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2017年3月10日 (金)

東日本大震災等および原発事故関連のニュース・2207

引き続き、2011年3月11日に発生した、東日本大震災ならびに東電福島第一原発事故に関連するニュース記事を伝達します。

今後も引き続き、随時追加します。

リンク:<大震災6年>犠牲者の冥福を祈る人々の姿 被災地各地 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:福島・浪江町などの避難指示解除へ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災6年 ビールにおいらん人形…今こそ実を結ぶ復興支援 次のステージ物語る味と品々 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災から6年、被災地などで追悼 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>遺族会発足「二度と津波で亡くさない」 大槌 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>力もらってきた「かしまの一本松」に祈り - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>東電再建険しい道のり 他電力は再編及び腰  - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災6年、鎮魂の朝=「家族見守って」―被災各地で遺族ら祈り・東日本大震災 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災から6年、原発の近くほど復興の時計に遅れ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:七回忌に間に合った お遍路巡礼コース釜石に復活 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:津波の教訓心に残れ=木製の碑、4年ぶり新調―岩手出身の大学生・東日本大震災6年 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>原発重い足かせ 想定超す福島事故処理費用 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<帰宅困難者支援>駅で地震なら指示に従って避難を 東急 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:【震災6年 ふるさとの今(1) 福島県飯舘村】  思い出が詰まった村、でも帰らない 避難生活の末に下した人生の選択 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:あの日逝った大切なペット、ひとへ「今どこにいますか?」 思いを綴る手紙 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:日本食品、禁輸続く=近隣国で警戒-新市場開拓で光も・原発事故6年〔深層探訪〕 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「悲劇繰り返さない」=亡き父は大川小教員―児童遺族と語り部・東日本大震災 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:続く被災地訪問の旅=嶋「心の傷和らげる」―プロ野球楽天・東日本大震災6年 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災6年 今、子供たちは 支え合い成長した魂 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:希望のランドセル 3・11生まれ星山琉菜ちゃん春から小学生 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:復興の歩みと共に迎えた6歳誕生日…地震発生から1時間18分後に産声の大町云櫻君 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:午後に政府追悼式=東日本大震災から6年 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:かさ上げ長期化、住宅再建あきらめる事態深刻に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:常磐線の浪江~小高間は4月1日再開…竜田~富江間は10月頃に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>仮設住宅で死亡 31市町村で計1436人 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>復興住宅火災 70代男性か 1人死亡 岩手 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>12万3168人 全国に避難 更に長期化も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>首相会見見送り 12日宮古で「お見舞い」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>命救った防災無線 女川町の「3月11日」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:浪江、富岡町の解除決定=福島原発事故の避難指示―政府 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災6年>SMAPファン後押し「ミシン工房」商品人気 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:安倍首相の3・11会見打ち切り=震災6年で「節目越えた」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:常磐線 来月1日に浪江~小高駅間が再開 10月には竜田~富岡駅間も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<泊原発>近くに海底活断層 耐震評価見直し要求 規制委 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

<大震災6年>犠牲者の冥福を祈る人々の姿 被災地各地
毎日新聞 3/11(土) 12:44配信

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東日本大震災の津波で避難者の多くが犠牲になった鵜住居地区防災センター跡地で手を合わせる遺族や地区の住民ら=岩手県釜石市で2017年3月11日午前9時15分、佐々木順一撮影

 天国で楽しく暮らしてください--。東日本大震災の被災地では11日、津波にのまれた犠牲者の冥福を祈る人々の姿があった。

 約1100人の死者・行方不明者が出た岩手県釜石市。幼い子どもを連れた家族らが白や黄色の花を手向け、手を合わせていた。

 警察庁によると、地震や津波による死者は1万5893人。県別の内訳は、宮城9540人▽岩手4673人▽福島1613人▽茨城24人▽千葉21人▽東京7人▽栃木4人▽神奈川4人▽青森3人▽山形2人▽群馬1人▽北海道1人。


福島・浪江町などの避難指示解除へ
ホウドウキョク 3/11(土) 12:35配信

4月1日までに避難指示を解除することを決定した。
安倍首相は「ふるさとに戻りたいと考える住民の方々が、早期に戻れるよう取り組んでほしい」と述べた。
政府は、年間の被ばく線量が20ミリシーベルト(mSv)以下で、電気やガスなどのインフラが復旧したとして、福島・浪江町に対する帰還困難区域を除く避難指示を3月末に、富岡町を4月1日に解除することを決めた。
対象者は、およそ2万5,000人にのぼる。
このほか、飯舘村と川俣町も、3月末に避難指示が解除されることが決まっていて、避難指示が出ているのは、大熊町と双葉町の一部を除き、帰還困難区域のみになる。
今後は、線量が高い帰還困難区域の中に復興拠点を設けて、除染やインフラの復旧を進め、5年後をめどに避難指示の解除を目指す。

福島テレビ/FNN


東日本大震災6年 ビールにおいらん人形…今こそ実を結ぶ復興支援 次のステージ物語る味と品々
産経新聞 3/11(土) 12:30配信

 「東日本大震災」から6年。風化が危惧されるなか、逆に歳月を経た今だからこそ実を結ぶ支援がある。津波で破壊された海辺育ちの大麦ビール、福島県の伝統工芸と世界的デザイナーとのコラボレーション…。復興を物語る品々が東北の底力を伝える。(重松明子、写真も)

 東京スカイツリー(東京都墨田区)にほど近い、ビール醸造所兼レストラン「アサヒクラフトマンシップブルワリー東京」。

 赤褐色に輝くアルトタイプのビールの泡から、甘さを含んだ麦芽の芳香が漂う。口に含むと麦の苦みが香ばしくまろやかで、後味はスッキリ。

 「宮城県東松島市の運動公園だった場所。がれきを撤去した更地を畑にして、初収穫された大麦で醸造したビールです。津波の塩害に見舞われた土地ですが、『麦は強い』という同期入社の技術者の言葉に触発され、勇気づけられました」。

 アサヒグループホールディングスCSR部門の松沼彩子マネジャー(45)が感慨深げにグラスを掲げる。確かな味わいに、麦と被災地のたくましさを思った。

 同社が進める復興支援「希望の大麦プロジェクト」による「希望の大麦エール」(734円)が東京など全国15店舗で販売中だ。限定3763杯。1杯につき100円が被災地への寄付となり、販売が終了する今月20日頃までに37万6300円が集められる。

 「みんなの熱意でできたビールは復興の象徴」と東松島市の生産農家、安部俊郎さん(59)。「ビール向け大麦の栽培は初めてだったが、順調に育ってくれました。今後はビールだけでなく大麦の健康食品など新たな産業、名産品として育てていきたい」。海沿いに青々と茂る麦畑が、被災地の希望の景色になってゆくのだろう。

 同社では震災2年後から、復興庁を通じてグループ企業の社員を現地に派遣。ニーズを探りながら中長期的な支援を模索してきた。

 関東圏の営業職を経て2年前から出向している宇野由希子さん(28)は震災時、大学3年生だった。「東京でも企業・就職活動がストップ。その間、ボランティアとして東北に向かった経験から、今度は社会人として被災地のために働きたいと考えた」と振り返る。目標は、「『希望の大麦』がビジネスとして成り立つことです」と期待を込めた。

 プロジェクト参加店では、同じ畑で収穫したもち麦を使った肉料理も提供し、人気メニューとなっている。

 先月、東京・南青山で開かれた展示会「福島CRAFTSandPEOPLE」会場に、世界的デザイナーのコシノジュンコさん(77)らが福島県の伝統工芸14社とコラボした製品が並んでいた。円と四角の陶食器、黒い和蝋燭、会津塗のアクセサリー、張り子のおいらん人形…。

 「モダンでしょう。漆のイヤリングなんてすっごく軽いし、機能的。福島の卓越した伝統技術を現代のライフスタイルに融合させるデザインを考えました」とコシノさん。

 フランス国立ギメ東洋美術館で開催中のKIMONO展のアーティステックアドバイザーを務めており、一部はパリにも持っていくという。

 「ヨーロッパの人が喜ぶ」と太鼓判を押すコシノさん。実は5年前にもコラボの打診を受けていたと明かした。

 「当時は原発の風評被害が強かったから『今は静かにしておいた方がいい』っていったの。福島の技と精神は地震にも原発にも侵されていない。東京オリンピックを控えた今こそ、世に発信するチャンスです」

 県の県産品振興戦略課によると、来月にも首都圏などで販売が始まる。復興は次のステージへ、力強く進もうとしている。


東日本大震災から6年、被災地などで追悼
読売新聞 3/11(土) 11:56配信

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多くの児童・教職員が津波の犠牲となった大川小では早朝から、犠牲者の冥福を祈る人たちの姿があった。(11日午前、宮城県石巻市で)=関口寛人撮影

 1万8446人の死者・行方不明者を出した東日本大震災は11日、発生から6年を迎えた。

 大津波に襲われた岩手、宮城、福島の3県では、多くの人が犠牲となった家族や友人らの冥福を祈った。午後からは、東京都千代田区の国立劇場で政府主催の追悼式が行われる。各地でも式典が開かれ、午後2時46分の発生時刻に合わせて黙とうがささげられる。

 教職員と児童計84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の市立大川小旧校舎では、小雪が舞う中、早朝から献花台に花を手向ける人たちが訪れた。当時9歳だった佐藤健太君を亡くした父美広(みつひろ)さん(55)は「生きる希望だった。6年たった今なら、背丈は俺を抜いていただろうな。悲しみは増すばかり」と目を潤ませて校舎を見つめた。


<大震災6年>遺族会発足「二度と津波で亡くさない」 大槌
毎日新聞 3/11(土) 11:27配信

 ◇吉里吉里地区の吉祥寺の檀家が七回忌に合わせて

 東日本震災による死者・行方不明者が1285人に上った岩手県大槌町。悲劇を風化させない--。同町吉里吉里(きりきり)地区にある吉祥寺の檀家(だんか)が七回忌に合わせて遺族会を発足させ、11日、同寺で、慰霊碑の除幕式が営まれた。「大切な人を二度と津波で亡くさないように」。会の顧問を務める保育園理事長の東谷(あずまや)藤右エ門さん(83)は誓う。

 除幕式には約300人が出席。碑は、苦しみを取り除くという意味を込め「抜苦(ばっく)地蔵」と名付けられ、東谷さんは「大震災の教訓を次の世代に伝承していきましょう」と呼びかけた。

