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2017年3月11日 (土)

東日本大震災等および原発事故関連のニュース・2209

引き続き、2011年3月11日に発生した、東日本大震災ならびに東電福島第一原発事故に関連するニュース記事を伝達します。

今後も引き続き、随時追加します。

リンク:<本社世論調査>原発再稼働 反対55%賛成26%、差拡大 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<首相>岩手の被災地視察 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:犠牲者を追悼、2000枚の凧舞う…陸前高田 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:福島沖でM5・3地震、田村市・浪江町で震度4 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:首相、中学卒業生に「希望」の色紙…被災地訪問 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:安倍首相 宮古市の卒業式に「みなさんの希望が東北の復興、日本の発展につながっていく」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災6年 群馬のイノシシなどいまだ出荷制限 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「年月かかっても完全解除」=安倍首相、帰還困難区域の避難で - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:遺族、市と県が双方控訴/大川小19家族が損害賠償 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:裁判ちゃんとして逝かないと…大川小遺族夫妻の闘い - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:大川小で生還の只野さん高3に 将来の夢は消防士 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:いわき市薄磯海岸、今年7年ぶりに海水浴場再開 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:児童74人、教職員10人が津波の犠牲/大川小被害 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>祈りのキャンドル 全国から茨城・取手に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>犠牲者法要「忘れない」鐘響く 三重・桑名 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「子どもを守れなった教師の父」 その死を悲しみきれなかった息子が口にできなかったこと - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<海保>「見つからない」被災地を潜る意味 海猿の6年 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:避難先で1人、亡くなった母…6年を経て「申し訳ない気持ち、ようやく吹っ切れた」川内村 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災6年 被災者への「共感力」高めたい 東北総局長・白浜正三 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災6年 声が聞きたい。話がしたい - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災6年 見守って、私は大丈夫 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:涙の海 震災遺族の6年 ここに来れば、娘に会える - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災6年 進む時間、止まった時間 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:置き去りにされた“心の復興” なくならない震災いじめ、でも… - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>「1者応札」苦渋の容認 競争性に疑問も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:警官らが被災パトカー前で献花 住民を避難誘導中に津波に巻き込まれ殉職 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:福島県田村市などで震度4の地震 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:福島県で震度4 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:〔地震〕福島県田村市・浪江町で震度4、津波の心配なし - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>「気仙沼レストラン」来て 名城大学生が運営 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>「時間は止まったまま」名古屋避難の男性 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>関学大礼拝堂で黙とう 学生ら賛美歌合唱 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>神戸の中学生、宮城で植樹 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>キャンドルともし「忘れない」 犠牲者しのぶ - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

<本社世論調査>原発再稼働 反対55%賛成26%、差拡大
毎日新聞 3/13(月) 0:03配信

Ksnp
九州電力川内原発1、2号機=鹿児島県薩摩川内市で2015年5月19日午後0時22分、本社ヘリから須賀川理撮影

 毎日新聞が11、12両日に実施した全国世論調査では、東日本大震災からの復興について聞いた。原発の再稼働に「反対」との回答は55%で、「賛成」の26%を大きく上回った。

 安倍内閣は原発の再稼働を進め、九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)など3基が稼働中。関西電力高浜原発3、4号機(福井県)は再稼働後、大津地裁の差し止め命令を受けて運転を停止した。昨年3月の調査では「反対」53%、「賛成」30%で、今回は差がやや広がった。内閣支持層でも反対が賛成より多い。

 東京電力福島第1原発事故による帰還困難区域の一部を「復興拠点」として整備するため、政府は来年度から税金を使って除染を進める。「税金を使うことには慎重であるべきだ」は47%、「除染を進めるため積極的に税金を使うべきだ」は34%。除染費用はこれまで東電が原則負担してきたうえ、拠点整備が住民の帰還を促すのか見通せないことなどが、慎重論につながっているようだ。

 震災から6年がたち、国民の被災地への関心が薄れたと「よく感じる」は24%、「ときどき感じる」は48%で計72%。昨年3月調査の計79%から大きな変化はなかった。節電に「大いに取り組んでいる」は17%、「少し取り組んでいる」は49%。2012年7月調査では「大いに」「少し」で計8割を超えていた。【浜田和子】

 ◇調査の方法

 3月11、12日の2日間、コンピューターで無作為に数字を組み合わせて作った電話番号に、調査員が電話をかけるRDS法で調査した。福島第1原発事故で帰還困難区域などに指定されている市町村の電話番号は除いた。18歳以上のいる1597世帯から、1012人の回答を得た。回答率は63%。


<首相>岩手の被災地視察
毎日新聞 3/12(日) 22:57配信

 安倍晋三首相は12日、東日本大震災からの復興状況を確認するため、津波で大きな被害を受けた岩手県宮古市を訪れた。首相は、同市立第一中学校の卒業式に出席し「皆さんの希望が宮古、岩手、東北の復興に、そして日本の発展につながっていく」とあいさつし、卒業生にエールを送った。

 首相はこの日、津波で低層階の部屋が流されたホテルの遺構や、昨年8月の台風被害で休業中の同県岩泉町の観光名所「竜泉洞」を訪問。19日の営業再開に先立ち、鍾乳洞や地底湖を見学して回った。【真野敏幸】


犠牲者を追悼、2000枚の凧舞う…陸前高田
読売新聞 3/12(日) 20:56配信

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大空への架け橋のように天高く揚がる震災犠牲者の追悼の連だこ(12日午後3時14分、岩手県陸前高田市で)=栗原怜里撮影

 東日本大震災で津波に襲われた岩手県陸前高田市で12日、犠牲者を追悼する計約2000枚の連凧(だこ)が宙を舞った。

 地元の気仙地域の住民が2013年から毎年開催しており、同市と隣の大船渡市の犠牲者と同じ数の凧を作った。

 連凧は60~100枚の凧をつないで29本用意。長いもので約100メートルに達し、住民やボランティアが防潮堤近くから空高くへと揚げた。活動を企画した「気仙天(てん)旗(ばた)仙(せん)風(ぷう)会」の佐藤博会長(42)は「凧が空との懸け橋となり、亡くなった方々に思いを届けられたら」と話していた。


福島沖でM5・3地震、田村市・浪江町で震度4
読売新聞 3/12(日) 19:52配信

 12日午前4時57分頃、福島県沖を震源とする地震があり、同県田村市、浪江町で震度4を観測した。

 気象庁によると、震源の深さは約50キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は5・3と推定される。このほかの主な各地の震度は次の通り。

 ▽震度3 福島県いわき市、郡山市、南相馬市、宮城県石巻市、茨城県常陸太田市


首相、中学卒業生に「希望」の色紙…被災地訪問
読売新聞 3/12(日) 19:22配信

 安倍首相は12日、東日本大震災の津波で多数の犠牲者を出した岩手県宮古市を訪れ、市立第一中学校の卒業式に出席した。

 首相は、「皆さん一人ひとりの希望が、東北の復興に、そして日本の発展につながっていくと確信している」と祝辞を述べ、卒業生代表に「希望」と書いた色紙を贈った。首相はこの後、昨年の台風10号で大きな被害を受けた同県岩泉町の鍾乳洞「龍泉洞」も訪問した。

 首相は視察後、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で立ち入りが制限されている帰還困難区域について、「たとえ長い年月がかかっても、すべての区域で避難指示を解除する方針で取り組む」と記者団に語った。


安倍首相 宮古市の卒業式に「みなさんの希望が東北の復興、日本の発展につながっていく」
産経新聞 3/12(日) 18:52配信

 安倍晋三首相は12日、東日本大震災から11日で丸6年となった岩手県を訪問し、被災地を視察した。宮古市では、被災者でありながら熊本地震など各地の災害被災地のためにボランティアなどを行っている市立第一中学の卒業式に出席。安倍首相は「皆さん一人一人の希望が宮古、岩手、東北の復興に、そして日本の発展につながっていくものと確信している」と述べ、「希望」と書いた色紙を卒業生代表に贈った。

 視察後、安倍首相は岩泉町で記者団に、東京電力福島第1原発事故の影響で福島県内の一部地域に残る帰還困難区域について「たとえ長い年月がかかっても、全ての区域で避難指示を完全に解除する方針で取り組んでいく」と強調した。


東日本大震災6年 群馬のイノシシなどいまだ出荷制限
産経新聞 3/12(日) 18:42配信

 東日本大震災から6年、福島第一原発事故による群馬県内9市町村の除染は終了したが、野生鳥獣への影響は依然、大きく、全域で出荷制限が行われ解除の見込みが立っていない。増え続けるイノシシなどを駆除しても、すべて埋却、焼却処分されている。一方、栃木県那珂川町では検査した上で加工し食肉用に出荷されている。

