小学校見学=長野 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「サイトウ・キネン」両陛下ご鑑賞 小澤征爾さん2年ぶりタクト - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:小沢征爾さん2年ぶりオペラ指揮、両陛下も拍手 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:天皇、皇后両陛下がオペラ鑑賞 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、オペラ鑑賞=小澤征爾さんが指揮—長野 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<小澤征爾さん>指揮者として本格復帰 両陛下も鑑賞 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、長野県入り - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下が長野入り、小沢征爾指揮のオペラ鑑賞へ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、長野県へご出発 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、長野県入り - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

皇后さま、ピアノを演奏
読売新聞 8月29日(木)22時43分配信

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「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」で、ピアノを練習される皇后さま(29日午後、群馬県草津町で)=宮坂永史撮影

 静養中の天皇、皇后両陛下は29日、長野県軽井沢町から群馬県草津町に入り、「第34回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」の管楽コンサートを鑑賞された。

 これに先立ち、皇后さまは世界的な音楽家からレッスンを受けられる講習会に参加。コントラバス奏者のクラウス・シュトールさんの助言を受けながら、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」をピアノで演奏された。

 両陛下は31日まで草津町で静養される。


皇后さま、草津でピアノをご演奏
産経新聞 8月29日(木)22時38分配信

 長野県軽井沢町で静養していた天皇、皇后両陛下は29日、群馬県草津町へ移動し、「第34回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」のコンサートを鑑賞された。

 これに先立ち、皇后さまは会場近くでピアノのレッスンに臨み、コンサート出演者で世界的なコントラバス奏者のクラウス・シュトールさん(70)と一緒に、ラフマニノフの歌曲「ヴォカリーズ」を演奏された。

 演奏の合間には英語で熱心に言葉を交わし、「ビューティフル」と感想を話すシュトールさんにほほ笑まれる場面もあった。


<両陛下>草津で音楽鑑賞
毎日新聞 8月29日(木)19時6分配信

 長野県と群馬県で静養中の天皇、皇后両陛下は29日、群馬県草津町のコンサートホールで開かれた第34回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルを鑑賞した。両陛下は約50分間、演奏に聴き入り、大きな拍手を送った。鑑賞に先立ち皇后さまは、ドイツ出身のコントラバス奏者、クラウス・シュトール氏とピアノのレッスンをした。演奏の途中でシュトール氏と何度も打ち合わせをしながらピアノを奏でた。


ピアノを練習される皇后さま
時事通信 8月29日(木)17時7分配信

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「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」を訪問し、ピアノを練習される皇后さま=29日午後、群馬県草津町の草津音楽の森(代表撮影)


テニスをプレーされる天皇、皇后両陛下
時事通信 8月27日(火)20時22分配信

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思い出のテニスコートでプレーされる天皇、皇后両陛下=27日夕、長野県軽井沢町の軽井沢会テニスコート


両陛下、思い出のコートでテニス
時事通信 8月27日(火)20時22分配信

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長野県軽井沢町で静養中の天皇、皇后両陛下は27日夕、同町の軽井沢会テニスコートでプレーを楽しまれた。コートは両陛下が出会ったゆかりの場所。両陛下はペアを組み、息の合ったプレーを披露した。


思い出のコートでテニス=両陛下、息合ったプレー—長野・軽井沢
時事通信 8月27日(火)20時9分配信

 長野県軽井沢町で静養中の天皇、皇后両陛下は27日夕、同町の軽井沢会テニスコートでプレーを楽しまれた。
 コートは両陛下が出会ったゆかりの場所。大勢の観客が見守る中、両陛下はペアを組み、声を掛け合いながら、息の合ったプレーを披露。対戦相手から「ナイスプレー」と声を掛けられると、笑顔を見せた。
 両陛下は24日に同町入りし、26日には別のテニスコートでプレーした。29日に群馬県草津町に移動する。 