 寺は高台にあり無事だったが、檀家179人が犠牲になった。その一人が妻ケイさん(当時74歳)だった。地域の青年会の活動で親しくなった。正月やお盆の集まりで、いつも三船和子さんの演歌「だんな様」を歌ってくれた。隠し事なく何でも相談できた。

 6年前のあの日。東谷さんは、悔やんでも悔やみきれなかった。

 海岸から約600メートルの自宅で突然、大きな揺れを感じた。「ここさいろ、俺は園児を避難させてくる」。妻に言い残して家を出た。高台の小学校に避難していた園児の無事を確認し校門を出ようとした時、津波が街を襲っているのを見た。

 妻は約80メートル流された自宅の中で見つかった。近所の人から「ケイちゃん、津波来る前に家を出たり入ったりしていたよ」と聞いた。「俺のことを待っていたんだと思う。逃げろと言っておけば……」

 東谷さんには、三回忌を前に遺族同士で話ができる場を設けたいとの思いはあった。だが、地区の住宅再建も進んでおらず具体化しなかった。

 東谷さんの自宅があった場所ではかさ上げ工事が続く。今もおいの家で暮らすが、近く宅地整備が完了する見通しになり家を建て直す道筋も見えてきた。

 「震災を語り継ぐためにも遺族会を作りませんか」。七回忌を控え、高橋英悟住職(44)が、地域の顔役でもある東谷さんに持ちかけたのを機に会は先月発足した。

 大槌町は、東谷さんが生まれる3カ月前の1933年3月にも、昭和三陸津波で62人の命が奪われるなど、たびたび津波に襲われた。「地震があったら津浪(つなみ)の用心せよ」。地元に建立された石碑に刻まれていた。

 「先人たちが警告したように、津波はまたいずれ来る。世代が代わっても震災のことをずっと伝承してほしい」。11日夕に遺族会のメンバーらが海に流す灯籠(とうろう)には、街の平穏を願って妻に宛てて書いた。「天国から見守って、ネ」【松岡大地、井口慎太郎】


<大震災6年>力もらってきた「かしまの一本松」に祈り
毎日新聞 3/11(土) 10:49配信

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地震発生から6年の朝、「かしまの一本松」の前で手を合わせる五賀和雄さん(左)と、大久定光さん=福島県南相馬市で2017年3月11日午前6時13分、宮武祐希撮影

 福島県南相馬市鹿島区の海辺では、6年前の大津波に耐えた「かしまの一本松」前に遺族らが集まり、朝日に追悼の祈りをささげた。地元・南右田地区は全70戸が流され、住民の2割弱にあたる54人が亡くなった。一本松は復興のシンボルとして愛されたものの、枯れが進むなどしたために今秋にも伐採される。

 午前6時ごろ、太平洋をオレンジ色に染めながら昇ってくる朝日に向かい、静かに手を合わせる2人の男性がいた。妻、父、おいの3人を津波で亡くした建設業、大久(だいひさ)定光さん(68)と、行政区長の五賀和雄さん(76)。

 大久さんは「仕事が落ち着いたら、妻を旅行に連れて行ってやりたいと思っていたのに」と今も悔いている。「何年たっても、つらさは消えない。でも、健康に気遣って、仕事も一生懸命やる。自分がちゃんと生きていくことが、一番の供養になる」と考えている。

 津波で沿岸約3キロにわたった松林は流され、10本ほど残った木も一本松だけを残して枯死。五賀さんらが肥料を与えるなど保存を模索したが、一昨年夏ごろに立ち枯れが始まったという。

 南右田地区は、大半が住宅を建てられない「災害危険区域」に指定され、行政区は25日に解散となる。五賀さんは「松には力をもらってきた。みんなばらばらになっても、地元を忘れないでほしい」。伐採した一本松で表札を作り、転居した地区の人たちに配りたいという。【土江洋範】


<大震災6年>東電再建険しい道のり 他電力は再編及び腰 
毎日新聞 3/11(土) 10:31配信

 福島第1原発事故の処理費用の見積もりは、経済産業省が昨年12月に公表した試算で、それまで想定されていた11兆円から21・5兆円に倍増した。事故処理費用を工面するため、学者や財界人などで構成した経済産業省の有識者会合「東京電力改革・1F問題委員会」(東電委)は昨年末まとめた提言で、東電に送配電や原子力など事業ごとに他社と再編・統合を進めて収益性を高めるよう迫った。関係者によると、東電は提言内容を踏まえた新たな経営再建計画の骨子を3月中に発表するが、他の大手電力は再編に及び腰だ。

 東電委での議論を受け、東電は2020年代初頭の送電事業での業務提携の実現を目指し、今年中に他電力に協議を呼び掛ける。長期的には原子力などの事業も再編を目指す。ただ、他電力には「東電と組めば収益が福島原発の事故処理費用に吸い取られる」(幹部)との懸念が強い。

 また、東電が収益改善の柱と位置づける柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働も、慎重派の県知事が就任したため実現は当面見通せない。東電は事故処理のため今後30年にわたり、毎年5000億円程度を工面する必要があるが、経営再建の道のりはなお険しそうだ。

 ◇先見えぬエネルギー政策

 政府は2014年のエネルギー基本計画で、原発を重要な「ベースロード電源」として位置付け、30年度の総発電量に占める割合(電源構成)を20~22%とすることを目指している。だが、全国で運転差し止め訴訟が相次ぐなど原発の再稼働は進んでおらず、目標の達成は厳しい状況だ。

 現在、全国の原発42基のうち、稼働中の原発は四国電力伊方原発3号機(愛媛県)、九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)の3基のみ。関西電力高浜原発3、4号機(福井県)は一度は再稼働したものの、昨年3月、大津地裁の差し止め命令を受けて運転を停止。川内原発を巡っても、運転差し止め訴訟が係争中だ。

 一方、30年度に総発電量の22~24%を目標とする再生可能エネルギーも課題は多い。12年に導入した固定価格買い取り制度が普及を後押しし、全電源に占める割合は14年度に12・8%に達した。だが、買い取り費用も12年度の約2500億円から16年度は約2兆3000億円に増加し、標準家庭の負担は月66円から675円に跳ね上がった。更なる普及に向けて、コスト削減が急がれる。

 政府はこうした現状を踏まえ、17年中にエネルギー基本計画の見直しを検討する方針だ。【宮川裕章、岡大介】


震災6年、鎮魂の朝=「家族見守って」―被災各地で遺族ら祈り・東日本大震災
時事通信 3/11(土) 10:10配信

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東日本大震災から6年目となった11日、被災地は祈りの朝を迎えた。写真は防災対策庁舎の前で献花し手を合わせる遺族の男性=宮城県南三陸町

 東日本大震災から6年となった11日、被災地は祈りの朝を迎えた。

 「残された家族を見守って」。岩手、宮城、福島各県などの海岸では、遺族らが思い思いに亡き人をしのび、手を合わせた。

 津波に襲われ町職員ら43人が犠牲になった宮城県南三陸町の防災対策庁舎には、次々と人が訪れた。町課長だったいとこの三浦満夫さん=当時(60)=が今も行方不明という河原竜二さん(65)は「兄弟同然に育った。もうすぐ定年だったのに」と涙ぐみ、「七回忌だが遺骨も見つからず、悲しい気持ちは変わらない」と声を落とした。

 骨組みだけが残る庁舎は、2031年までの保存に向け、塗り直しなどの補修を終えたばかりだ。3年前から被災地の復旧工事現場で働いているという横畑友信さん(42)も献花し、「復興に携わる者として、亡くなった方に思いをはせたい」と話した。

 集落が丸ごと津波にのまれた同県名取市の閖上地区。母豊子さん=同(85)=を亡くした川嶋寛さん(66)は、家々があった方向に何度も手を合わせた。「新しい家が建ち始めたが、失ったものが多過ぎて復興の実感はない」。避難誘導中に命を落とした消防団員赤間一雄さん=同(55)=の姉(67)は「震災直後の混乱していた時よりかえってつらい。自分のためより人のため。弟らしい行動だったと思う」と目を潤ませた。

 身元不明者の遺骨70柱が眠る岩手県大槌町の町営納骨堂を妻(63)と一緒に訪れた山崎悟さん(68)は、兄の勝広さん=同(69)=が行方不明のままだ。孫たちを先に逃がし、家と共に津波に流されたとみられる。震災後に生まれた勝広さんの孫は昨年、幼稚園に入った。「会いたい思いが消えることはない。新しく生まれた孫にも会わせたい」。山崎さんはそっと手を合わせた。

 今月末に東京電力福島第1原発事故の避難指示が一部で解除される福島県浪江町。午前11時から犠牲者182人の氏名が刻まれた慰霊碑の除幕式があり、100人を超す遺族らが出席した。両親を津波で亡くした団体職員網谷信行さん(42)は「もっと長生きしてもらいたかった。これから町が復興する。見守っていてくれ」と祈りをささげた。


震災から6年、原発の近くほど復興の時計に遅れ
日刊スポーツ 3/11(土) 10:00配信

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先月漁船が戻った浪江町の請戸漁港から南を見渡せば、事故を起こした東京電力福島第1原発の排気筒が見える

<沿岸部を行く・記者リレーリポート(5)福島・新地町~双葉町>

 「新地町壊滅のもよう」。11年3月12日。カーラジオから流れたそんな一報を頼りに新地町に向かった。海から約1・5キロ離れた国道6号線まで、家やがれきが津波で流されてきていた。あれから6年。水田はきれいに刈り取られていた。

【写真】相馬市の松川浦にある旅館かんのやの管野拓雄さ

 防潮堤が完成し、流された新地駅は新しい場所に新設、再開した。6年前の取材で自転車を貸してくれた菅野恵美さん(53)は「大勢の犠牲者が出た釣師浜の人たちも山の方へ集団移転した。防潮堤で海は見えないけど、安心感はある」と評価する。「働く場所が少ないのが課題」という。

 海沿いに南へ。相馬市まで移動した。松の生えた天然の砂嘴(さし)が、太平洋と2本の川の河口を隔て、元禄時代から名勝として知られた「松川浦」。巨大な津波は、砂嘴を突き破り、一帯を襲った。6年で砂嘴はつながったが、かつて海に掛かる橋のようだった砂嘴の道路はいまだに工事中。白い防潮堤もかつての風情を失わせている。