 群馬県内ではイノシシのほかツキノワグマ、ニホンジカやヤマドリが県全域で出荷が制限されている。これに対し、同町の「那珂川町イノシシ肉加工施設」では、同町と那須烏山市、茂木町など5市町を対象に、駆除したイノシシに限定し全頭検査、セシウム134と137の合計が1キログラム当たり100ベクレルに満たない場合、県内外に出荷している。

 平成27年度に持ち込まれたイノシシ231頭のうち38頭が不適合、28年度は222頭のうち22頭が不適合となり処分されたが、残りは食用となった。

 平成23年12月2日、国からイノシシの出荷制限指示があった際、同施設は全頭検査を条件に基準を下回った場合、出荷できるよう要請。3日後、制限が一部解除となり食肉加工が可能になったという。加工肉は県内外へ出荷、ジビエ料理やお土産などとして販売されている。

 群馬県自然環境課では月1回ペースで野生鳥獣肉の放射性物質検査結果を公表しているが、検出数値が「全体として安定して基準値を下回ることが出荷制限解除の条件」とし、「現在も基準値を上回る数値が出ている以上、いつ制限解除になるかはわからない」。那珂川町のように個別検査をする予定はないという。

 イノシシによる農林業への被害防止のため群馬県は29年度から年間1万3千頭の捕獲を予定しているが、捕獲後はすべて埋却・焼却処分となる。県議会では来年度予算で捕獲後の処理指針作成を行う案も出ているが、食肉として出回るには時間がかかりそうだ。


「年月かかっても完全解除」=安倍首相、帰還困難区域の避難で
時事通信 3/12(日) 12:24配信

 安倍晋三首相は12日、東日本大震災から6年を迎えた岩手県の復興状況を視察した。

 視察後、首相は岩泉町で記者団に、東京電力福島第1原発事故に伴い立ち入りが制限されている福島県内の「帰還困難区域」について、2021年度末をめどに避難指示の解除を目指す政府方針を強調。「長い年月がかかっても完全に解除する」と表明した。

 首相は「東北の復興なくして、日本の再生はない」と述べ、復興加速に全力を挙げる方針を重ねて示した。

 これに先立ち、首相は津波により多数の死者、行方不明者が出た岩手県宮古市の中学校の卒業式に出席。「皆さん一人ひとりの希望が宮古、岩手、東北の復興に、そして日本の発展につながっていくと確信する」と祝辞を述べた。同市内の震災遺構「たろう観光ホテル」や、昨年の台風10号で甚大な被害を受けた岩泉町の鍾乳洞「龍泉洞」も視察した。


遺族、市と県が双方控訴/大川小19家族が損害賠償
日刊スポーツ 3/12(日) 10:09配信

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午後2時46分、大川小の被災校舎で黙とうする遺族ら(撮影・三須一紀)

<あれから6年…忘れない3・11東日本大震災>

 東日本大震災の発生から丸6年が経過した11日、全国各地で追悼式が行われた。死者1万5893人、行方不明者2553人(10日現在)という大災害を受けた被災者の心の傷は癒えていない。津波で児童74人、教職員10人が死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校。学校管理下で犠牲となった子どもの無念さを思う遺族は、今も張り裂けそうな心の痛みを抱えている。

 大川小の児童23人の19家族が、市と県に23億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で仙台地裁は昨年10月、学校側の責任を認め、市と県に計約14億2660万円を支払うように命じた。

 しかし、わずか12日後、市と県は判決を不服とし、控訴。それを受け、遺族も控訴した。控訴審は3月29日に始まる。当時小6だった長男大輔くんを亡くした今野浩行団長(55)は「1審で認められなかった部分を追及したい」と、さらに早い時点で津波を予見できたことなどを主張する。

 1審判決では津波到達7分前に危険性を予見できたとし、学校側の過失を認定した。また、1審では認められなかった、唯一生き残ったA教諭の出廷も要求し、真相解明につなげたい考えだ。


裁判ちゃんとして逝かないと…大川小遺族夫妻の闘い
日刊スポーツ 3/12(日) 10:09配信

<あれから6年…忘れない3・11東日本大震災>

 東日本大震災の発生から丸6年が経過した11日、全国各地で追悼式が行われた。死者1万5893人、行方不明者2553人(10日現在)という大災害を受けた被災者の心の傷は癒えていない。津波で児童74人、教職員10人が死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校。学校管理下で犠牲となった子どもの無念さを思う遺族は、今も張り裂けそうな心の痛みを抱えている。当時小学3年だった、一人息子の健太くんを亡くした佐藤美広(みつひろ)さん(55)とも子さん(53)夫妻がこの6年の思いを語った。

 「子どもをネタに金もうけか」。美広さんはJR石巻駅のトイレで見知らぬ人から暴言を浴びた。昨年10月、大川小裁判で県や市に約14億円の賠償命令が下った数日後のことだった。「事故の真相が知りたい」だけなのに。

 妻とも子さんは2度の流産の末、健太くんを授かった。自宅は大川小近くに残っている。でも今は別の地区に住む。息子と同世代の子どもたちが成長する姿を見ていられないからだ。

 健太くんの祭壇には、ヤンキース田中将大投手が楽天時代の13年に達成した、24連勝の記念グラブが置かれている。10万円超の高価な物だったが、息子が目を輝かせて応援した選手のモデルだ。「息子なら買うだろう」。あえて健太くんがためたお年玉で買った。

 小2の秋に始めた野球。3年になると祖父に頼み、竹製のティーバッティング機を作って、自主練習に励んだ。試合にも出場できるようになった。勝っても負けても帰りの車では解説者さながら、試合を分析。みんなの人気者だった。

 幼稚園の頃から意地っ張り。小1の頃、ゲームばかりしていたお仕置きに米蔵に入れたが、泣きもしない。30分後、親が根負けした。その性格は野球を始めると、練習の虫になった。大好きな野球はたった1年半しかできなかった。

 遺体は震災から22日後、大川小近くで見つかった。傷はほぼなかった。やっと空いた福島県の火葬場。美広さんは亡きがらにユニホームをかけてやった。それが精いっぱい。棺(ひつぎ)のふたを閉じるくぎさえ打てない。座り込んで、ただ泣いた。裏山に逃げず45分もの間、校庭に待機したのはなぜか。理不尽だ。助けられた命が、9歳の小さな体が消えていく。

 真相究明と再発防止のため14年3月に提訴。翌月、美広さんに大腸がんが見つかる。とも子さんは「裁判をちゃんとしてから逝かないと天国で健太に会えないよ!」と励ました。3カ月の入院、放射線治療、手術、1年間の人工肛門。愛息への思いで奮い立った。

 「花は咲く」「きっと笑える」「希望」。震災直後から、都合の良い歌詞やセリフが聞こえた。「希望なんてないよ」。遺族の心の痛みは、どんなに時間がたっても癒えるはずもない。

 生きていれば来月、高校生になる息子は、なぜ学校で死んだのか。真相が分かれば未来の命が救われる。それが息子が9年間の命を懸けて伝えようとしている、生きた証し。陰口など耐えてやる。闘い続けた6年は、長く暗いトンネルの入り口にすぎない。【三須一紀】


大川小で生還の只野さん高3に 将来の夢は消防士
日刊スポーツ 3/12(日) 10:09配信

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来月から高校3年生になる只野哲也さん(撮影・三須一紀)

<あれから6年…忘れない3・11東日本大震災>

 東日本大震災の発生から丸6年が経過した11日、全国各地で追悼式が行われた。宮城県石巻市立大川小学校では津波で児童74人、教職員10人が死亡、行方不明となった。

 大川小で津波にのまれながら生還した只野哲也さん(17=当時小5)は、来月から高3になる。石巻工柔道部では主将を務め、昨年11月の県新人戦では個人、団体ともにベスト8。6月の県総体では全国出場を目指す。震災による津波で母しろえさん(当時41)妹未捺(みな)ちゃん(同9)を亡くした。月1回のペースで大川小を訪れるが「ここに来るとリセットされる。『悩んでる場合じゃない』という思いになる」という。将来の夢は消防士。「震災の時に頑張っていた。人の命を助ける仕事に就きたい」と語った。


いわき市薄磯海岸、今年7年ぶりに海水浴場再開
日刊スポーツ 3/12(日) 10:09配信

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坂下ダムでサツキの植え替えを行っていた大熊町の鈴木久友さんら「じじい部隊」(撮影・清水優)
<沿岸部を行く・記者リレーリポート(6)福島・大熊町~いわき市>