両陛下、軽井沢でテニス=出会いの地で1時間—長野
時事通信 8月27日(火)2時33分配信

 長野県軽井沢町で静養中の天皇、皇后両陛下は26日午後、同町のテニスコートで約1時間テニスを楽しまれた。
 午後4時ごろ、コートに姿を見せた両陛下はダブルスの試合でペアを組み、沿道から20人ほどの観客が見守る中、声を掛け合いながら息の合ったプレーを見せた。ショットが決まると、お互いに笑顔で見つめ合う場面もあった。
 軽井沢は両陛下が出会った思い出の地として知られ、夏に静養で訪れた際にはたびたびテニスをしている。 


両陛下、両腕切断の画家作品ご覧に 長野
産経新聞 8月26日(月)7時55分配信

 長野県軽井沢町で静養中の天皇、皇后両陛下は25日、同県東御(とうみ)市を訪れ、事故で両腕を失い、口で筆をとって絵を描く画家、水村喜一郎さん(67)の作品を集めた「水村喜一郎美術館」を訪問された。両陛下は水村さんと30年来の交流があり、再会を喜ばれた。

 水村さんは9歳のとき誤って高圧電線に接触し、両腕を肩から切断。だが、好きだった絵は諦めず、口で描く方法で画家を目指した。

 両陛下が初めてお会いになったのは皇太子、同妃時代の昭和56年。国際障害者年の記念芸術祭で、油絵「柿」を鑑賞されたのがきっかけで、側近によると皇居・御所に漁港を描いた作品などを飾られている。

 この日、両陛下は約60点の作品を熱心にご鑑賞。「柿」も32年ぶりにご覧になり、陛下は「ああこれですね、障害者年の」とすぐに思い出された。水村さんは「来ていただけてうれしくてたまらない。これからもいい絵を描いていきたい」と話していた。


<皇室>両陛下が水村喜一郎美術館を訪問 長野
毎日新聞 8月25日(日)20時20分配信

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画家の水村喜一郎さんから作品の説明を受ける天皇皇后両陛下=長野県東御市の水村喜一郎美術館で2013年8月25日午後4時7分、代表撮影

 長野県で静養中の天皇、皇后両陛下は25日、東御(とうみ)市の水村喜一郎美術館を訪問した。

 水村さんは9歳の時に高圧電流に触れて両腕をなくし、口に筆をくわえて絵を描く画家。両陛下は1981年の展覧会で作品を見て以来、住まいの御所に絵を飾るなど作品に親しんでおり、約60点の油彩やデッサンを熱心に鑑賞した。皇后さまは、個展を訪れたこともあり、「また会いましょうね」と水村さんに話し掛けていた。


天皇・皇后両陛下、長野で美術館をご訪問
読売新聞 8月25日(日)19時16分配信

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画家の水村喜一郎さんから作品の説明を受ける天皇皇后両陛下(25日午後、長野県東御市の水村喜一郎美術館で)=菊政哲也撮影

 長野県軽井沢町に滞在中の天皇、皇后両陛下は25日、同県東御(とうみ)市にある画家水村喜一郎さん(67)の美術館を訪問された。

 東京都墨田区出身の水村さんは9歳の時、誤って高圧電線に触れて両腕を失い、口にくわえた絵筆で油絵などの作品を描いてきた。両陛下とは30年来の交流があり、両陛下のお住まいの御所には、漁港の風景などを描いた水村さんの作品が飾られているという。

 両陛下は風景画や静物画を約30分かけて熱心に鑑賞し、天皇陛下は水村さんに「いい絵を描いていただいて、本当にどうもありがとう」とほほ笑まれた。皇后さまは玄関先で見送った水村さんに、「また会いましょうね」と笑顔で声を掛けられたという。


両陛下、水村喜一郎美術館に
時事通信 8月25日(日)18時59分配信

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長野県軽井沢町で静養中の天皇、皇后両陛下は25日午後、同県東御市の美術館を訪れ、幼少時に事故で両腕を失い、口に絵筆をくわえて描く画家・水村喜一郎さん(写真右)の絵画を鑑賞された(代表撮影)
(時事通信社)