 松川浦の旅館「かんのや」の管野拓雄社長(58)を訪ねた。魚もマツバガニも、松川浦名物の青のりも放射性物質は検出されなくなった。それでも風評被害は続く。さらに「景色も変わった。植樹もまだまだ。一般の観光客はほとんどいません」。いまだに、日常は戻ってきていない。

 国道より海側の「浜街道」を南下する。水田には大規模太陽光発電所(メガソーラー)が増え、白い防潮堤も続いている。昨年7月に避難指示解除となった南相馬市小高区では防潮堤が建設中だった。周囲の水田は、雑草や木が刈り取られていたが、あぜと田の境界がぼやけており、原野に戻りつつあった状況を物語る。このあたりから、道路脇に「獣と衝突」の注意看板が目立ち出す。人に、イノシシが取って代わっていたからだ。

 春に避難解除となる浪江町請戸地区。請戸漁港には先月、26隻の漁船が戻った。数キロ南には東京電力福島第1原発5、6号機の立地町の双葉町が広がる。双葉町の北東部の中野地区には、津波でつぶれた車やがれきがまだ残る。原発に近づくほど、復旧の時計は遅れている。

 1軒の家の前で、地域の元消防団分団長だった高倉伊助さん(61)が町職員の調査に立ち会っていた。高倉さんは百メートルほど先を指さし「そのガードレールの先が、中間貯蔵施設予定地だ」と教えてくれた。ガードレールの先の森の上に、第1原発の排気筒がのぞく。地区に戻る人はいない。

 高倉さんも須賀川市に新たに自宅をもとめた。「この地区は、復興作業や見学の拠点にするしかない。元通りになんないのは悔しいし、寂しい。それはあっけど、前に進むしかねえべした」。【清水優】


七回忌に間に合った お遍路巡礼コース釜石に復活
日刊スポーツ 3/11(土) 9:56配信

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釜石霊場の中にある弘法大師像。左奥に新四国八十八カ所霊場の1番札所・霊山寺にちなむ如来像が見える(撮影・柴田寛人)

 東日本大震災から今日11日で6年。1万8000人以上の犠牲者を悼む鎮魂の日の前日、被災地でお遍路霊場が復活した。岩手県釜石市内で60年前に完成し、荒廃が進んでいた写し巡礼地「新四国八十八カ所霊場」が、ボランティアらによって再整備。10日に赤いよだれかけを石仏に奉納する作業を終え、震災七回忌までの“仮オープン”に間に合わせた。所要約2時間の巡礼コースが、遺族の傷心を癒やす。

 この日午前、ボランティアらが石仏に赤いよだれかけを掛け、一連の再整備作業が終了。釜石市小川(こがわ)町の小高い山は、赤い花で彩られたようだった。作業を手伝った市内の駒木山不動寺の住職補佐、森脇妙紀(みょうき)さん(54)は「七回忌に間に合うのはここまで。今後はトイレや休憩所、イベントスペースを設けるとか、集いの場としての整備を続けたい」と意気込んだ。

 この山には、高さ1メートルほどの石仏が130体以上も点在している。市内の実業家が戦後、大病を患った際に弘法大師(空海)の信仰で命を救われたと確信。恩返しのため、山地の一部を買い取り、霊場にした。弘法大師が四国で開いた札所八十八カ所の本尊の菩薩(ぼさつ)像や如来像などの石仏を設置。各所から持ち帰った砂をその下に埋めた。近畿地方などの西国巡礼で回る三十三カ所にちなんだ観音像も置かれ、1957年(昭32)ごろに完成した。

 四国お遍路と同じ御利益があるとされ、市民の巡礼地になったが、次第に訪問者が減少。仏像の倒壊や倒木など、荒廃が進んだ。弘法大師が高野山を開いて1200年の一昨年、山の所有者から森脇さんに霊場再建の相談があった。駒木山不動寺が高野山真言宗の寺院で、弘法大師と関係が深いことが縁になり、再建に向けた活動を始めた。

 「拝んで回れるところがほしいという遺族の声を聞く。今年は七回忌の節目だが、十三回忌までは待てないというお年寄りも多い。巡礼コースを通れるようにして、倒れた仏像を起こして、よだれかけを掛けて、七回忌までにできることをしました」と森脇さん。今後はウオーキングやハイキングのコースとしても整備し、健康増進に役立つことをアピール。平らな場所ではフリーマーケットを開く構想もあり、交流人口の拡大に貢献する意向だ。

 震災による死者・行方不明者数が1000人を超えた釜石市。今日11日には、岩手県との合同追悼式が市内で行われる。復活したお遍路コースが、新たな慰霊の場所として注目されそうだ。【柴田寛人】

 ◆新四国八十八カ所霊場 お遍路で有名な四国八十八カ所霊場に似せたもので、「写し巡礼地」と呼ばれる。遠方や費用面、体調などの理由で四国の巡礼に行けない人が、実際に巡礼した場合と同じ功徳にあずかることができるようにしたもの。全国に1000カ所以上あるという。具体的には札所数、本尊、土砂、配置などが写される。

 ◆駒木山不動寺 明治末期から大正初期ごろ、高野山真言宗を各地に広める僧侶「高野聖(こうやひじり)」が、岩手・釜石の駒木山で寺を興した。岩手県では唯一の真言宗の寺院。東日本大震災の後、僧侶や県内外から訪れたボランティアの活動拠点になった。森脇義真住職。


津波の教訓心に残れ=木製の碑、4年ぶり新調―岩手出身の大学生・東日本大震災6年
時事通信 3/11(土) 9:45配信

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新たに設置した木碑の隣に立つ吉田優作さん(右)。震災の記憶を風化させないよう、4年に1度立て替える予定だ=11日午後、岩手県大槌町

 津波から命を守る教訓を後世に伝えようと、4年前に岩手県大槌町に立てられた1本の木製の碑。

 初めての立て替えが11日にあり、新しい碑が役目をスタートさせた。碑の製作を計画した同町出身の大学生吉田優作さん(20)は「人の心に震災の教訓が残ってほしい」と話している。

 碑の場所は、津波がすぐ下まで来た高台の住宅地、安渡の古学校地区の一角。同日午後、地域の住民ら数十人が集まり、最初の木碑があった土台の上に吉田さんや地元の高校生らが新しい碑を設置。東日本大震災の発生時刻の2時46分、海に向かって祈った。

 碑の正面には「大きな地震が来たら戻らず高台へ」と刻まれている。側面には、地元の高校生が思いを込めた「誰かの命を助けたいなら代わりのない自分から」などの言葉を追加。吉田さんは「より思いが込められた碑になった。自分たちのようなつらい思いを二度と後世の人にさせたくない」と力を込めた。

 6年前、大槌川の下流にあった吉田さんの自宅は津波で全壊。家族は無事だったが、近所に暮らしていた人が多数犠牲になった。町の真ん中には1933年の昭和三陸津波の後に立てられた石碑もあったが、吉田さんは「風景の一部になっていた。立てたら終わりで、教訓として残せなかったのでは」と感じた。

 あえて朽ちる木で碑を作り、人々の手によって立て替え続ければ、震災の記憶も受け継がれるはず。そう考え、復興支援の活動を通して交流を深めた地区の住民に話を持ち掛けた。費用の一部は、インターネットを通じて資金を募るクラウドファンディングで調達。町内の建設会社などの協力も得て、2013年3月11日に最初の碑を立てた。

 一方、吉田さんは、この4年間で自身の中でも震災の記憶が薄れていっていると感じるという。千葉県の大学で危機管理を専攻し、消防士を目指しているが、仕事が忙しくなると次の立て替えに携わるのは難しくなる。今回、高校生に碑の文言を考えてもらったのは、「後継者」を育てたいとの思いもあった。

 吉田さんは「ゴールがない活動だが、次に災害があったとき、碑を見た人の命が一人でも多く救われれば、立てた意味がある」と信じ続けている。


<大震災6年>原発重い足かせ 想定超す福島事故処理費用
毎日新聞 3/11(土) 9:30配信

 東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故の発生から6年。東京電力ホールディングス(HD)が進めてきた廃炉や賠償などの事故処理の費用は想定以上に膨らみ、国民の負担が増すほか、東電の経営再建もいまだ見通せない状況だ。地元の反対などで各地の原発の再稼働も進まず、事故の影響は日本のエネルギー政策にとって今なお重い足かせとなっている。【宮川裕章、岡大介】

【動画】命を救った防災無線 ※津波の映像が含まれます

 福島第1原発事故の処理費用の見積もりは、経済産業省が昨年12月に公表した試算で、それまで想定されていた11兆円から21.5兆円に倍増した。中でも廃炉費は原子炉に落ちた核燃料(デブリ)の取り出しの本格化を迎え、2兆円から8兆円に増加。賠償費も商工業や農林水産業の損害や風評被害の収束が遅れ、5.4兆円から7.9兆円に膨らんだ。

 政府は廃炉費について、国の「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」に東電が資金を積み立てる制度を創設した。東電がコスト削減や収益拡大によって捻出した資金を機構に積み立て、機構が必要に応じて支出する。賠償費の増加分については、新電力などが大手電力に支払う送電線の利用料に2020年から40年間上乗せする制度を創設。一般家庭で月額18円、電気料金が上がることになった。

 これらの処理費用は今後、さらに上ぶれする可能性がある。廃炉費の8兆円は、1979年の米スリーマイル島原発事故を参考に、有識者が福島第1原発の現状と比較して推定した。だが実際には福島原発の原子炉内の詳細な状況は不明で、燃料デブリを取り出す工法も確立されていない。想定を上回る費用がかかり、国民負担が更に増える可能性がある。

 ◇キーワード「事故処理の枠組み」

 政府は2013年、東京電力福島第1原発の事故処理費用について賠償費用5.4兆円▽除染費用2.5兆円▽中間貯蔵施設の建設費など1.1兆円と試算。原子力損害賠償・廃炉等支援機構を通じ計9兆円の資金を交付し、東電と大手電力の負担金などで回収する計画だった。廃炉費は東電が2兆円を準備していた。新しい枠組みでは、新たに10.5兆円の追加費用を想定。廃炉費は東電が資金を機構に積み立て、機構が必要に応じて支出する仕組みを創設する。賠償費は、原発を保有する電力会社が事故に備えて本来積み立てておくべきだった資金を2.4兆円と推計。この分を原発を保有しない新電力も支払う送電線使用量(託送料)に上乗せすることにした。