 「おーう、しばらくぅ」。福島県大熊町大川原の坂下ダム。白い防護服姿の男性が2人、軽トラックで現れた。荷台には、サツキの株が山積みに。「今日は植木屋さんですか」とあいさつすると、元大熊町総務課長の鈴木久友さん(64)は笑って「花咲かじじい部隊だ」と言った。1株数十キロありそうな植木を肩に担ぎ、ダムの斜面を下りる。「植え込みに枯れてんのあっから植え替えんだ」。

 大熊町の退職した役場職員や友人ら6人で結成したじじい部隊は健在だ。役場の現地連絡事務所に通い、町を見回る。「今は梅、桜の後にサツキ。その後にアジサイ、紅葉だな」。大川原地区には東京電力の独身寮もできた。一時帰宅の町民をがっかりさせないように。新たな町民には町の美しさを知ってほしい。だから泥仕事もがんばれる。

 町の多くは帰還困難区域。信号は黄色の点滅になり、道路脇の家々の前にはバリケードが置かれている。楢葉町のJヴィレッジにも立ち寄ったが、ピッチにプレハブがあり、車が並ぶ。

 沿岸部に戻り、広野町を通っていわき市に入る。公園で遊ぶ子どもが目に入るようになってきた。最後に、津波で115人が犠牲になった薄磯地区に向かった。塩屋埼灯台を臨む民宿鈴亀の鈴木幸長さん(64)を訪ねた。薄磯は、放射性物質検査で安全性が確認され、今年の夏、7年ぶりに海水浴場が再開する。鈴木さんは「海水浴も地魚も福島というだけで風評被害があるが、最初は震災前の半分ほどでもいい。お客さんが来てくれて楽しんでくれれば」と夏を待つ。

 「後で浜に下りてみな。うんと、いいとこなんだ」。防潮堤を越え、薄磯の人たちが守ってきた浜に出た。塩屋埼灯台まで、足跡1つ無い白い砂浜が広がっていた。1歩踏み出すと「キュッ」と音がした。きれいな砂でなければ音が出なくなる「鳴き砂」だ。

 未曽有の災害は、まだ続いている。それでも、沿岸で出会った人たちは、前を向いている。【清水優】(おわり)


児童74人、教職員10人が津波の犠牲/大川小被害
日刊スポーツ 3/12(日) 10:09配信

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午後2時46分、大川小の被災校舎で黙とうする遺族ら(撮影・三須一紀)

 東日本大震災の発生から丸6年が経過した11日、全国各地で追悼式が行われた。死者1万5893人、行方不明者2553人(10日現在)という大災害を受けた被災者の心の傷は癒えていない。津波で児童74人、教職員10人が死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校。学校管理下で犠牲となった子どもの無念さを思う遺族は、今も張り裂けそうな心の痛みを抱えている。

 ◆大川小の被害メモ 校舎は海岸から約4キロ離れていたが、津波が北上川をさかのぼり、川沿いの学校敷地を襲った。2階建て校舎の屋根を乗り越え、裏山のふもとから約10メートルも駆け上がった。全校児童108人、教職員13人中、校庭にいた児童74人と、校内にいた教職員10人が亡くなった。


<大震災6年>祈りのキャンドル 全国から茨城・取手に
毎日新聞 3/12(日) 10:02配信

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夕闇が迫るにつれ、キャンドルに照らし出される紙袋のメッセージ=茨城県取手市で2017年3月11日、安味伸一撮影

 茨城県取手市では犠牲者の追悼と被災地復興を祈る行事「ゆめあかり3・11」があった。日没前、市藤代庁舎広場で約1万1000個の紙袋入りキャンドルを点灯。紙袋の「絆」や「夢」などの言葉が照らし出された。メッセージは事前に地元の小中学生らが書いたほか、47都道府県の有志が郵送。全国の祈りと願いが集まった。

 女性4人の街おこしグループ「ゆめまっぷの会」が2012年から毎年開催。交流団体「取手・南相馬・双葉浜通りの集い」代表で、福島県南相馬市で被災した三浦邦夫さん(73)は「こんなに多くの方の心のこもった祈りの明かりが広場いっぱいに広がる光景を目にして、感動でいっぱいです」とあいさつした。【安味伸一】


<大震災6年>犠牲者法要「忘れない」鐘響く 三重・桑名
毎日新聞 3/12(日) 9:12配信

 東日本大震災の犠牲者の冥福や復興を祈って鐘を突く法要「勿忘(わすれな)の鐘・灯」が11日、三重県桑名市北寺町の桑名別院本統寺で営まれた。

 地震発生時刻の午後2時46分、参列者らが東北地方の方角に向かい合掌して黙とうをささげた。その後、犠牲者の冥福と被災地復興を祈り、次々と鐘を突いた。

 境内ではボランティア団体「あかりプロジェクト桑名」のメンバーが「震災を忘れない」との思いを込め、手作りキャンドル約600本を「3・11」の形に並べた。被災地の岩手県山田町と交流を続けてる同プロジェクトの川瀬みち代代表は「町の復興とともに被災者の気持ちの復興も願っています」と話した。

 法要は、津波で全壊した岩手県陸前高田市の本稱(ほんしょう)寺のがれきの中から鐘が見つかったのをきっかけに、真宗大谷派の寺の有志たちが全国各地で営んでいる。【佐野裕】


「子どもを守れなった教師の父」 その死を悲しみきれなかった息子が口にできなかったこと
BuzzFeed Japan 3/12(日) 9:07配信

石巻市立大川小学校の教師として逝った父の死をどう受け止めたらいいのか?あの震災が彼に問いかけること。【石戸諭 / BuzzFeed】

「僕は教員だった父の死をどこか悲しみきれていない」

東日本大震災でのこされた遺族のなかには、大切なその人の死を受け止めきれない人がいる。小学校教師だった父を亡くした佐々木奏太さん(21歳)もその一人だ。

父(当時55歳)はあの時、児童74人、教員10人が死亡・行方不明になった石巻市立大川小学校にいた。2年の担任だった。

大学生になった佐々木さんはいま、児童の遺族とともに大川小に立って、訪れる人たちに何が起きたのかを語っている。

ここだけ強調すると、「辛かった父の死と向きあい、乗り越えた遺族」にみえる。

しかし、6年という時間はまだまだ足りなかった。

2017年3月11日、彼は生まれ育った南三陸町でその時を迎えた。

「いってらっしゃい」と父を見送った
震災当時、佐々木さんは中学3年だった。朝はいつもと同じようにやってきた。
仕事にいく父を「いってらっしゃい」と見送り、登校する。

進学先も決まっていて、中学生活は残りわずかだった。

大きな揺れがやってきた。中学校も自宅も高台にあったため、津波はみていない。
しかし、断続的に被害は伝えられ、そのまま中学の体育館で避難生活が始まった。

その日、母は沿岸部に仕事にいっていた。

父は他よりも安全なはずの小学校にいるから、まず心配なのは母だ、と思っていた。しかしこの時、母は別の避難所にいて無事だった。

数日後、体育館に迎えにきた親族から「大川小が孤立して、大変なことになってい
る」と伝えられた。

1カ月後に見つかった身元不明の遺体、それが父だった
そのまま、父を探しに大川小に向かったが、道路状況が悪く南三陸町から現地にいくことすらできなかった。近隣の避難所もまわったが、父の姿も名前もない。

探している途中にすれ違った大川小の校長が、すべてカタカナで書いた手書きの行方不明者リストを見せてくれた。

その中に父の名前があった。

約1カ月後、大川小の近くを流れている北上川河口付近で、身元不明の遺体が見つかった。損傷が激しく、外見だけでは誰かわからない。

震災から1年4カ月後、2012年の夏、遺体は父だとわかった。

父が行方不明だったあいだ、母は「長期出張に行っているみたいだ」とよく言っていた。

当時、高校生になっていた佐々木さんは、警察官からこんな言葉をかけられている。
「君はまだ高校生だね? だったら見ないほうがいい」

口調は優しかったが、有無を言わせぬ様子を感じとる。
遺体は骨壷に入って帰ってきた。

佐々木さんは「辛くて、悲しかった」というが、母の前で、その気持ちを打ち明けることができなかった。
そして、大川小は社会的な問題になっていく。

児童の遺族は、避難をめぐって石巻市や学校側に問題があったのではないか、と投げかけた。

大川小で何が起きたのか。なにか報じられるたびにテレビをつけたが、母は「チャンネルを変えてくれ」といった。

家の中にいた父とは違う、教員としての父はどうだったのか。
高校を卒業した佐々木さんはいま、宮城県内の教育大学に通っている。
「よく言われるんですけど、父の背中をみていたから、とかではないです。震災直後からボランティアもしていて、そこでも子供と接することが好きだったので、選んだんです」