両陛下、水村喜一郎美術館に=長野
時事通信 8月25日(日)17時58分配信

 長野県軽井沢町で静養中の天皇、皇后両陛下は25日午後、同県東御市の美術館を訪れ、幼少時に事故で両腕を失い、口に絵筆をくわえて描く画家・水村喜一郎さん(67)の絵画を鑑賞された。
 皇后さまが国際障害者年(1981年)に合わせて開催された芸術展で見た水村さんの絵を気に入り、これまでに絵画2点を購入して御所に飾っているほか、個展にも足を運んでいるという。
 両陛下は館長を務める水村さんの説明を聞きながら、きっかけとなった作品「柿」などを感慨深そうに見て回った。 


両陛下「日本最古の小学校」ご視察
産経新聞 8月25日(日)7時55分配信

 長野県を訪問中の天皇、皇后両陛下は24日、松本市で、明治前期に小学校校舎として建てられ「日本最古の小学校のひとつ」といわれる擬洋風建築「旧開智学校」を視察された。同日午後には軽井沢町に移り、静養に入られた。


長野県歌に皇后さま「疎開先で聞きました」
読売新聞 8月24日(土)20時17分配信

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旧開智学校の展示室で窪田館長(左)のオルガン演奏を聞かれる天皇、皇后両陛下(24日午前10時6分)=代表撮影

 長野県に滞在している天皇、皇后両陛下は24日、国の重要文化財の旧開智学校(松本市)を訪問された。

 旧開智学校は、明治初期の1876年に旧制小学校として建築された。擬洋風建築が特徴で、1963年まで使われていた。

 明治時代の教室を再現した展示室で、両陛下は机や黒板、教材などを懐かしそうに見て回られた。松本市立博物館の窪田雅之館長が、昭和初期に作られたオルガンで長野県歌「信濃の国」を演奏すると、両陛下は笑顔で聴き入られた。

 窪田館長によると、戦時中に県内に疎開していた皇后さまは「疎開先で聞きました」と話されたという。


両陛下、静養で軽井沢入り
2013年8月24日(土)17時2分配信 共同通信

 長野県を訪問中の天皇、皇后両陛下は24日、静養のため軽井沢町に入られた。軽井沢駅では住民や観光客に笑顔で手を振った。25日には東御市を訪れ、9歳のときに高圧電線に触れて両腕を失ったため、口でくわえた絵筆で描く画家水村喜一郎さんの美術館を鑑賞する。29日に群馬県草津町に移動、「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」でコンサートを鑑賞。皇后さまはピアノのワークショップに参加する。31日に帰京する。


両陛下、軽井沢で静養
時事通信 8月24日(土)15時29分配信

 長野県を訪問中の天皇、皇后両陛下は24日午後、静養のため滞在先の松本市から軽井沢町に移られた。29日に群馬県草津町に移動し、31日に帰京する。 


両陛下、旧開智学校ご視察
産経新聞 8月24日(土)12時32分配信

 長野県を訪問中の天皇、皇后両陛下は24日午前、松本市で、明治前期に小学校の校舎として建てられた擬洋風建築「旧開智学校」を視察された。

 両陛下は、現在は教育博物館となっている建物内で、昔の学習机などを鑑賞し、明治天皇が訪れた際に使われた部屋もご覧になった。古いオルガンのある部屋では、明治に作曲された県歌「信濃の国」の演奏をお聞きになり、皇后さまは「疎開先でこれを聞きました」と話された。

 明治6年開校の開智学校は「日本最古の小学校のひとつ」といわれる。現在残るのは同9年に建築された旧校舎で、国の重要文化財に指定されている。


両陛下、最古の小学校見学
時事通信 8月24日(土)12時22分配信

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長野県を訪問中の天皇、皇后両陛下は24日午前、日本最古の小学校の一つである旧開智学校の校舎(松本市)を見学された。写真は旧開智学校の特別展示室を視察し、オルガンについて説明を受ける両陛下(代表撮影)
(時事通信社)