<帰宅困難者支援>駅で地震なら指示に従って避難を 東急
毎日新聞 3/11(土) 9:30配信

 駅で大地震に遭遇したら、どうすべきか。東京屈指の繁華街を抱える渋谷で、災害発生時の帰宅困難者対策を行う「渋谷駅周辺帰宅困難者対策協議会」(事務局・東急電鉄)と東急は、「駅員などの指示に従って安全に避難をしてほしい」と呼びかけている。【米田堅持】

【訓練で披露された駅の非常用備蓄品】

 同協議会は震災発生時には「駅には向かわずその場にとどまるか、公園などの一時避難所に行く。その後、帰宅困難者の受け入れ施設へ向かうのが最善の策」との方針で、避難誘導する方針だ。しかし、東急渋谷駅だけでも東横線と田園都市線を合わせて1日平均約113万人(2015年)が利用しているため、震災発生時に数万人が駅に残る可能性があると見ている。11年3月11日の東日本大震災では、JR東日本から東急東横線側へ流入する人が多く、対応に苦慮したという。

 ◇駅に滞留すればパニックに

 大地震が発生した場合、東急は係員が誘導してホームから出て一時待機してもらい、安全を確認してから避難場所へ誘導する。その後、帰宅困難者の受け入れ施設へ案内することにしている。避難場所へいったん誘導するのは、帰宅困難者の受け入れ施設の開設が発生後6時間をめどにしているためだ。すべての駅に非常食やアルミ製のブランケット、簡易トイレのほか、飲料水か、災害時は無料の自動販売機も用意している。

 駅に人を滞留させない理由について東急は「最も怖いのはパニック。渋谷駅にいる駅員は多いときでも40~50人ほど。数万人の人がパニックに陥れば、警備会社に応援を頼んでも対応しきれない」と説明する。

 ◇線路に人なら運行再開にさらに時間

 震災時に鉄道会社は、復旧に向けた作業も行わなければならない。震度5強以上の揺れがあると全線での点検が必要となり、復旧までに数時間かかる。運用指令所には他社とのホットラインもあり、不通になった場合は連絡要員を派遣して情報を共有している。2月7日に行われた訓練では、一時待機する避難者への情報提供も行われた。

 東急は「大地震が発生したら、すぐに列車の運行を再開できないので、ホームや改札にとどまっても利用できない。線路に人が下りれば安全確認をしなければならず、復旧にさらなる時間がかかる」と言う。その上で、「駅で地震に遭遇したら駅員の指示に従って安全を確保してほしい」と改めて呼びかけている。


【震災6年 ふるさとの今(1) 福島県飯舘村】  思い出が詰まった村、でも帰らない 避難生活の末に下した人生の選択
J-CASTニュース 3/11(土) 9:00配信

 今年も3月11日がやってきた。東日本大震災では津波や原発事故で、多くの地域が大きなダメージを負い、姿が変わってしまった。

 震災後は生まれ育った地域を離れる人、地元に残る選択をした人に分かれた。J-CASTニュースでは6年目の春を迎えた東北各地で、被災した人々が今、ふるさととどう向き合っているかを取材した。

■「すぐに戻れる」と思って村を離れたが...

 緑豊かな自然に囲まれた、福島県飯舘村。田村裕亮さん(24)にとって、生まれ育ったふるさとだ。2017年3月31日午前0時、飯舘村の大半の地域では避難指示が解除される。だが、田村さんは村に帰らない。

 現在、郡山市内の会社に勤める田村さんは震災当時、高校2年生だった。自宅からバスと自転車を乗り継いで、南相馬市にある県立原町高校に通学していた。授業中に地震が発生し、生徒は校庭に避難。友人の親の車で自宅に送り届けてもらった頃は、既に周りが暗くなっていた。そして3月12日、東京電力福島第一原発の事故が起きる。田村さんの両親は郡山市に住む親類に電話して、家族全員の一時避難を願い出た。翌13日には自主的に村を離れたが、当時は避難が長期化するとは考えもしなかった。

  「ほとんど何も持たずに家を出ました。『すぐに戻れる』と思っていたのです」

 だが、原発事故は深刻さを増していく。親類の家に1週間身を寄せた後、田村さん自身は当時郡山市内に住んでいた兄のもとに移った。その後、両親が福島市内にアパートを借り、田村さんは祖母と同居することになる。原発事故後しばらくの間は村に立ち入れたので、両親は実家に戻っていたが、2011年4月22日に政府が「計画的避難区域」として飯舘村全域を設定すると、田村さんらと合流して福島市のアパートで一緒に住むことになった。

 震災がなければ、母校で4月から高校3年生に進級するはずだったが、福島市に避難したことで「転学」を余儀なくされた。だが田村さんと同じ境遇の高校生が多く、手続きや準備に時間を要し、ようやく通学を始めたのは5月に入ってからだった。このころはまだ、「高校卒業するまでにはすべて解決して、また飯舘に帰れるかな」と希望を持っていたという。

飯舘の景色は変わり過ぎていた
 飯舘村は2012年7月17日、多くの地域が「居住制限区域」に指定された。村内では「避難指示解除準備区域」と「帰宅困難区域」に区分された場所もあったが、田村さんの実家がある地域は居住制限区域に含まれ、住民は、原則宿泊を伴わない一時的な帰宅が認められた。2012年4月に大学へ進学した田村さんは、墓参のため在学中に何度か両親と村を訪れた。当初は「懐かしい。早く行きたい」と胸を躍らせたが、変貌していくふるさとの様子に心を痛めた。

  「寂しかった。人の気配がなく、景色が変わり過ぎていました」

 自宅周辺に広がる水田には多くのクレーン車が入り込み、除染のため削り取られた表土を詰めた黒い「フレコンバッグ」が山と積まれた、異様な光景。緑が広がっていたかつての姿はなく、至る所で土が掘り返されていた。「ここは、もう人が住むことができないんだな」と感じた。さらに自分も「飯舘に定住することはないな」との考えが、頭をよぎった。

 家族全員、福島市や郡山市での暮らしが長くなるにつれて、生活の基盤が村から離れてしまった。震災前は近所同士の交流が頻繁だったが、隣人たちも田村家同様に県内外へ避難したため、次第に音信が途絶えていった。

 大学卒業直前となる2016年初め、両親から「福島市内に土地を買って、家を建てる」と聞かされた。飯舘出身の両親が下した「村を離れる」という決断は重い。この時、田村さん自身も「飯舘村には戻らない」との気持ちが明確になったという。田村さんにとって何より大切なのは、家族の存在だ。たとえ17年間暮らしたふるさとでも、戻るのが自分ひとりだけでは、家族がそろっていなければ、意味がない――。

  「大きな決断でした。でも、家族全員で話し合って決めたこと。福島市に移り住もうという話になった時に、みんな同意しました。場所がどこであれ、家族が元気で、そこに戻ることができるのが僕にとっては一番なんです」

「村への愛着は今もあります」
 2016年春に郡山市内の会社に就職した田村さんは、社会人として忙しい毎日だ。2017年3月31日には、田村さんが住んでいた地域の避難指示が解除される。だが、田村さんの「村に帰らず、郡山での生活を続けていく」という気持ちは揺るがない。

 田村さんは、飯舘出身の若者として決して例外ではない。復興庁が2017年3月7日に発表した「原子力被災自治体における住民意向調査」を見ると、飯舘村住民の「帰還の意向」は、29歳以下の場合「戻らないと決めている」が50.0%に達し、「戻りたい」の10.0%を圧倒した。

 では、今の飯舘村は田村さんにとってどんな存在か。ふるさとに対する気持ちは変わってしまったのか。しばらく「うーん」と考え込んだ後、こう答えた。

  「僕にとって、飯舘が生まれ育った場所である事実は変わりません。思い出は多く、村への愛着は今もあります。しかし現実と未来を考え、郡山での暮らしを選択しました。将来、自分が飯舘の復興のために何かできるなら、もちろん力を尽くしたい」

 最後に田村さんは、飯舘で暮らしていたころの写真を見せてくれた。震災前の2009年、「何の気なしに」撮ったというスナップ写真だ。自宅から少し離れた場所の景色、高校時代の通学路――。懐かしいあの日のふるさとが少しの間、よみがえった。(この連載は随時掲載します)


あの日逝った大切なペット、ひとへ「今どこにいますか?」 思いを綴る手紙
BuzzFeed Japan 3/11(土) 8:45配信

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被災者の手紙

東日本大震災の遺族が綴る、あまりにも繊細で優しい言葉。その思いの深さに触れる。【石戸諭 / BuzzFeed】

東日本大震災から6年を迎えるのを前に、被災者が亡き人へ、ペットへの思いを綴った手紙がある。

東北学院大(仙台市)教授の金菱清さん=社会学=が集めたものだ。

読むなかで「被災者の声を『聞いたつもり』」になっていたことを痛感したという。そこには何が書かれていたのか?