フェイスブックには自炊した様子をよくアップしている。その中には「学校の給食をイメージしたものです」とシチューとサラダ、パンを並べた写真があった。

児童の遺族とともに語る。しかし……
口調ははきはきとしている。質問にも丁寧に答える。

児童の遺族と語るようになったのは、大川小でみた夕日の写真をフェイスブックにアップしたことがきっかけだった。

「写真をみた、ひとりのご遺族から連絡がきました。とても嬉しかったです。実際にお会いしたときに『あなたの父親が守らないといけなかった』と言われました」

「僕もそう思っていたので、言われてよかった」
「大川小で起きたことを繰り返したくないという思いは、児童のご遺族も、僕も同じです。だからこそ、同じ遺族として語り継ぎたいと思っています」

大学卒業後についてもよどみなく語る。

「生まれ育った南三陸町で働きたいと思っています。町の復興に少しでも貢献したいんです」

目標も明確で、自分のやりたいことを自分の言葉で語る。

しかし佐々木さんは、その卒業に必要な教育実習を前に、うつ病と診断されている。どうしても、大学にいきたくない。体が重くなり、自分の思い通りに動かなくなった。

原因をたどっていくと、実習先が父が担任していたのと同じ、小学2年生に決まったことにいきつく。

集合写真に写っていた父と子供たちの顔が浮かんでくる。

父は教員として、子供を守れずに亡くなった。

いまの自分の知識や経験で子供たちを守れるのか? どうやって?

振り返ってみれば、これまで受けてきた講義の中で、学校の安全や、教員が子供を守るべきであるという話をしているときから、心は落ち着いていなかった。

自分は教育大に入ったときから、このときが来るのを恐れていた。そう思った。
周囲は当然だが、教員を志望する学生が多い。

父のことや悩みを話したところで誰がわかってくれるのか。

教育実習を楽しみにしている同級生に水を差したくない、と思ったら余計に体は動かなくなった。

その頃、フェイスブックの投稿はほぼ止まっている。

そして、2016年8月25日から実習が始まるという1週間前、ついに医者から実習参加にストップがかかった。

大川小児童の遺族が起こした学校の責任を問う裁判の判決も迫っていて、亡くなった「教員としての父」が起こしたことを、嫌が応でも考えるようになる。

そんな時期と重なっていた。

必修単位の教育実習を特例で免除してもらうよう、大学にだした書類の中で、指導教官は彼の学生生活をこう記していたという。

「復興に関わるボランティアに熱心に取り組んでいるが、大学内の授業等の評価で苦しんでいるのもまた事実」

外でのアクティブな印象とは全く異なる様子が綴られている。

「僕は辛いと言ったことがない」
「いま思えば、僕は辛いとか苦しいって言ったことがほとんどないんです。どうしてなんでしょうね」

そして佐々木さんは、「まだまだ、わからないんです」と言う。

わからないとは「父の死」が、だ。
自分が知っている家族としての父、大川小の教員としての父。
ひとりの人の死がつながってこない。

もちろん、家族としての父が亡くなったことは悲しい。

しかし、大川小で子供を守りきれずに亡くなった父の死をどう受け止めたらいいんだろう。それを悲しんでもいいのだろうか?

どうしても、割り切れない思いが残ってしまう。

「だから、辛いでしょって言われてもわからないんですよ。(父の死を)乗り越えようとしているねとかって言われてもわからないんですよ」

この日、はじめて「わからない」という言葉を言いつづけ、佐々木さんは少しだけ声を荒げた。

「乗り越えてなんていないですよね。みんな、わかりやすい話で理解しようとするから……」

「なんか、せっかちなんですよね」

「僕は大川小とどう向き合っていくかを決めようって走っているのに、『どう?疲れてる?』って聞かれている気分です」

「一生懸命、走っているのに、疲れているかどうかなんてわからないんですよね。走っている僕にはまったくゴールがみえないのに……」

実は周りは、そんな彼の苦しさを察しているのかもしれない。

教育実習を断念したことを告げると、母は「わかってたよ」と言った。苦しんでいるのはわかっていた、と。

ある児童の遺族に「葛藤が強く、正面から向き合うことはできていないかもしれませんが、少しでも自分ができることからやっていきたい」とフェイスブックで打ち明けた。こんな返事がきた。

「現実から目を背けず、向き合って生きていきましょう! その先には良い事が待っていると信じています!」

6年という時間で得たもの。まだまだ時間がかかるもの。

大川小で語っているのも、児童の遺族と一緒に活動しているのも、彼にとっては父の死と向き合っていく過程なのかもしれない。

その苦しさを受け止め、姿を見守っている人はいる。そして、向き合う時間もある。


<海保>「見つからない」被災地を潜る意味 海猿の6年
毎日新聞 3/12(日) 9:00配信

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被災地で潜水捜索を続けている巡視船くりこま潜水班長の藤田伸樹さん=宮城県塩釜市で2017年3月9日、米田堅持撮影

 東日本大震災から6年。被災地では今も、行方不明者の家族たちが肉親の手がかりを捜している。震災当時、宮城海上保安部の巡視船「くりこま」(1200トン)の潜水班長として捜索にあたった藤田伸樹さん(42)は、3年間の本庁勤務の後、昨年4月から再び「くりこま」潜水班長として被災地の海に潜り続けている。【米田堅持】

 ◇何もできない

 2011年3月11日、藤田さんたちが乗り組む「くりこま」は、午後の訓練で宮城県の塩釜港を出港しようとしていた時に震災に遭遇した。船を沖へ出すのは断念し、宮城海上保安部長から総員退船命令が下されて保安部に避難した。5階にある保安部の窓から津波で流されていく「くりこま」を見ながら、藤田さんたち乗組員は自然の猛威の前に「何もできない」と無力感に襲われた。

 ◇亡くなった人の捜索も人命救助

 翌日、松島湾で座礁した「くりこま」から潜水に使う資機材を回収した藤田さんたちは早速、潜水による捜索を開始した。海底には、がれきや車が数多く沈んでいた。中には、潜水士として初めての出動となった若者もいたが、「一生分ぐらいは潜ったのではないか」と思うほど被災地の海に連日潜り続けた。

 一方で「人命救助をしたいと思って潜水士になったのに……」と、遺体の収容ばかりが続く日々は、屈強な心身を持つ“海猿”たちの心にも影を落とし始めた。藤田さんは捜索を続ける意義について講習会を開き、「亡くなった人を捜し出すことで、生きている家族を救うことができる。これも人命救助だ」と後輩たちを励ましながら捜索を続けた。遺体だけでなく、名前の書かれた遺品なども引き揚げていった。

 ◇「ない」ことを報告

 13年4月、藤田さんは異動で「くりこま」を離れ、東京・霞が関の本庁で勤務する。藤田さんが異動した後も、被災地では行方不明者の手がかりを探す捜索が続けられた。年月がたつに従い、海底の車やがれきには土砂が積もって海藻が付着し、手がかりは見つかりにくくなっていた。

 「くりこま」の潜水士たちは、捜索を見守る家族に海底の映像を見せながら、何もなかったことを報告することもあった。藤田さんの後に「くりこま」潜水班長として捜索した第2管区海上保安本部警備救難部救難課専門官の寺門嘉之さん(47)は、「通常の任務とは異なるスイッチが必要だ。何も見つからなくても、それを報告することで心のつかえを取り除いて、依頼した家族たちが前向きに生きられるよう心がけてきた」と被災地での潜水捜索の難しさを表現する。

 藤田さんも「当初は何もないとは言いにくかった」という。しかし「目の前で流された娘の捜索を行ってほしいと依頼した母親に、何も見つからなかったことを告げると『もうここには来なくて良いんですね』と言われ、何もなかったことを告げることにも大きな意味があることに気づかされた」と振り返る。

 ◇終わらない震災

 現在、海保の潜水捜索は、遺族や自治体の要望をもとに続いている。

 再び潜水士に戻る異動希望を出し続けた藤田さんは、異例とも言える人事で再び「くりこま」の潜水班長となった。海底の様子も震災当時とはすっかり変わっているが、「震災は終わっていない」という思いは潜水士も乗組員も共有している。

 「行方不明者の家族たちは、もしかしたらと思って捜索を依頼してくる。潮の流れなどでがれきや車が集まる場所から、遺体を引き揚げたこともある。海底には数十センチの土砂が堆積(たいせき)していることもあるが、その中からでも丁寧に手がかりを捜していく」。藤田さんは13~14日に宮城県女川町で行われる潜水捜索を前に、捜索に向けた決意を語っている。