両陛下、最古の小学校見学=長野
時事通信 8月24日(土)10時42分配信

 長野県を訪問中の天皇、皇后両陛下は24日午前、日本最古の小学校の一つである旧開智学校の校舎(松本市)を見学された。
 旧開智学校は1873年に開校し、1963年まで90年間、現在の校舎が使われた。和風と洋風を組み合わせた明治の文明開化を象徴する建造物で、61年に近代の学校建築として初めて重要文化財に指定された。65年からは教育博物館として公開されている。
 両陛下は「これは当時のですか」などと尋ねながら、展示されている机やオルガンなどを熱心に見て回った。 


「サイトウ・キネン」両陛下ご鑑賞 小澤征爾さん2年ぶりタクト
産経新聞 8月24日(土)7時55分配信

 世界文化賞受賞者で指揮者の小澤征爾さん(77)が23日夜、長野県松本市で自ら総監督を務める音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」のステージに立ち、2年ぶりにタクトを振った。同日に長野県を訪問した天皇、皇后両陛下も演奏を鑑賞し、小澤さんの“本格復帰”に拍手を送られた。同音楽祭は今年22回目。平成22年に食道がん手術をした小澤さんは昨年3月、体力回復のため活動休止を宣言し同年の音楽祭は指揮を見送ったが、この日は約50分にわたりラベル作曲のオペラ「こどもと魔法」を指揮した。音楽教室などを除く一般コンサートでは、休止宣言後、初めて曲全体を通じての指揮となった。

 演奏後、両陛下は小澤さん家族らとご懇談。皇后さまは「元気になられて何よりよかった」と話され、小澤さんは「2年ぶりなんですよ」とうれしそうな様子だったという。両陛下は24日午後に同県軽井沢町で静養に入り、29日に群馬県草津町へ移動される。31日ご帰京の予定。


小沢征爾さん2年ぶりオペラ指揮、両陛下も拍手
読売新聞 8月23日(金)21時35分配信

 指揮者の小沢征爾さん(77)が23日、長野県松本市で開かれている音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で2年ぶりにオペラを指揮した。

 天皇、皇后両陛下をはじめ、会場のまつもと市民芸術館を埋めた約1500人の観客から盛大な拍手を受けた。

 小沢さんが振ったのは、この日の演目の前半、ラベル作曲の「こどもと魔法」で、45分ほどの短い作品。小沢さんがオペラを指揮するのは、2011年夏の同フェスティバルでの公演以来で、主人公の少年が草木や動物、イスや茶わんなどに責められる、というコミカルでシュールな舞台と楽団を体を踊らせるように指揮した。両陛下も身を乗り出して拍手を送られた。

 前半終了後、カーテンコールで舞台上に姿を現した小沢さんは、満面の笑みで観客の喝采に応え、出演者らと手をつないで何度もお辞儀を繰り返した。


天皇、皇后両陛下がオペラ鑑賞
時事通信 8月23日(金)20時47分配信

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小澤征爾さん指揮のオペラ開演前に手を振られる天皇、皇后両陛下=23日午後、長野県松本市のまつもと市民芸術館(代表撮影)


両陛下、オペラ鑑賞=小澤征爾さんが指揮—長野
時事通信 8月23日(金)20時45分配信

 長野県を訪問中の天皇、皇后両陛下は23日夜、松本市で開催されている「第22回サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で、小澤征爾さんが指揮するラヴェル作曲のオペラ「こどもと魔法」を鑑賞された。
 小澤さんは食道がんと腰痛の治療を受け、2011年8月に復帰したが、12年1月に再び体調を崩し、同3月に1年間の活動休止を宣言。この日が本格的な復帰となった。 


<小澤征爾さん>指揮者として本格復帰 両陛下も鑑賞 
毎日新聞 8月23日(金)20時13分配信

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休養明けで初めて本格復帰し「サイトウ・キネン・フェスティバル」での指揮に臨み観客席にあいさつする小澤征爾さん=長野県松本市のまつもと市民芸術館で2013年8月23日午後7時20分、山本晋撮影