金菱さんの専門は、当事者に聞き取りをするフィールドワークだ。

震災以後、被災者が死者や喪失とどう向き合っているのか、を大きなテーマに研究活動を続けている。

時間の経過とともに、あの震災で失った大切なものについて語る被災者が少しずつ増えてきた。

そう感じた金菱さんは、インタビュー調査だけではわからない思いに触れようと、手紙を書いてもらうことを思いつく。

「ほとんどのインタビューでは、こちらは聞きたいことを聞く、相手は話したいことを話すというところで終わってしまう」
「それだけで、私たちは被災した人の気持ちを知ったような気になっていないだろうか、と思ったんです」

これまでの調査で知り合った人、紹介してもらった人たちから31編を集め、『悲愛 あの日のあなたへ手紙をつづる』(新曜社)にまとめた。

ある人は亡くした夫に、ある人はまだ小学生だった娘に、ある人は一緒に生活していたペットに、大切な思いを綴る。土地への思いを綴った人もいた。

喪失への思いは、人それぞれ違う。だからあえて「人」への手紙だけに限定しなかった。

衝撃をうけた一節
31編のなかで、金菱さんが大きな衝撃を受けた一節がある。

宮城県多賀城市に住む、2歳年上の夫(当時50歳)を亡くした女性が綴ったものだ。
女性は、朝が一番つらい時間だ、と書き始める。

「『おはよう、パパ』。声には出さずに天井を見る。朝、アラームが鳴る前に目をさますようになったのは、最愛の夫であるあなたを失ってから」

「私は、一気に歳をとってしまったような気がするよ。ゆっくりスマホに手をのばしながらあなたを思うと、少しだけ、涙で目がうるむ」

「目がさめて、となりにあなたがいない現実を思い知る、朝が一番つらい時間」

女性は「復興」への違和感も綴った。

「物は再生できるけど死んだ人間は帰ってこない。だから、そんなの要らない」
「そんな気持ちがずっとあった。震災を乗りこえた人々の笑顔から目をそむけたくなる自分は、きっとまともじゃない、駄目な人間だと苦しむこともあった」

金菱さんは語る。

「長年当事者の聴き取りを中心にやってきましたが、どうやってインタビューしたらこんな言葉が聞けるんだろう、と考え込みました」

「些細な日常にほんとうにつらい瞬間がある。あまりに繊細で、第三者にはわからないだろう、と最初から語らずに蓋をしてしまうと思うんです」

繊細な心のうごきは、ペットへの手紙にもあらわれている。
石巻市に住む女性は、ネコのルルらペットへの思いを綴った。要約する。

ーーーーーーーーー
2011年3月11日、石巻市の高台に避難した女性は、ネコが留守番している自宅を見つめていた。

津波が押しよせる様子を目の当たりにしながら、せめて自宅までは届かないでほしい、と願った。

しかし、それは叶わない。

(津波で)家がゆっくりと傾いていくのがぼんやりと見えたけど、降りしきる雪と涙であとは何も……。ごめんね。助けに行けなかった。本当にごめんね。どんなに怖かったでしょうね……

その後、彼らを探しても見つからない。

避難先でふと夜空を見上げると、そこにはあまりに美しい満天の星空が広がり、見とれた。ルルたちはあの星の仲間になったんだ、と思うことにした。
でも、引っ越した仙台の夜は明るくて、あの日と同じような星空を見ることができない。

同じ星空をみたら、そのときこそ「サヨナラ」を言おうと思っている。
ーーーーーーーーーーーーーー

それぞれの喪失経験を「人」だから「ペット」だからとわけて、比較することはできない。

「ある被災者から教えてもらったんです。『災害とは、その人が生きてきた中で最大限の不幸を経験していること』だと」

「だから、ペットへの手紙も同じように入れました」

金菱さんは手紙を集める中で、とても興味深い言葉とであう。

「書いた本人ですら自分がこんなことを書くとは思っていなかったという話を聞きました。『自分がこんなことを思っていたのか』と書きながら、再発見しているんですね」

再発見をうれしそうに語る遺族もいたが、再発見したために筆が止まってしまった遺族もいた。

当時6歳の娘を亡くした母親は、ひらがなで書くか、漢字を交えるか、その時点で詰まった。

メディアにも多く登場し、外に向けて語ることに長けた人だった。娘は6年が経過すれば、12歳になっているはずだ。

きっとこんな風に成長しているという娘の姿を思い浮かべることもできるし、周囲の同級生も成長している。

しかし、はっきりと記憶に残っているのは、6歳だった2011年当時の姿である。
あの日から止まった時間、そして流れる時間。

この母親は2つの時間を生きていて、年月の経過とともにギャップも感じていることに気づく。

例えば誕生日プレゼントはなにをあげたらいいのか。娘が今何を望んでいるのか。
はたと考え込んでしまうのだ。

インタビューに慣れていても、書けない。ここにもインタビューで出てこない言葉がある。

なぜ手紙は心を揺さぶるのか?
なぜ手紙にしかあらわれてこない言葉があるのだろうか。
「手紙に書かれた言葉に込められている感情が、ひとつではないからでしょう」
そう語るのは、批評家の若松英輔さんだ。

愛おしい誰かを亡くしたと想像してみよう。ひとがまず直面する感情は悲しみだ。

大きすぎる悲しみを感じたひとは涙すら枯れ、途方にくれることだってある。
亡くなった人に「なんで先に逝くんだ」と怒りにも似た感情を抱くこともあるだろう。

若松さんは、涙が枯れてしまうのは、そのひとが薄情だからではない。怒るのは憎いからではないという。

逆だ。人は深い悲しみの先に、同じくらい深い愛情があることに気がつくからだ。

「大切な誰かを亡くすのは、もちろん悲しい経験です。でも、悲しみを感じるとき、その人が、そばにいてくれるような感覚になるときがありますね」

「それを僕は『死者』と呼びます。死者と過ごす時間はとても大切なのに、それが語られてないと思うのです」

亡くなった大切な人を思い出す。そこで、悲しみを忘れる必要も、乗り越える必要もない。

「かなし、という言葉に『愛し』『美し』と漢字をあてることもあるんです」
「つまり、悲しみという感情の裏には、愛しい、美しいとしか思えない何かがあるということだと僕は考えています」

悲しみはその人にしかわからない固有の感情だ。
喪ってみて、はじめて自分がどれだけ大切に思い、どれだけ悲しいのかがわかる。その思いは個々人でまったく違う。

同じ悲しみは一つとしてなく、他人には理解できない。

31編の手紙には、書いた人それぞれが、深い悲しみにむきあった言葉があふれている。

若松さんは続ける。

「逆説的ですけどね、ほんとうに人の心の奥に届く言葉って『言葉で書けない』という個人の思いが詰まった言葉なんです」

「書けない方がいるのも当然のことです。それは書きたいという強い感情の裏返しなんですよ」

「(収録された)手紙を読んだときも感じました。きっと書いた方々は、書き終わって書けない『思い』を見つけたと思う」

「深い悲しみが、僕自身の悲しみ、読んだ人の悲しみと心の奥底で共振しあう。そんな感覚がある」

書くことで、あるいは書こうとすることで、ひとは「書けない思い」を発見する。
当事者であっても気づけない思いがある理由、それがわかった気がする。

若松さんは、手紙とは余白を読むものだと教えてくれた。

文字として書けるものがすべてであると、決して思ってはいけない。余白にこそ、ほんとうに伝えたい深い悲しみであり、情愛が詰まっているのだ、と。


日本食品、禁輸続く=近隣国で警戒-新市場開拓で光も・原発事故6年〔深層探訪〕
時事通信 3/11(土) 8:29配信

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焼却処分のため海から引き揚げられたホヤ=2016年8月、宮城県女川町の竹浦漁港

 東京電力福島第1原発事故から6年。日本の農水産品には依然、外国から厳しい目が向けられる。特に中国など近隣国・地域の警戒は根強く、禁輸が継続。生産者は苦境を脱していない。そんな中、新市場の開拓による輸出増など、希望の光も差している。

 ◇ホヤを廃棄
 「どうせ売れないだろうと買いたたかれる」。宮城県石巻市・鮫浦湾でホヤを養殖する渥美政雄さん(39)は嘆く。国内生産の7割が韓国向けのホヤは、東日本大震災前は宮城県が日本最大の産地だった。ところが韓国は2013年に8県の水産物の輸入を停止。宮城県は昨年、行き場を失ったホヤを廃棄するため、7600トンを海から引き揚げた。ナマコ漁など新たな収入源も模索する渥美さんだが、「韓国の規制解除を皆心待ちにしている」と打ち明ける。

 農林水産省によると、震災直後には54カ国・地域が日本の農水産品の輸入を制限。今は33カ国・地域に減り、大半が産地証明があれば輸入可能とするなど規制を緩めた。衛生基準に厳しい欧州連合(EU)も昨年、大幅緩和に踏み切った。しかし、中国、台湾、香港、マカオ、韓国、シンガポール、ロシアは、それぞれが決めた野菜や魚など、特定地域からの食品に対し門を閉ざしたまま。

 ◇「政争の具」に
 近隣国・地域が禁輸を続けるのは、日本の求めに安易に応じると「弱腰」と批判されることも一因。台湾の蔡政権は昨年11月、4県からの禁輸解除を検討すると表明したが、与党時は解除に前向きだった野党・国民党が猛反発。日本食品が「政争の具」(日台関係者)にされている。

 「食の安全」への過剰な意識も逆風だ。粉ミルクによる幼児死亡事故などが相次いだ中国では品質重視の中間所得者層の拡大もあり、社会全体で警戒感が強まっている。日本産品の安全が確認されている今でも「放射性物質への不安は根強い」(日中関係筋)という。台湾では14年に、廃油を使った食用油流通が発覚し、社会問題化した。

 ◇東南アジアに熱視線
 厳しい環境下、日本側は、政治的障害の少ない東南アジアに注目し、輸出先の開拓に乗り出す動きも見られる。

 福島県の内堀雅雄知事は昨年5月にタイを訪れ、県特産の桃をPR。日本とタイの流通・販売業者の協力で、空輸から最新冷凍コンテナ技術を駆使した海上輸送に切り替え、現地価格を従来の2玉1200バーツ(約3900円)から400バーツへと引き下げた。「購入は富裕層に限られていたが、贈呈品用など需要が増えた」(伊勢丹バンコク店)という。

 昨年の県産桃のタイ向け輸出は20トンと前年の約15倍に増え、震災直前のトップだった中国向け9.9トンをあっさりと抜いた。マレーシアなど他の東南アジア向けも拡大しており、「活路」が見いだされつつある。


「悲劇繰り返さない」=亡き父は大川小教員―児童遺族と語り部・東日本大震災
時事通信 3/11(土) 8:16配信

 「父はここで教えていました」。

 今年2月12日、東日本大震災の津波に襲われた宮城県石巻市立大川小学校で同校の教員だった父親=当時(55)=を亡くした宮城教育大3年の佐々木奏太さん(21)は県内外からの見学者に語り掛けた。犠牲者でありながら責任も問われる「教員遺族」の立場に向き合い、児童の遺族と共に教訓を伝え始めた。

 2011年3月11日、大川小では児童74人と父を含む教職員10人が犠牲になった。高台の中学校で被害を免れた佐々木さんは、「対応に追われているんだろう」と父の無事を疑わなかった。海で発見された遺体が父と判明したのは、1年4カ月後。「当時は震災で家族を亡くした遺族の1人という意識が強かった」と振り返る。