避難先で1人、亡くなった母…6年を経て「申し訳ない気持ち、ようやく吹っ切れた」川内村
産経新聞 3/12(日) 8:05配信

 あの日、高校の体育館の控室に並んだ遺体の中で見つけた母の姿が今も脳裏から離れない。政府主催追悼式に福島県代表として出席した川内村元教育長の石井芳信さん(72)は震災後、子供たちの村への帰還に心を砕いた。気付けば6年。引退した今、わだかまっていた母、エイさん=当時(92)=への思いは、ようやく解けつつある。

 「母ちゃん、探したぞ。悪かったな」

 震災発生から1週間後、ようやく見つけた母は名前の書かれた座布団を抱えていた。「ここにいるぞ」と訴えていたのかもしれない。毎日施設へ見舞いに通っていた妻、愛子さん(67)はひと目をはばからず頬ずりをして泣いた。

 エイさんは腰を患い、福島県大熊町にある双葉病院系列の老人保健施設に入所していた。福島第1原発事故後にいつ、どうやっていわき市の高校へ移動したのか、どのように亡くなったのか、経緯は今も分かっていない。病院から連絡は一切なかった。

 他にも20人ほどの遺体が見つかり、東京電力を相手に損害賠償を求める訴訟団に加わるよう別の遺族から持ちかけられたが、教育長という立場もあり、すぐに断った。「そうして母が帰ってくるわけでもない」。理由をそう話した。

 ただ、誰にも看取られずに1人で寂しく亡くなった母を思うと心が痛む。「ああいう状況で誰かを責めれば、それで済む問題ではない。でも、私も人間ですから思うところがないわけではない」と悔しさをにじませる。

 エイさんは兄弟6人を女手一つで育ててくれた。貧しかった子供の頃、「こんなおかず、食べたくない」と文句を言うと、黙ってポロポロと涙をこぼしたのが忘れられない。高校卒業後、川内村役場へ就職して率先して兄弟を養った。エイさんは過去について多くを語らなかったが、「昔はたくさん苦労したけど、今は幸せだもの」と笑っていた。

 一時全村避難した川内村は震災翌年には帰還を始めたが、放射能汚染への不安から、親世代は学校の再開に否定的な人が多かった。しかし、村の将来は子供たちの帰還にかかっている。「再開が復興の第一歩になる。1年でも早く戻るべきだ」と訴え、翌年からの再開にこぎ着けた。

 平成25年3月の退職後、思い立ったのが、母の遺影を抱いての四国八十八カ所巡りだった。27年春、「母ちゃん、一緒に旅すっぺな」と声をかけて始め、約2週間で巡礼を終えた。

 「ずっと抱えていた申し訳ないという気持ちは今は吹っ切れた。母は『これからは夫婦2人の時間を大切にしろ』と言っているような気がする」

 命日ははっきりしないが、今年で七回忌。津波で多くの人が亡くなった中、遺族代表になることに遠慮もあったが、「これも母への供養」と引き受けた。6年がたった今、ようやく前を向いて過ごせるような気がしている。


東日本大震災6年 被災者への「共感力」高めたい 東北総局長・白浜正三
産経新聞 3/12(日) 7:55配信

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地震発生時刻の午後2時46分を前に、献花して手を合わせる人々=11日午後、福島県いわき市久之浜町 (納冨康撮影)(写真:産経新聞)

 東北の地で東日本大震災から6年の節目を迎えて痛切に思うのは、被災地と非被災地の心理的分断が急速に進んでいるのではないか、ということだ。

 復興庁の調べでは、震災の影響で自宅に戻れず避難している人は今も全国で約12万3千人にも上る。一方で、首都圏などでは福島県から避難した子供が「賠償金もらってんだろ」などと心ない言葉を浴びせられる「震災いじめ」が頻発している。そこには被災者を異質なものとみなし、排除しようとする大人たちの心情が透けて見える。

 被災者の心情への鈍感さという意味で、震災いじめの頻発と風化の進行は同根のものだと思う。このままでは、被災地と非被災地の距離はさらに遠くなるばかりだ。今こそ必要なのは、被災地、被災者への「共感力」だ。それは憐憫(れんびん)の情ではなく、自分がもし同じ立場になったら、と少しだけ想像を働かせる力だ。

 「昔のことを考えると悲しいし、未来のことを考えても苦しい」

 昨年7月に避難指示が解除された福島県南相馬市小高区で先日取材した女性はこういって涙をこぼした。「賠償金だって、いただくのは肩身が狭いんです」。被災者は、今も心に傷を抱えている。

 震災から6年を経て、災害公営住宅の整備などハード面の整備は進みつつある。今後の復興は被災者の心の問題などソフト面に重点的に取り組むべきではないか。また、これからは被災者の心情に共感する力を復興政策にも生かしたい。

 今月末から4月初めにかけて、福島県内の4自治体の一部で避難指示が解除される。

 焦点は、住民が暮らしたくなる町に戻せるかどうかだ。医療機関や商店が乏しい町は、果たして住民にとって戻りたい町だろうか。ふるさとを取り戻すために何をすべきか、国や自治体の感性が問われる。

 昨年4月の熊本地震が示すように、日本ではどこでいつ大規模地震に襲われるかわからない。各家庭では、もし被災者になったらという視点で、改めて非常食などの準備を点検しておきたい。また、国家的には将来への備えとして、憲法に緊急事態条項を付与するという課題も真剣に検討しなければならない。

 震災の風化にあらがうためにも、今こそ被災者への共感力を高めていきたい。そのことが、首都直下地震、南海トラフ巨大地震など将来の災害に備える力にもつながるはずだ。


東日本大震災6年 声が聞きたい。話がしたい
産経新聞 3/12(日) 7:55配信

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福島県立新地高校で開かれた追悼式で、沖野真広さんの遺影を持つ広さん=11日、福島県新地町(大西史朗撮影)(写真:産経新聞)

 ■七回忌 息子の納骨はまだできない

 □福島県相馬市の沖野広さん(52)・加代子さん(50) 

 澄み切った青空を雲がゆっくりと流れていた。6年前のあの日もそうだった。大地震が来るまでは。

「母校だぞ。懐かしいだろ」

当時の生徒9人が犠牲になった福島県立新地高校(新地町)。この日、初めて開かれた追悼式に参列した沖野広さん(52)=同県相馬市=は遺影の中の息子に語りかけた。

新地高を卒業したばかりの次男、真広さん=当時(18)。通っていた宮城県山元町の自動車教習所近くで津波の犠牲になった。

「これから俺、親孝行しないといけないんっすよ」

広さんは顔なじみから、息子が生前、そう語っていたと聞かされた。

「家族を楽させてやりたいと思ったのかな」

4人兄弟の中で、一番のしっかり者だった。

あの日、広さんは車で真広さんを教習所まで送った。「がんばってこいよ」。何げなく掛けた言葉が最後となった。

地震の後、送迎バスで帰宅途中の教習生らを津波が襲う。真広さんが見つかったのは12日後。宮城県角田市の遺体安置所だった。

体は砂だらけだったが、きれいな顔をしていた。声を掛ければ、目を覚ましてくれそうな気がした。

「帰ってきてくれてよかった」「やっぱり死んじゃったんだ」

安堵と落胆。2つの思いが交錯した。

息子はなぜ死ななければならなかったのか-。平成23年秋、同じように子供たちを奪われた遺族とともに裁判を起こした。4年7カ月を経た昨年5月、仙台高裁で和解。教習所側の過失は認められたが、謝罪は今もない。

愛息の死に納得することはこれからもない。真広さんを失い、投げやりになったこともある。だが、6年という時間が、与えられた命の重さについて諭してくれた。

だから、前に進もうと思う。

七回忌。一つの区切りだと言い聞かせる。でも、納骨はできない。

息子を離したくない。

母の加代子さん(50)は毎日、祭壇に真広さんが大好きだったコーヒーと塩むすびを供える。

そのたびに思う。

声が聞きたい。

話がしたい。 

(野田佑介)


東日本大震災6年 見守って、私は大丈夫
産経新聞 3/12(日) 7:55配信

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母の美幸さんの遺影と、渡せなかった手紙を手にする安延由梨亜さん=11日、岩手県陸前高田市(鈴木健児撮影)(写真:産経新聞)