 指揮活動を休止していた小澤征爾さん(77)が23日、長野県松本市のまつもと市民芸術館でラベルのオペラ「こどもと魔法」を指揮し、約1500人の観客に元気な姿を見せた。約1年半ぶりの本格復帰。小澤さんが総監督を務める「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」の一環で、静養などのため来県された天皇、皇后両陛下も鑑賞した。

 小澤さんは2010年に食道がんの手術を受けた後、体力と抵抗力の低下が続き、休養のため12年3月から1年間の指揮活動休止を発表した。今年3月に京都市であった「小澤征爾音楽塾」の演奏会アンコールで約8分半の指揮をしたほか、7月末には約25分の演奏を3回こなすなど徐々に活動を再開していた。【福富智】


両陛下、長野県入り
時事通信 8月23日(金)15時10分配信

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天皇、皇后両陛下は23日、新幹線で長野県入りされた。午後に同県松本市内で小澤征爾さん指揮のオペラを鑑賞する。写真は長野駅に到着し、阿部守一長野県知事(手前)の出迎えを受ける両陛下=長野市(代表撮影)


両陛下が長野入り、小沢征爾指揮のオペラ鑑賞へ
読売新聞 8月23日(金)13時36分配信

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長野駅に到着された天皇、皇后両陛下(23日午後0時46分、長野市のJR長野駅で)=代表撮影

 天皇、皇后両陛下は23日午後、新幹線で長野県入りされた。

 夜には松本市内のホールで、小沢征爾氏が指揮するサイトウ・キネン・フェスティバル松本のオペラを鑑賞される。両陛下は29日まで軽井沢町などに滞在、同日から群馬県草津町に移り、31日に帰京される。


両陛下、長野県へご出発
産経新聞 8月23日(金)11時33分配信

 天皇、皇后両陛下は23日午前、世界文化賞受賞者で指揮者の小澤征爾さん(77)が総監督を務める音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」鑑賞などのため、長野新幹線で長野県へ出発された。同日夜の音楽祭では、体調を崩して活動を休止していた小澤さんが本格復帰する歌劇をご覧になる。

 24日午後から、同県軽井沢町で静養に入り、29日には群馬県草津町へ移動される。31日にご帰京の予定。


両陛下、長野県入り
時事通信 8月23日(金)11時23分配信

 天皇、皇后両陛下は23日、新幹線で長野県入りされた。午後に同県松本市内で小澤征爾さん指揮のオペラを鑑賞する。
 24日には日本最古の小学校の一つ、旧開智学校を見学し、その後軽井沢町で静養。29日に群馬県草津町に移動し、31日に帰京する。 

2013年4月12日 (金)

天皇皇后両陛下、チャリティー晩さん会でダンスを披露

天皇皇后両陛下が12日夜、ホテルオークラ東京で開催された国際福祉協会創立60周年記念チャリティー晩さん会「チェリー・ブロッサム・チャリティーボール」でダンスを披露された。

両陛下が公の場でダンスをするのは、同協会の40周年晩さん会以来20年ぶりとのこと。

リンク:両陛下 20年ぶりステップ 国際福祉協会の慈善晩餐会でダンス披露 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ダンスを披露される両陛下 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下がダンスを披露 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、華麗にステップ=20年ぶりダンス披露—東京 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<両陛下>20年ぶりダンス披露 チャリティー晩さん会 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下20年ぶりダンス披露 - 速報:@niftyニュース.
リンク:天皇、皇后両陛下が20年ぶりにダンス披露 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

両陛下 20年ぶりステップ 国際福祉協会の慈善晩餐会でダンス披露
産経新聞 4月13日(土)7時55分配信

 天皇、皇后両陛下は12日夜、東京都港区のホテルオークラで国際福祉協会の慈善晩餐(ばんさん)会に出席し、夕食後、ワルツやタンゴを計4曲踊られた。宮内庁によると、公の場で両陛下がダンスを披露されたのは20年ぶり。陛下がリードし、踊りながら言葉を交わしたり、ほほ笑み合ったりされる場面も。堅実で華麗なステップに、約500人の出席者が大きな拍手を送った。