 しかし、児童の遺族が学校側を相手に訴訟を起こした14年3月以降、むしろ責任を負う側にいることを意識するようになった。「学校で子どもの命を守るのは先生で、大川小ではそれができなかった」。学校を訪れるたびに原告の遺族を見かけるが、話しかけられない。「自分も相手も傷ついてしまうかもしれない」と不安だった。

 仙台地裁判決を1カ月後に控えた16年9月。同小6年だった三男を失った石巻市の佐藤和隆さん(50)を、思い切って訪ねた。「お父さんが守らなきゃいけなかったんだよ」。厳しい言葉だったが、本音をぶつけてくれてうれしかった。学校の過失を認めた判決は、冷静に受け止められた。

 佐々木さんは16年末から、他の児童遺族らと共に、語り部活動を始めた。今年2月、東京や奈良から訪れた教員志望の大学生14人を案内。「子どもを救えず、先生はどんなに無念だったか、悔しかったか」。児童遺族の言葉に大きくうなずいた。「悲劇を繰り返したくない」の思いは同じだ。

 学習支援のボランティアや防災関係のイベントでの講演などもしている。卒業後は地元の同県南三陸町の復興に携わりたいという。佐々木さんは「これからの命のために、若い世代に震災を伝承するつなぎ役になりたい」と力を込めた。


続く被災地訪問の旅=嶋「心の傷和らげる」―プロ野球楽天・東日本大震災6年
時事通信 3/11(土) 8:16配信

 東日本大震災が発生した2011年から、プロ野球楽天の嶋基宏捕手は「野球の底力」を唱え、被災地訪問を続けてきた。

 多くの被災者と交流する中で、その表情は「当時に比べると穏やかになりつつある」と変化も感じている。

 宮城県東松島市など震災直後に訪れた場所は「どこも印象に残っている」という。被害の大きさに胸を痛めながら、避難所を慰問した。「皆さん大変なのに笑顔で。こちらが元気と勇気をもらった」。大きな被害を受けても、たくましく生きる姿は今でも鮮明に思い出すことができるという。

 被災地を訪問するようになり、野球に取り組む意識が変わった。思うような結果が残せないときは「自分より大変な方がたくさんいるんだ」と自らに言い聞かせた。困難な暮らしを強いられている被災者のことを思い浮かべると、甘えはなくなる。常に前向きな姿勢を貫けるようになった。

 復興に向け、なお長い闘いが続くが、一方で被災地以外では風化が進んでいくことには心が痛むこともある。チーム内でも当時を知らない選手が大半を占めるようになった。「風化を止めるには、被災地を本拠地にする僕たちが頑張るしかない。若手の選手にも震災を伝えていくのがこれからの仕事」と決意を新たにしている。

 建物などに比べ、被災者の心の復興には長い時間がかかると思っているから、今後もこうした活動を続けていく。「僕は野球選手。全力プレーで勝つことをお見せし、心の傷を少しでも和らげたい」。13年以来となるチームの日本一奪還を目指し、今年も野球の力で東北を勇気づける。


東日本大震災6年 今、子供たちは 支え合い成長した魂
産経新聞 3/11(土) 7:55配信

 ■大槌町の中学生に高い防災意識

 11日で東日本大震災から6年。子供たちの心の傷が完全に癒えることはないが、震災前の「日常」を少しずつ取り戻しながら、震災を教訓に防災意識を高めている。岩手県大槌町立の小中一貫校「吉里吉里(きりきり)学園」では、約20年前に始めた町特産のワカメ漁の体験授業が東日本大震災で養殖場が荒れるなどして中断したままだったが、漁師側も協力できるまでに生活を持ち直し、保護者らの支援を得て先月ようやく再開にこぎ着けた。

 岩手県沿岸南部に位置する大槌町の吉里吉里漁港。2月下旬の早朝、4隻のワカメ漁船が沖に向かった。

 「気ぃつけんだぞー」

 同学園中学部の柳田正人校長(58)が見送ると船上の生徒たちが手を振った。6年ぶりの出港だ。

 約1時間後、収穫したワカメを積んで漁船が次々と戻ってきた。陸揚げされたワカメをかじって満足げな表情を見せる生徒もいた。

 岡谷胡桃(くるみ)さん(14)は「将来は看護師になるのが夢。患者さんに『吉里吉里のワカメはおいしい』と宣伝したい」と胸を張る。

 「ワカメ漁体験の復活は町の復興にとって象徴的」。自身も両親が津波で行方不明のままの柳田さんは目を細めた。

 ◆地元と連携

 同校に柳田さんが赴任したのは平成25年4月。着任当初から生徒のあいさつの声が小さいなど、「元気がない」と感じていた。

 家族や自宅を失って、心の整理がついていない生徒は多い。男子生徒の一人は「つらい思いをしたクラスメートの前で、以前のように振る舞えるようになるには時間がかかった」。

 「学校だけでも『日常』を提供することが大事」。柳田さんは大きな声であいさつするよう声をかけ続け、ワカメ漁体験の復活にも奔走。地元と連携し演舞や神楽などの伝統芸能にも挑戦させた。徐々に生徒たちの表情は変わっていった。

 ◆郷土愛育む

 防災教育にも力を入れる。震災の後遺症でサイレンを怖がる生徒がいれば「あれは命を守る音」と粘り強く“呪縛”を解く。

 「『怖い』ばかり言ってられない。災害時に自分より小さい子が恐怖で固まっていたら、どう動くのか」

 避難訓練では教員に細かい指導をしないよう指示。できるだけ生徒たちに判断を任せるようにした。「小学校の低学年だった6年前とは立場が違うから」

 同校8年(中2に相当)の東谷哉汰(かなた)さん(14)は「震災後は防災意識が高まっているし、地域との関わりが増え、地域のことを知ることができた。この6年で成長した」と話す。

 町の調査によると、心のサポートが必要な小・中学生は28年度で約13%。また、仮設住宅で生活しているのは4人に1人に近い約24%だ。まだまだ生活が日常に戻ったとはいえない。

 だが、柳田さんは復興に向け、郷土愛と防災力を兼ね備えた“吉里吉里人”が育っていると確信する。

 「『町は壊れても心は壊れない』という言葉があるが、支え合えば頑張れることを6年前よりも今の中学生の方が分かっている」(福田涼太郎)


希望のランドセル 3・11生まれ星山琉菜ちゃん春から小学生
スポニチアネックス 3/11(土) 7:01配信

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自分で選んだお気に入りのランドセルを背負う星山琉菜ちゃんと母・真弓さん

 死者・行方不明者が1万8000人を超えた東日本大震災は11日、発生から6年を迎えた。12万人以上が避難生活を送るなど、今もなお多くの被災者が生活に不安を募らせたまま。一方で、甚大な被害が出たあの日、混乱した病院で生まれた子供は4月に小学1年生になる。東京電力福島第1原発事故の影響で、誕生した翌日から避難を余儀なくされた女の子は入学を心待ちにしている。

 福島県南相馬市の星山琉菜(るな)ちゃんは11日に6歳の誕生日を迎えた。自宅では自分で選んだピンク色の真新しいランドセルがピカピカに光っている。小学生になったら「いっぱい勉強したい!足し算を頑張る」と声を弾ませた。

 6年前の3月11日、母真弓さん(36)は東京電力福島第1原発から約4キロの福島県双葉町の病院の手術台にいた。帝王切開手術のため麻酔を受ける直前に激しい揺れが襲った。落下物からおなかを守るため、医師らが覆いかぶさってくれた。余震が続く中、約4時間後の午後6時49分、元気な産声が室内に響き渡った。

 翌朝、第1原発の状況悪化の一報を受け、夫晃一さん(39)と3人で行き先も分からずバスで避難。まだ授乳はままならずミルクも持ち出せなかったため、琉菜ちゃんはおなかをすかせて泣き続けた。たどりついた福島市の病院で、目に入ったのは原発事故の映像。かつて第1原発で働いていた夫婦は目を疑った。

 琉菜ちゃんの名前の由来はラテン語の「ルナ(月)」から。避難先の病院の窓から見上げた月を見て「暗くなった世の中を月明かりのように優しく照らす一筋の光に」との願いを込めた。

 母子は退院後、郡山市、いわき市と避難先を転々。仕事の都合で南相馬市から離れられなかった晃一さんと一緒に暮らせるようになったのは、2年半後だった。「この暗い状況が晴れるといいな」という思いから「晴(せい)」と名付けた長男は3歳になった。

 真弓さんの実家がある富岡町は4月から大部分の避難指示が解除される。だが、第1原発から5キロの実家は放射線量が高い帰還困難区域内。一度も子供たちを故郷に連れて行ったことはない。真弓さんの胸中は複雑だ。

 「除染が進んで子供が入ってもいい区域があるのであれば連れて行ってあげたいが、私が育ったところを見せてあげられない状況は続く」。もう少し大きくなったら、震災や原発事故の悲惨さをありのまま伝えるつもりだ。

 琉菜ちゃんは、生まれた日に「おうちが壊れるぐらい大きな地震があった」ことは幼稚園などで教わり、知っている。「琉菜ちゃんのことをみんなが守ってくれたんだよ」。いつも真弓さんが伝えている言葉には感謝の心を忘れず育ってほしいという思いがこもっている。


復興の歩みと共に迎えた6歳誕生日…地震発生から1時間18分後に産声の大町云櫻君
スポーツ報知 3/11(土) 6:04配信

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自宅近くの公園で遊ぶ大町云櫻君。ランドセルを背負ってうれしそうだ(カメラ・甲斐 毅彦)

 今春、仙台市の幼稚園を卒園する大町云櫻(いっさ)君は、東日本大震災が発生した2011年3月11日生まれで、きょう6歳の誕生日を迎えた。買ってもらったピカピカのランドセルを背負いながら、4月からの小学校入学を楽しみにしている毎日だ。母・左嘉絵(さかえ)さん(40)にとって激震の恐怖の中で出産した日からここまで育てた6年間は、激闘の日々だった。云櫻君は東北の復興への歩みとともに、ここまで大きく成長した。(甲斐 毅彦)