 東日本大震災から6年。あの日、東北を中心に襲った激しい揺れと巨大な津波は、多くの命を奪い去り、残された人々の暮らしも一変させた。2553人は今も行方不明のまま。長引く避難生活などによる震災関連死は3523人に上っている。午後2時46分、胸に刻み込まれた大切な人への思いとともに、各地で祈りがささげられた。

                   ◇

 ■「お母さんへ」渡せなかった感謝の手紙

 □岩手・陸前高田

 《いつも仕事忙しいのに、うちら姉弟(きょうだい)のわがままを聞いてくれてありがとう。普段は、あまり言葉に出さないけど、心の中では思っています》

 6年前、中学3年のとき母に感謝を伝えようと初めてつづった手紙。卒業式後に渡すはずだったが、それがかなうことはなかった。

 「お母さんに手紙を読んでほしかったな」。専門学校3年の安延(やすのぶ)由梨亜さん(21)は、震災後に引っ越した岩手県陸前高田市の今の自宅で、母の美幸さん=当時(39)=の遺影に手を合わせながらそう思う。津波にのまれた美幸さんは元の自宅近くの車内で見つかった。遺影の傍らには今も、便箋2枚が入った「お母さんへ」と書かれた白い封筒が置いてある。「お母さんがいなくてつらかったけど、周りに支えられてここまで来られたよ」

 美幸さんは、由梨亜さんが小学2年のときに離婚して以降、飲食店を1人で切り盛りし、由梨亜さんと弟の賜恩(しおん)さん(19)を細腕一つで育てていた。

 思い出すのは優しい笑顔。津波で流された震災前の自宅兼店舗では、登校時に「行ってきます」と店をのぞくと、仕込みで忙しい中、台所から顔を出し「行ってらっしゃい」と笑顔で返してくれた。ただ、あの日だけは学校に遅刻しそうで急いでいたため、あいさつできないままだったことが悔やまれる。

 仕事が終わって美幸さんが床に就くのは毎日午前3時前後。それでも必ず早朝に起きて弁当を作ってくれた。「お父さんがいなくても、寂しさや何かで不足を感じたことはなかった」

 全ての感謝をしたため、《いつまでも大好きなお母さんでいてください》と素直な気持ちを記した手紙。だが、卒業式を目前に震災が起こった。

 「いつも笑っているお母さんが好きだった。自分もめそめそしているわけにはいかない」

 もともと同じ地区の子供と遊ぶのが好きだったことをきっかけに、学校での職場体験などを通じて保育士を目指すことに決めた。盛岡市内で暮らしながら通っていた専門学校の卒業式を8日に終え、4月から地元に戻って保育士として働く。「復興で活躍するような人を育てて貢献したい。子供をお母さんのような笑顔にしたい」

 自宅跡を見渡せる高台を訪れた。あのとき手紙に書いた《大人になれるよう努力したい》との誓いは果たせたのか。社会に出るのを前に不安もある。

 「由梨亜なら大丈夫だよ」。母がそう言ってくれている気がした。(福田涼太郎)

                   ◇

 ■孫世代のため、決意の移住

 □福島・富岡

 「避難生活がなければ、もっと長生きでき、彩りのある生活を送ることができたのでは…」。福島県富岡町が郡山市内で開いた慰霊祭に遺族代表として出席した同町元消防団長、安藤治さん(67)は、避難生活で亡くした妻、則子さん=当時(58)=と父、肇さん=同(86)=への無念の思いを述べた。先頭に立ってきた町内パトロール活動を引退した今、新たな地への移住を決意している。

 6年前を境に生活は一変した。水田が広がり、山に囲まれた富岡町の自宅から夫婦と両親の家族4人で三春町の仮設住宅へ。当初は避難所運営や物資配布、放射線量測定などに奔走した。

 せわしい日々の中、平成24年3月、がんを発症した肇さんが他界。気落ちした母、愛子さん(89)は夫の死が分からなくなるほど重い認知症を患った。

 悲劇は続く。5カ月後のある朝、則子さんが寝床から起きてこなかった。脳出血。働きながら義母の介護もしており、医師は「ストレスが原因」と診断した。

 明るく、おしゃべり好きな則子さんは一言もつらいとは言わなかった。「疲れているのかなとは思った。前夜、病院に連れて行けば…」。家のことは任せきり。「落ち着いたら旅行に行ったりすっぺ」。そう言った則子さんとの約束はついに果たせなかった。

 2人は震災関連死と認定された。大きな喪失感を胸の奥にしまいこむように、全域避難した町を毎日歩いた。放射線量が高く、活動は1日4時間まで。防護服を着て雑草が生え放題の住宅地を見て回った。

 25年には町の委託で仲間と「とみおか守り隊」を発足。「富岡が今、どうなっているのか常に見ていたかった」と思う一方、「1人でじっとしてたら気持ちが駄目になっていた」。

 消防団も昨年引退。生活を気遣ってくれたのは3人の子供たちだった。「いつまでも過去にこだわっていられない」。町は4月から避難指示が一部解除されるが、将来の孫世代のことまで考え、消防士の長男、哲寛(あきひろ)さん(31)と、いわき市へ移ることを決めた。

 それでも水田が広がる新居周辺は父から継いだ富岡の自宅と重なる。「戻れるなら戻りたいけど元には戻れない。それなら子供たちの将来を考えたい」

 仕事第一だった半生。これからは父として精いっぱい生きようと決めている。(市岡豊大)


涙の海 震災遺族の6年 ここに来れば、娘に会える
産経新聞 3/12(日) 7:55配信

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船上から風船を飛ばす成田博美さん=11日、宮城県女川町沖(松本健吾撮影)(写真:産経新聞)

 11日の女川湾(宮城県女川町)は波が穏やかだった。空も青く抜けている。東日本大震災が起きてからこの日は決まって雪が降って海もしけるのに。

 港から船が出る。同県石巻市の成田博美さん(56)が夫の正明さん(60)と乗っている。

 一人娘の絵美さん=当時(26)=が勤め先の地銀の女川支店で津波に巻き込まれ、11人の同僚とともに命を落とした。遺体はまだ見つかっていない。

 毎年、船で会いに来る。

 桐ケ崎の沖に出る。ここで同僚4人の遺体が揚がった。娘もきっといる。

 「早く帰ってくるんだよ」

 ピンクの花を投げた。娘の好きな色だった。

 腕を伸ばし、海水に手を漬ける。冷たい。指の感覚がなくなる。娘は6年間、この中をさまよっている。

 水深20メートル。底が見えないかと目をこらす。透明度が低くて何も見えない。

 自分は26歳のとき、甲状腺がんになった。最終的に手術で治ったが、一時は死の淵を行ったり来たりした。

 そのとき娘は1歳半。この子を置いて世を去る不幸せを嘆いたが、今思えばどうということもなかった。最大の不幸は、娘がそのときの自分と同じ年齢になったときに訪れた。

 どうしてうちの子なんだ。

 世の中には人をあやめたり、物を盗んだりするろくでもない人間が他にたくさんいるのに。人に自慢できる人生を送ったつもりはないが、娘の命を取られるいいかげんな生き方をした覚えもない。

 自分は「生き意地」が張った人間だと思っていた。娘の結婚を見届け、孫にも恵まれていつまでも生きたいと願っていた。

 今は死は怖くない。

 娘に会える。

 船の上で風船を膨らませ、海に飛ばす。

 娘の短大の友達が「絵美が夢に出てきて『風船で遊びたい』と言っていたんです」と教えてくれた。それから海に行くときは持つようにしている。

 3つ放った。

 ピンクの1つが波に運ばれ、船の所に戻ってきた。

 拾い上げてもう1回投げた。

 また戻ってきた。

 一緒に帰りたがっている。

 手に取って胸に抱いた。(伊藤寿行)=おわり


東日本大震災6年 進む時間、止まった時間
産経新聞 3/12(日) 7:55配信

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宮城県名取市閖上の災害公営住宅そばの墓地。東日本大震災から6年を迎え、墓参りに訪れる人の姿があった =11日午後、宮城県名取市(福島範和撮影) (写真:産経新聞)

 東日本大震災から6年を迎え、土地のかさ上げが進む宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区では、建設中の災害公営住宅に隣接する墓地で手を合わせる遺族らの姿があった。閖上で生まれ育った仙台市太白区の松井則子さん(63)は津波で母、小斎たまのさん=当時(85)=を亡くした。「変わり果ててしまったけど、母を故郷のお墓に入れてあげられてよかった」と安堵(あんど)の表情を浮かべていた。