ダンスを披露される両陛下
時事通信 4月12日(金)22時58分配信

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国際福祉協会の創立60周年記念慈善晩さん会に出席し、ダンスを披露される天皇、皇后両陛下=12日午後、東京都港区


両陛下がダンスを披露
時事通信 4月12日(金)22時58分配信

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国際福祉協会の創立60周年記念慈善晩さん会に出席し、ダンスを披露される天皇、皇后両陛下=12日午後、東京都港区


両陛下、華麗にステップ=20年ぶりダンス披露—東京
時事通信 4月12日(金)21時53分配信

 天皇、皇后両陛下は12日夜、東京都港区のホテルで開かれた国際福祉協会の創立60周年記念慈善晩さん会に出席し、ダンスを披露された。両陛下が公の場でダンスを披露したのは同40周年記念パーティー以来20年ぶり。
 タキシード姿の天皇陛下は、白いロングドレスを着た皇后さまの手を取り、ワルツ曲「シャルメーヌ」など4曲を踊った。両陛下が華麗なステップを踏むと、会場から大きな拍手が起きた。
 宮内庁によると、両陛下はこの日のために約1カ月間、公務の後、御所でレコードをかけ練習をしてきたという。 


<両陛下>20年ぶりダンス披露 チャリティー晩さん会
毎日新聞 4月12日(金)21時51分配信

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国際福祉協会創立60周年記念慈善晩さん会「チェリー・ブロッサム・チャリティーボール」で、ダンスを楽しむ天皇、皇后両陛下=東京都港区のホテルオークラ東京で2013年4月12日、代表撮影

 天皇、皇后両陛下は12日夜、国内外の福祉施設を援助している「国際福祉協会」が東京都港区のホテルで開いた創立60周年記念チャリティー晩さん会に招かれ、ダンスを踊った。両陛下が公の場でダンスをするのは、同協会の40周年晩さん会以来20年ぶり。

 天皇陛下はタキシード、皇后さまは白を基調としたロングドレス姿。耳元でささやき合いながら、ワルツ「シャルメーヌ」などに合わせて笑顔でステップを踏み、来場者から大きな拍手が湧いた。宮内庁によると、両陛下は久しぶりのダンスに備え、お住まいの皇居・御所で演奏曲が収録されたレコードを流して何度も練習したという。【長谷川豊】


両陛下20年ぶりダンス披露
2013年4月12日(金)21時21分配信 共同通信

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 国際福祉協会創立60周年記念のチャリティー舞踏会で、ダンスを披露される天皇、皇后両陛下=12日夜、東京都内のホテル(代表撮影)

 天皇、皇后両陛下は12日夜、東京都港区のホテルで開かれた国際福祉協会創立60周年記念のチャリティー舞踏会に出席し、他の参加者とともにダンスを披露された。両陛下が公の場で踊るのは1993年4月、同協会主催の舞踏会に参加して以来、20年ぶり。天皇陛下はタキシード、皇后さまは淡いピンクのロングドレスでダンスの前の夕食会に臨んだ。この日のダンスの曲目はワルツ「シャルメーヌ」など。


天皇、皇后両陛下が20年ぶりにダンス披露
読売新聞 4月12日(金)21時12分配信

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ダンスを披露される天皇、皇后両陛下=代表撮影

 天皇、皇后両陛下は12日夜、東京都港区のホテルオークラ東京で開かれた慈善晩さん会「チェリー・ブロッサム・チャリティーボール」に出席、20年ぶりにダンスを披露された。

 今年で創立60周年を迎えた国際福祉協会の主催。天皇陛下は黒のタキシード、皇后さまは白いロングドレス姿で、手を取り合い、時折ささやき合いながら、陛下が軽やかなステップでリードされた。「バラのタンゴ」「ムーンリバー」など4曲を終始笑顔で踊られ、会場は和やかな雰囲気に包まれた。宮内庁によると、両陛下は1か月ほど前から、時折レコードを流し、ダンスの練習をされていたという。

 同協会は、晩さん会の収益金などで国内外の福祉施設の援助を行っている。

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