 云櫻君が生まれたのは、マグニチュード9・0の大地震があった1時間18分後の午後4時4分。あの日から6年、復興していく杜(もり)の都で伸び伸びと育った。

 知らない人とでもすれ違えば「こんにちは!」とあいさつするほど人なつっこい。アトラクションでアンパンマンが登場すると「中身はバイトの人!」と突っ込んでしまう屈託のなさに、時折お母さんは冷や汗をかくが、幼稚園の先生が連絡帳に書き込んだ「いっさくんのまわりにはいつも笑顔があふれています」との言葉に胸をなで下ろす。駆けっこはちょっと苦手だが、クラス対抗リレーでは俊足の園児たちが「いっさと走りたい」と声を上げ、前後をカバーした。

 奔放でありながらも愛される性格は、被災した仙台で皆から守られる中で育まれたものだ。6年前の3月11日。左嘉絵さんの出産予定日は11日後だったが、早朝に破水したために夫の付き添いで仙台市青葉区の産婦人科医院へ向かった。揺れを感じたのは、病室に横たわり、無痛分娩(ぶんべん)の麻酔薬を投与され、薬が効き始めた時だった。小さな揺れはやがて激震に。付き添っていた夫と姉は、おなかに覆いかぶさるように守ってくれた。

 「このまま死ぬかもしれない」。電気が消え、病院の建物は壊れてもおかしくないほど揺れている。揺れが収まった頃、看護師に分娩室へ行くよう促された。パニック状態で「点滴チューブを引きちぎって逃げようかと思った」と振り返る左嘉絵さんは「産めません!」と叫んだ。意識がもうろうとする中で看護師から「しっかりしなさい。赤ちゃんが生まれようと頑張っているのよ」と檄が飛んだ。

 停電した分娩室に懐中電灯を照らしながら入るとメスなどの医療機器が散乱していた。医師と助産師からは胎児の心拍数をはかる機器のバッテリーが2時間しかもたないため「分娩を急ぐ」と告げられた。助産師の掛け声に合わせていきむ中で、携帯電話からの緊急速報警報音が鳴り響く。「外はどうなってしまっているんだろう」。全身に不安と恐怖が走る中で、赤ん坊は産声を上げた。結婚8年目で授かった第1子。左嘉絵さんが好きな小林一茶から命名した。

 産湯に入れることもできず、云櫻君は血だらけのまま緊急用アルミホイルにくるまれた。新生児を抱っこして触れ合い、話しかけることで、母子にとって最初のコミュニケーションとなる「カンガルーケア」もできる状態ではなかった。左嘉絵さんは涙を流しながら、初めて一櫻君に語りかけた言葉は「こんな時に産んでしまって申し訳ない」だった。

 物資不足はすぐに市内を襲った。病院で出された食事はおかゆと漬物と牛乳のみ。近隣住民は病院に「粉ミルクを分けてください」と駆け込んできたが、病院も対応はできなかった。「申し訳ないですが、これ以上は」と退院させられたのは3月15日。福島第1原発は前日に水素爆発した3号機に続いて4号機も爆発。怖くて見られなかったテレビをつけると、枝野幸男官房長官(当時)が緊急会見していた。病室で知り合った初めてのママ友とは「お互い生き抜きましょう」と言って別れた。

 夫と暮らしていた市内のアパートは損壊を免れたが、実家は半壊。左嘉絵さんは「常に揺れているかのような」地震ノイローゼに悩まされながら育児をした。そんな中でも家族は支えてくれた。紙おむつや粉ミルクを買うため、手分けをして3~4時間の行列に加わった。

 云櫻君の誕生日祝いは、幼稚園に入る頃まで日付をずらして行っていた。左嘉絵さんにとって11日は、名取市に住んでいた中学時代の友人(当時35歳)が津波で亡くなった日でもあった。左嘉絵さんのおなかが大きくなって来た頃に「生まれたらまた会おうね」と話したのが友人との最後の会話となった。「彼女も結婚して、子どもを欲しがっていたのに。その日に息子が生まれたというのが、複雑な気持ちでした」

 云櫻君は、自分が生まれた日に大震災が起きたということをようやく理解し始めている。地震が起きたときのことを聞いてみると、夢中になっていた「スーパーマリオ3」の手をいったん止めて「怖くなった!」と答えた。幼稚園での防災訓練も被災地という土地柄だけに真剣そのものだという。

 4月からはお父さんの仕事の都合で、6年間育った仙台を離れ、一家で関東地方へと引っ越さなくてはならない。云櫻君は「遊ぶ所がいっぱいある仙台が好き」とちょっとだけさみしがっている。

 左嘉絵さんは、復興の歩みとともに仙台で育った云櫻君が、新天地でも皆の笑顔の中心であってくれることを願っている。「生きたかった多くの方が亡くなった日に生まれたことには、意味があるんだ、と親としては思いたいです。元気であることが一番ですが、興味を持ったことには、とことん付き合ってあげたい。そして云櫻が『これだ』と決めたことに突き進んでほしいです」


午後に政府追悼式=東日本大震災から6年
時事通信 3/11(土) 4:06配信

 東日本大震災から6年を迎え、政府主催の追悼式が11日午後、国立劇場(東京都千代田区)で営まれる。

 秋篠宮ご夫妻、安倍晋三首相、遺族の代表ら約950人が参列。地震が発生した午後2時46分に合わせて黙とうをささげる。

 政府追悼式は今年で6回目。首相の式辞、秋篠宮さまのお言葉に続き、被害の大きかった岩手、宮城、福島3県の遺族代表がそれぞれの思いを語る。会場では、追悼式終了後の午後4時半から同6時まで、一般参列者の献花を受け付ける。


かさ上げ長期化、住宅再建あきらめる事態深刻に
読売新聞 3/11(土) 0:06配信

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土砂の確保や運搬などで工事が長引くかさ上げ(2月、岩手県陸前高田市で)=稲垣政則撮影

 東日本大震災の津波で浸水した旧市街地では、宅地などをかさ上げして再建する土地区画整理事業が長期化し、待ちきれない住民が住宅再建をあきらめる事態が深刻化している。

 岩手、宮城、福島3県の8市町村が地権者の意向を聞いた調査では、完成後の土地の利用の見通しがないとの回答が約3割に上った。再建される街は将来、大幅に縮小する恐れが出ている。

 土地区画整理は宅地や商業地、道路などを地区ごとに作り直す事業で、3県の16市町村が計43地区の約1300ヘクタールで現地再建を図る。総事業費は約4700億円で、ほぼ全額を国が負担する。しかし、国土交通省などによると、すべてが完了したのは7地区の約50ヘクタールにとどまる。


常磐線の浪江~小高間は4月1日再開…竜田~富江間は10月頃に
レスポンス 3/10(金) 23:00配信

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竜田~小高間の今後の再開見通し。福島第一原発に最も近い区間を除き10月頃までに再開する見通しとなった。

2011年3月の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故の影響で運休中の常磐線竜田(福島県楢葉町)~小高(南相馬市)間36.6kmについて、国土交通省は3月10日、今後の再開の見通しを発表した。一部の区間は再開時期が前倒しされる。

発表によると、浪江(浪江町)~小高間8.9kmは、3月31日に浪江町の避難指示が一部を除いて解除されることから、翌4月1日に運転が再開される予定。竜田~富岡(富岡町)間6.9kmは、これまで「2017年内の開通を目指す」としてきたが、復旧工事が順調に進んでいるとして10月頃に再開の予定となった。

福島第一原発に最も近い場所を通る富岡~浪江間20.8kmは、従来通り2019年度末までの開通を目指すとしている。

《レスポンス 草町義和》


<大震災6年>仮設住宅で死亡 31市町村で計1436人
毎日新聞 3/10(金) 20:39配信

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故後、プレハブ仮設住宅に入居している被災者がこの6年間で少なくとも1400人以上死亡していたことが、毎日新聞の調べで分かった。仮設住宅の解消は、国が復興事業をおおむね終了する2020年度までずれ込む見通しで、仮住まいのまま命を失う被災者を増やさないための取り組みが求められる。

 仮設住宅は11年3月の震災発生直後から3県で約5万3000戸が建設され、ピーク時に11万6615人が入居した。

 毎日新聞は今年1~2月、震災で大きな被害が出た3県の沿岸部42市町村を対象にアンケートし、仮設住宅住民の死者数を尋ねた。その結果、31市町村で計1436人に上った。県別では、岩手312人▽宮城444人▽福島680人。岩手県大槌町と宮古市、宮城県気仙沼市、東松島市、福島県川俣町、川内村の6市町村は「未集計」だった。

 死因や死亡場所の詳細は不明だが、病院で亡くなった人以外に、仮設住宅の中で息を引き取ったり、孤独死したりしたケースも含まれている。警察庁によると、被災3県の仮設住宅で誰にもみとられずに亡くなった被災者は230人に上る。阪神大震災(1995年)では約4万8000戸の仮設住宅が建設され、5年後の00年1月に解消した。仮設住宅での孤独死は233人とされるが、入居中に死亡した被災者数は分かっていない。

 一方、仮設住宅の解消見込み時期を聞いたところ、年月を示して回答した中で最も遅いのは岩手県大船渡市の「20年度中」。続いて同県山田町と大槌町が20年3月、宮城県女川町が同1月とした。いずれも宅地造成や復興住宅整備の遅れを理由に挙げた。岩手県陸前高田市と、原発事故の影響が続く福島県の浪江町、大熊町、飯舘村、川俣町、双葉町の6市町村が「見通せない」「未定」とした。

 仮設住宅入居者の生活再建支援に取り組んでいる一般社団法人パーソナルサポートセンター(仙台市)の菅野拓理事は「復興住宅の建設や宅地造成を加速させるとともに、次の住まいに移れない原因を入居者ごとに把握して生活保護などの支援制度につなげる必要がある」と指摘している。【川口裕之】


<大震災6年>復興住宅火災 70代男性か 1人死亡 岩手
毎日新聞 3/10(金) 20:33配信

 10日午後2時15分ごろ、岩手県山田町大沢の県営の災害公営住宅(復興住宅)「大沢アパート」で、4階の一室から出火した。火は約30分後に消し止められたが、室内の一部が焼け、台所付近で1人の遺体が見つかった。県警宮古署は、この部屋で1人暮らしする70代の男性とみて、出火原因とともに調べている。【小鍜冶孝志】