置き去りにされた“心の復興” なくならない震災いじめ、でも…
スポニチアネックス 3/12(日) 7:01配信

 死者1万5893人、行方不明者2553人の被害が出た東日本大震災は11日、発生から6年を迎えた。被災地をはじめ全国で発生時刻の午後2時46分、それぞれの思いを胸に静かに祈りをささげた。一歩ずつではあるが地域再建が進む中、東京電力の福島第1原発事故に見舞われた福島県の生徒、児童は、避難先で悪口や暴力を振るわれる“震災いじめ”の被害に悩まされるなど、心の復興が置き去りになっている。

 「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった」「いままでなんかいも死のうとおもった」――。昨年11月に公表された、原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒(13)の手記の一部。ひらがなの多い、つたない文字で“震災いじめ”を訴える姿に多くの人が胸を痛めた。

 震災から数年が経過してもなお、原発事故を背景とする差別や、偏見が教育現場にあるという現実。手記公開後、福島から全国に避難する生徒、児童が「放射能がつく」などと言われたとするケースが山形県、埼玉県などで相次いで判明したことから、文部科学省が今月10日に実態把握に向け初の全国調査に乗り出すことを発表した。震災から6年たってからの調査開始。遅きに失した感は否めない。

 生徒は小学校2年生だった11年8月、横浜市立小学校に転校。直後から名前に「菌」を付けて呼ばれたり、暴力を振るわれるようになった。小5の時には同級生から「(原発事故の)賠償金があるだろう」などと言われ、ゲームセンターなどの遊興費として、約150万円を払わされたという。手記は不登校となった小6の時に書かれたものだ。学校にいじめを訴えても、対応してもらえず「いままでいろんなはなしをしてきたけどしんようしてくれなかった」「(先生に)むしされてた」とも。後半に生徒は「でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」と結んだ。救われた思いがある一方で、学校の対応の悪さや横浜市教育委員会の認識の甘さには批判が集まった。

 生徒は今月、いじめを受けている人に向け新たな手記を発表した。現在は、フリースクールに通っていることをつづり「今、僕は楽しく生きています」「自殺したらなにがあったかほかの人に伝える事もできない」「環境になれなくてもゆっくり自分のペースでなれればいいです。だから自殺は考えたらダメ」などと、力強いメッセージで訴えている。

 生徒の代理人を務める飛田桂弁護士は、最近の様子について「当初はいじめられた話を聞こうとすると、表情を一変させ体をこわばらせるような状態だったが、今年に入って自分から話をするようになった。今どきの中学生らしくなった。自殺の心配はない」と話し、明るさを取り戻しているという。

 “震災いじめ”に関する調査の結果は、これからになるが、法務省に寄せられた東日本大震災に関連した人権相談は、15年末までで984件。うち原発事故があった福島県は273件だった。「ふるさとは福島です」。生徒たちが胸を張って言える日は、いつ訪れるのだろうか。


<大震災6年>「1者応札」苦渋の容認 競争性に疑問も
毎日新聞 3/12(日) 6:45配信

 8割台だった岩手県発注の建設工事の平均落札率(予定価格に対する落札額の割合)が東日本大震災後、9割台に上昇している。同県は従来、入札に1事業者しか参加しない「1者応札」を認めていなかったが、震災後に入札不調が続出したため1者応札を認めるようになったことが一因とみられる。復興工事を急がなければならないという事情はあるが、専門家からは競争性を疑問視する声が上がる。【佐藤慶】

 岩手県は競争性確保のため2008年1月、1者応札の場合は入札を取りやめ、条件を見直して改めて実施する制度を導入した。だが震災後、人材不足や資材高騰などを背景に1者応札が急増。10年度に3%だった入札不調が、11年度には9%に跳ね上がり、「復興を進めたくても進められない状況」(県の担当者)に陥った。このため11年11月から1者応札を認めた。

 その結果、1者応札の割合は11年度に12%、12年度は21.8%と拡大し、ピークの14年度は29%となった。1者応札の平均落札率は全体の平均落札率よりも4~7ポイント高く、13~15年度は97%を超えた。県発注の建設工事の落札率は、1者応札を認めていなかった10年度は平均82.9%だったが、12年度は92.4%に上昇した。落札率の上昇と1者応札の増加は、高い相関関係がある。

 予定価格とほぼ同額の落札も目立つ。県は「電子入札は何社が入札に参加したか分からない。予定価格と同額で工事をとれれば良いと思った業者が落札した場合が考えられる」との立場だが、「応札者が自分だけだとある程度分かっていたかも」と懸念する県関係者もいる。

 五十嵐敬喜・法政大名誉教授(公共事業論)は「1者応札の落札率が90%台後半というのはかなり高い。いまだに仮設住宅に住む被災者がいる住宅関係の工事は別としても、港湾や道路などで1者応札を認めるほどの緊急性、緊迫性があるのか。入札のやり直しは2、3カ月あればできる。そのくらいは受け入れ、競争性を確保しなければならない」と指摘する。

 ◇工事増え、履行優先

 岩手県議「3・11の前と後で、1者応札をどう捉えるのか」

 県総務部長「競争性や経済合理性からはいかがなものかという面もあるが、入札不調になって復旧・復興工事が遅れてしまうということに比べれば、まがりなりにも予定価格の範囲内で収まり、工事が履行される方が良いのではないか」

 岩手県が1者応札を認めて間もない2012年10月の県議会。1者応札の是非を問う県議に対し、県総務部長は「不十分ではあるが最低条件は満たしている」を意味する「まがりなりにも」という言葉を使って答弁した。苦渋の決断だったことがうかがえる。

 1者応札を認めざるを得なくなった背景には被災地特有の事情がある。復興工事が増えて技術者や作業員が不足し、資材や労務単価も急騰。業者の積算価格と県の予定価格がかけ離れ、入札不調や1者応札が急増した。入札やり直しに数カ月を要することも多く、復興の遅れを避けるために制度変更は必要とされた。

 10年に全国知事会がまとめた調査報告書によると、原則として1者応札を無効としている都道府県は2割だけだった。宮城県と福島県も以前から1者応札を認めている。「現在の主流に合わせた」と話す岩手県関係者もおり、同県にとって入札制度改革の「後退」に踏み切る心理的なハードルは低かった。

 1者応札容認や、労働者の交通費といった間接的な費用を2~5割増しで見積もれる「復興係数」の被災3県への適用などにより、13、14年度に21%だった入札不調は、15年度は9%に減少した。ただ、入札が適正だったか検証することは困難だ。県議会に議案として提出されるのは契約金額が5億円超に限られる。

 ある県議はこう語った。「復興工事の検証は、復興自体への批判と受けとられかねない。工事が数多く進められている中、一つ一つをチェックするのも難しい」


警官らが被災パトカー前で献花 住民を避難誘導中に津波に巻き込まれ殉職
スポーツ報知 3/12(日) 6:02配信

 福島県富岡町では11日、町内の岡内東児童公園内に展示されている、津波で被災した福島県警双葉署のパトカーの前で同署の職員らによる献花が行われた。

 震災当時、双葉署の増子洋一警視(当時41)と、佐藤雄太警部補(同24=ともに2階級特進)が、住民の避難誘導のためパトカーで出動したが、津波に巻き込まれた。増子さんは同年4月に沖合約32キロで海上自衛隊の艦船により遺体が発見されたが、佐藤さんはいまだに見つかっていない。2人とも非番だった。

 同町の仏浜で見つかったパトカーの残骸には、殉職した2人の警察官への献花が絶えることがなかったが、14年末には宮本皓一町長が「自らの危険を顧みず多くの町民の命を守り抜き、殉職した警察官の勇気を感謝の気持ちを込めて後世に伝えたい」と保存を決定。15年1月に地元有志らは、レッカーで移動。同年3月から展示されている。


福島県田村市などで震度4の地震
読売新聞 3/12(日) 5:15配信

 12日午前4時57分頃、福島県沖を震源とする地震があり、福島県田村市などで震度4を観測した。

 気象庁によると、震源の深さは約50キロ、マグニチュードは5・3と推定される。

 この地震による津波の心配はないという。


福島県で震度4
時事通信 3/12(日) 5:08配信

 12日午前4時57分ごろ、福島県沖を震源とする地震があり、福島県で震度4の揺れを観測した。

 気象庁によると、震源の深さは約50キロ。地震の規模(マグニチュード)は5.3と推定される。主な各地の震度は次の通り。

 震度4=福島県田村市、浪江町
 震度3=いわき市、南相馬市、楢葉町、宮城県石巻市、茨城県常陸太田市
 震度2=福島県飯舘村、仙台市青葉区、水戸市、青森県階上町、盛岡市、栃木県大田原市、群馬県邑楽町、埼玉県春日部市、千葉県香取市、東京都北区。