<大震災6年>12万3168人 全国に避難 更に長期化も
毎日新聞 3/10(金) 20:29配信

 2万1000人以上が犠牲になった東日本大震災は、11日で発生から6年を迎えた。岩手、宮城、福島の東北3県を中心に襲った津波や東京電力福島第1原発事故で、今も約12万3000人が全都道府県に散らばって避難し、被災3県の仮設住宅に約3万4000人が暮らす。災害公営住宅(復興住宅)の建設や宅地造成の遅れ、原発事故の影響などで避難生活は更に長期化する見通しだ。

 10日現在の警察庁のまとめでは、死者1万5893人、行方不明者2553人で戦後最悪の自然災害になった。避難中の体調悪化などが原因の震災関連死は2016年9月末現在、全国で3523人で前年比116人増加した。このうち福島は2086人で直接死を上回っている。

 復興庁がまとめる避難者数は、ピークだった12年6月の約34万7000人から3分の1に減ったが、17年2月現在12万3168人。福島県民の避難者数は7万9226人を占める。

 共同通信の集計(1月1日現在)によると、3県の復興住宅入居者数は3万9664人で、仮設住宅と逆転した。高齢化率は4割を超え、孤独死は少なくとも17市町村で22人に上る。

 国が福島の11市町村に出した避難指示は、帰還困難区域を除き、9市町村で解除・解除予定で、当初より面積で約3割に縮小するが、帰還するのは解除対象者の8%前後とみられる。大熊、双葉両町は全域避難が続いている。避難指示区域外から避難した「自主避難者」について福島県は3月末で住宅無償提供を打ち切る。【土江洋範】


<大震災6年>首相会見見送り 12日宮古で「お見舞い」
毎日新聞 3/10(金) 20:16配信

 安倍晋三首相は東日本大震災から6年の今年、震災の発生日に合わせて毎年行っていた記者会見を見送った。菅義偉官房長官は10日の記者会見で、首相が12日に被災地の岩手県宮古市を訪問し、「被災者へのお見舞いと復興に向けた取り組みについて発信する」と説明した。首相は震災から2年の2013年は3月11日、14~16年は同10日に記者会見を行ってきた。


<大震災6年>命救った防災無線 女川町の「3月11日」
毎日新聞 3/10(金) 20:13配信

 東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町。地震発生直後、町役場が放送した防災無線により多くの住民が高台に避難した。当時、防災係長だった阿部清人さん(50)にあの日の緊迫した状況を聞いた。【写真映像報道センター・丹治重人】

 防災無線を担当する女川町防災係。1960年発生のチリ地震後の津波を教訓に、地震発生時の訓練を積んでいた。6年前の3月11日、地震の揺れが収まった直後に行動を起こした。阿部さんは「まずは防災無線で住民に情報を呼びかける。絶対に津波が来ると念頭にありました」と振り返る。

 地震発生2分後、阿部さんの指示で女性職員が町内全域に防災無線の放送を開始。役場の窓から海の様子を見ていた阿部さんは、これまで見たことのない大きな津波がやってくるのを目撃する。「驚きというより緊張が走った。とんでもない津波を見て、それを早く伝えないといけないと思った」。とっさの判断で防災無線の原稿を書き直した。

 従来の原稿では、避難を呼びかける文章を読み終えるのに1分ほど必要だった。阿部さんはとっさに「住民に対して手短な文章で情報を伝えなければ」と考え、避難に必要な部分だけに修正。「指定されている避難所」という文章は「高台」に変更した。短くした防災無線を繰り返し放送した。

 その後、津波で役場の2階まで浸水。その間も3階の海が見えない場所にあった無線室では、女性職員が避難の呼び掛けを続けていた。阿部さんが無線室から職員を避難させた直後、津波が押し寄せた。マイクを握り、「逃げろ!」と一言だけ叫んだ。

 津波がひざまで押し寄せる中、阿部さんは無線室を飛び出して屋上へ。役場内にいた約100人の町民や職員も無事に避難した。

 町の人口約1万人のうち死者・行方不明者は827人。しかし、マニュアル通りでなく、状況に応じて柔軟に防災無線の文言を書き直したことで避難できた人もいただろう。阿部さんはそう思っている。

 震災から6年。「災害が来る可能性は今後もないということはない。まずは自分の身は自分で守る。どんなに年をとっても、自分自身で避難できるようにする。東日本大震災の教訓です」と語った。


浪江、富岡町の解除決定=福島原発事故の避難指示―政府
時事通信 3/10(金) 19:59配信

 政府の原子力災害対策本部(本部長・安倍晋三首相)は10日、東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町と富岡町に出ている避難指示の解除を正式に決定した。

 帰還困難区域を除き、浪江町は今月31日に、富岡町は4月1日に解除する。

 他に飯舘村と川俣町山木屋地区も今月31日の解除が既に決まっており、今春に4町村が解除されることになる。

 対象区域の住民登録者数は、浪江町が1万5294人(2月28日時点)、富岡町が9544人(3月1日時点)。浪江町は人口の8割が対象で、これまで解除された市町村で最多となる。


<大震災6年>SMAPファン後押し「ミシン工房」商品人気
毎日新聞 3/10(金) 19:28配信

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「東北エールマーケット MARCHE」で販売された「南三陸ミシン工房」のポーチ=東京都新宿区の住友不動産新宿ガーデンタワーで、篠崎真理子撮影

 東日本大震災からの復興を応援していたSMAPのファンの呼びかけをきっかけに、NPO法人「南三陸ミシン工房」(宮城県南三陸町)のオリジナルポーチや小銭入れが人気を集めている。

 自立復興の手助けにと、支援金で購入したミシンを仮設住宅の女性に配布した民間プロジェクトが同工房の原点。解散後もSMAPの思いを引き継ごうと考えたファンが着目し、ツイッターで発信した。

 製造担当者の似顔絵カードが付くのが特徴。縫製技術の指導を受け品質は折り紙付きといい、スタッフは「笑顔がすてきな彼女らの製品を通じ、震災をずっと伝えていきたい」と話す。【篠崎真理子】


安倍首相の3・11会見打ち切り=震災6年で「節目越えた」
時事通信 3/10(金) 19:17配信

 政府は10日、東日本大震災の発生翌年の2012年から3月11日の節目に合わせて開いてきた首相記者会見を打ち切ることを決めた。

 震災から6年となり、「一定の節目を越えた」(政府関係者)と判断した。安倍晋三首相は11日に政府主催追悼式で式辞を朗読するが、会見は行わない。

 民主党政権当時の12年の会見は野田佳彦氏が行い、13年以降は安倍氏が毎年実施。被災地復興への取り組みなどを説明してきた。質疑のない式辞では、国民に対する説明が不十分となることも予想されるが、菅義偉官房長官は会見で「(影響は)全くない」との認識を示した。


常磐線 来月1日に浪江~小高駅間が再開 10月には竜田~富岡駅間も
レスキューナウニュース 3/10(金) 19:10配信

JR東日本は10日、一部運転見合わせが続いている常磐線のうち、浪江(福島県浪江町)~小高(福島県南相馬市)駅間の運転を来月1日に再開すると発表しました。

常磐線は、2011年3月11日に発生した東日本大震災および東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で、竜田(福島県楢葉町)~小高駅間で現在も運転を見合わせ、竜田~原ノ町(福島県南相馬市)駅間でバス代行輸送を行っています。
再開日が決まった浪江~小高駅間は原発事故による避難指示解除準備区域が含まれていますが、この解除が3月31日に行われるため、その翌日から運転を再開するものです。

残る見合わせ区間についても、竜田~富岡(福島県富岡町)駅間を今年10月頃、富岡~浪江駅間を2019年度末までにそれぞれ再開するとの見通しを示しています。なお、竜田~富岡駅間についてはこれまで年内としていましたが、復旧工事が順調に進んでいることから、前倒しとなったものです。

■運転状況の推移と今後の予定
2011年 3月11日:東日本大震災が発生し、全線で運転見合わせ
2011年 5月まで:順次運転を再開し、見合わせ区間は久ノ浜~亘理駅間となる
2011年10月10日:久ノ浜~広野駅間の運転を再開
2011年12月21日:原ノ町~相馬駅間の運転を再開
2013年 3月16日:浜吉田~亘理駅間の運転を再開
2014年 6月 1日:広野~竜田駅間の運転を再開
2016年 7月12日:小高~原ノ町駅間の運転を再開
2016年12月10日:相馬~浜吉田駅間の運転を再開し、現在の見合わせ区間となる
2017年 2月 1日:浪江駅(浪江町役場前)での代行バス停車開始
2017年 2月16日:富岡駅(旧エネルギー館前)での代行バス停車開始
2017年 4月 1日:浪江~小高駅間の運転を再開し、富岡・浪江両駅の代行バス乗り場を駅前に移設(予定)
2017年10月  :竜田~富岡駅間の運転を再開(予定)
2019年度内  :富岡~浪江駅間の運転を再開し、全線再開となる(予定)


<泊原発>近くに海底活断層 耐震評価見直し要求 規制委
毎日新聞 3/10(金) 18:23配信

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(左から)1号機、2号機、3号機の原子炉建屋が並ぶ、泊原子力発電所=北海道泊村で、本社機「希望」から手塚耕一郎撮影

 原子力規制委員会は10日、北海道電力泊原発(北海道)の立地する積丹(しゃこたん)半島が過去の地震で隆起した可能性を否定できないとして、原発近くの海底に活断層があると認定し、耐震評価の見直しを同社に求めた。泊原発の審査がさらに長引く可能性がある。

 規制委が認定したのは、同半島西岸沖を南北に走る長さ約20キロの活断層で、原発から最短約10キロにある。これまで複数の研究者が、西岸の平らな海岸地形は地震で半島が急激に隆起した証拠だとして活断層の存在を指摘してきた。これに対し、同社は「ゆっくり隆起しながら浸食されたもの」と主張し地震との関連を否定。規制委も一度は同社の主張に同意した。

 しかし、規制委が昨年、この海岸地形を2回調べ直した結果、1793年の地震で隆起した青森県西津軽地方の海岸地形とよく似ていることが判明。海底には、活断層が動いたことを示す地形のたわみや隆起によるとみられる岩盤の露出など、地震活動に特徴的な地形がみつかった。規制委は「原発の安全性を考慮すると、活断層を仮定すべきだ」と同社に指摘した。

 泊原発は1~3号機のうち3号機が審査終盤を迎えていたが、津波や液状化で防潮堤や防波堤が壊れる恐れが発覚し、再稼働が大幅に遅れる見通しになっている。【酒造唯】

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