〔地震〕福島県田村市・浪江町で震度4、津波の心配なし
レスキューナウニュース 3/12(日) 5:00配信

気象庁によると、12日04:57頃、福島県沖を震源とするM5.3の地震があり、福島県田村市・浪江町で震度4の揺れを観測しました。
この地震による津波の心配はありません。

■発生事象
・発生日時 :3月12日04:57頃
・震源地  :福島県沖(北緯37.5度、東経141.6度)
・震源の深さ:約50km
・地震の規模:M5.3(推定)

■震度3以上が観測された市町村(*印は気象庁以外の震度観測点)
【震度4】
・福島県 :田村市都路町*、浪江町幾世橋
【震度3】
・福島県 :郡山市朝日、郡山市湖南町*、白河市郭内、白河市東*、白河市表郷*、須賀川市八幡山*、須賀川市岩瀬支所*、国見町藤田*、鏡石町不時沼*、天栄村下松本*、泉崎村泉崎*、中島村滑津*、玉川村小高*、古殿町松川新桑原*、田村市大越町*、田村市滝根町*、本宮市白岩*、いわき市三和町、いわき市平四ツ波*、いわき市平梅本*、相馬市中村*、福島広野町下北迫大谷地原*、福島広野町下北迫苗代替*、楢葉町北田*、富岡町本岡*、川内村下川内、双葉町両竹*、新地町谷地小屋*、南相馬市原町区三島町、南相馬市原町区高見町*、南相馬市原町区本町*、南相馬市小高区*
・宮城県 :角田市角田*、丸森町鳥屋*、山元町浅生原*、石巻市大街道南*、石巻市桃生町*
・茨城県 :常陸太田市金井町*


<大震災6年>「気仙沼レストラン」来て 名城大学生が運営
毎日新聞 3/11(土) 22:12配信

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宮城県気仙沼市大島をPRする「気仙沼レストラン」を開いている名城大の学生たち=名古屋市東区の名城大ナゴヤドーム前キャンパスで2017年3月11日午後0時37分、長谷部光子撮影

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市の離島・大島を応援する特設レストランが11日、名古屋市東区の名城大学ナゴヤドーム前キャンパスで始まった。復興支援活動を通して大島に魅了された学生有志20人が運営する。12日まで。

 名城大は気仙沼市で被災した卒業生の要請を受け、震災3カ月後に学生ボランティアを派遣した。その後も学生主体で支援を続け、島民と交流を深めながら復興や観光振興に協力している。

 レストランを発案したのは、4年の山口春菜さん(22)。被災地を巡るバスツアーなどを企画し、4年間で40回近く大島を訪れた。「活動を通して多くの人と出会い、成長できた。恩返しがしたい」と仲間に呼びかけ、実現した。

 学内のカフェテリアの一角を「MU(ムー)気仙沼レストラン」と名付け、澄んだ海と空、街の風景といった気仙沼の写真を飾った。メカジキ、ワカメ、ホタテなどの食材は親しくなった地元の漁師から取り寄せた。学生たちは、気仙沼市から贈られた大漁旗の法被姿で大島をPRした。山口さんは「温かく迎えてくれた大島の人たちや自然の魅力を知ってほしい。人との結びつきを大切にすることで、震災を忘れないでいたい」と話した。

 12日は正午から午後8時まで。営業中にボランティアの体験談や被災地からのメッセージ中継もある。【長谷部光子】


<大震災6年>「時間は止まったまま」名古屋避難の男性
毎日新聞 3/11(土) 22:01配信

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東日本大震災から6年の追悼式で、献花をして手を合わせる人たち=名古屋市中区で11日午後、木葉健二撮影

 東日本大震災の犠牲者追悼式が11日、名古屋市中区の久屋大通公園で開かれた。愛知県内に避難する被災者やボランティア、市民らが献花して黙とうし、ろうそくをともした。

 震災が発生した午後2時46分と午後6時46分に黙とう。実行委員会の浜田ゆう委員長が「これからも被災地と被災者に心を寄せていきます」と宣言した。ろうそくの火は「追悼 東日本」などの文字を浮かび上がらせた。

 福島県南相馬市から名古屋市南区に避難した伊藤広昭さん(63)は「震災当時から時間は止まったまま」と話した。昨年11月に南相馬市の家を解体した。解体には立ち会わなかった。「家がなくなった実感はまだない。これからは自分の居場所を見つけなければ」と静かに語った。南相馬市から名古屋市内に避難してきた男性(41)は、震災当時生後1カ月だった長女(6)を見つめて「6年はあっという間。あの日から何も変わらないように思うが、子どもはどんどん大きくなる」と話し、抱きついてきた長女に笑顔を見せた。

 会場近くでは、岩手県の地元紙・岩手日報が「特別号外」を約1000部配った。被災地の現状や支援への感謝を伝えようと震災翌年から続けていて、今年で6回目。谷藤典男・編集局次長は「語り継ぎ、受け継いでいくことが大切。災害への備えの重要性も訴えたい」と話した。

 号外を受け取った愛知県刈谷市の40代男性は「宮城県出身で、発生5日後に沿岸部を訪れた。親戚の家が流され、たくさんの遺体を見たことを思い出す。前に進むしかない」と語り、号外に見入っていた。【野村阿悠子】


<大震災6年>関学大礼拝堂で黙とう 学生ら賛美歌合唱
毎日新聞 3/11(土) 21:53配信

 東日本大震災から6年。関西学院大(兵庫県西宮市)の礼拝堂では、学生や教員ら約20人が賛美歌を合唱し、発生時刻の午後2時46分に黙とうをささげた。

 阪神大震災で自宅が半壊した舟木譲・関西学院宗教総主事は当時の経験をふまえ、「東日本大震災では阪神以上の被害があっただろう。今も多くの行方不明者がいる。被災地を思い続けることが最低限の務めだ」と参加者に語りかけた。東北支援を続ける学生団体「関西学院上ケ原ハビタット」のメンバーは、岩手県や宮城県で被災者と交流した昨年の活動を報告した。【釣田祐喜】


<大震災6年>神戸の中学生、宮城で植樹
毎日新聞 3/11(土) 21:47配信

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神戸の森で植樹する吹奏楽団「パッション」のメンバー(左)と地元の小中学生ら=宮城県気仙沼市階上地区で2017年3月11日午後0時58分、山本愛撮影

 関西でも11日、各地で東日本大震災の追悼行事があり、多くの人が犠牲者の冥福と被災地の復興を祈った。神戸市の中学生らは交流を続ける宮城県気仙沼市を訪れ、植樹活動に参加した。

 神戸市立玉津中(西区)と多聞東(たもんひがし)中(垂水区)の卒業生らでつくる吹奏楽団「パッション」。2013年から、壊滅的被害を受けた気仙沼市階上(はしかみ)地区に「神戸の森」を作り、植樹を続けている。資金はチャリティーコンサートで賄い、これまでに約200本を植えた。

 この日は両校の生徒や卒業生ら約70人が現地入り。追悼式などでコンサートを開いた後、阪神大震災20年の節目(15年)に神戸市を訪れて交流した階上地区の中学生らと一緒に梅や桃の木約100本を植えた。玉津中OBの和太鼓奏者、山本壱輝(いっき)さん(19)は「東北は復興半ば。被災地のためにできることを続けていきたい」。気仙沼市立階上中1年の岩渕楓さん(13)は「神戸から被災地を思ってくれていることがうれしい」と話した。【山本愛】


<大震災6年>キャンドルともし「忘れない」 犠牲者しのぶ
毎日新聞 3/11(土) 21:43配信

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漁港に並べられたキャンドルに火がともされて「忘れない」の文字が浮かび上がる中、海に向かって黙とうする人たち=岩手県山田町で2017年3月11日午後6時1分、佐々木順一撮影

 東日本大震災から6年となった11日夜、被災地各地で犠牲者の追悼と復興への願いを込めた行事が行われた。

 津波で大きな被害が出た宮城県石巻市南浜地区。「がんばろう!石巻」と書かれた看板の前では約3600本のキャンドルにあかりがともされ、市民ら600人以上が黙とうをささげた。

 岩手県山田町では同日夜、漁港にキャンドルで作った「忘れない」の文字が浮かび上がった。また、灯籠(とうろう)流しも行われ、願い事を書いた灯籠が海に浮かべられた。2012年から毎年行われている行事で、今年は用意された100個が流された。

 県立山田高2年の上沢りえさん(17)は「津波で亡くなった祖母に、『もう高校生になったよ。(津波の記憶を)風化させないよ』と誓いました」と話した。【丹治重人、後藤由耶】

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