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2016年10月27日 (木)

三笠宮崇仁殿下ご薨去

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父にあたられる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)殿下が27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院でご薨去(こうきょ)された。100歳だった。

笠宮崇仁殿下は皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。

本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は現在、日取りなどの検討を行なっている。

謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。

リンク:ご遺体を乗せた車を見送る人たち - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ご遺体を乗せたとみられる車 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「心から哀悼の意」…安倍首相が謹話 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 宮内庁が午前10時半すぎに発表 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>皇位継承資格者、4人に減少 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 安倍首相が謹話「哀惜に堪えない」 官房長官、有識者会議は「公務の負担軽減に絞って議論」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 安倍晋三首相の謹話「一層の御長寿を願っておりました」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:フォークダンスを踊られる三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ご家族で記念撮影される三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:展覧会を鑑賞される三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:孫に囲まれる三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:散策される三笠宮ご夫妻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:退院される三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:手を振られる三笠宮ご夫妻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:葬儀に向かわれる三笠宮ご夫妻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:晩さん会でお礼を述べられる三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>安倍首相「悲しみの念に堪えません」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまとお兄さま方 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:講義される三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「悲しみの念に堪えぬ」=三笠宮さま逝去で首相謹話―与党幹部も哀悼 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま ご逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:生前退位容認の意見=皇室典範制定時に―三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去 戦後は古代オリエント史を研究 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:余暇活動の普及にも尽力=スケートフォークダンス発案―ゆかりの人、三笠宮さま悼む - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:オリエント史研究に情熱=戦争、皇室批判も―激動の一世紀歩む・三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:皇位継承者は4人に=三笠宮さま逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまがご逝去…100歳、昭和天皇の末弟 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>三笠宮さまご逝去100歳=天皇陛下の叔父 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去される 天皇陛下の叔父、100歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去=100歳、昭和天皇末弟―歴史学者として活躍 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

ご遺体を乗せた車を見送る人たち
時事通信 10/27(木) 12:03配信

829
三笠宮さまのご遺体を乗せたとみられる車を見送る人たち(写真の一部を画像処理しています)=27日午前11時5分、東京都中央区の聖路加国際病院

(時事通信社)


ご遺体を乗せたとみられる車
時事通信 10/27(木) 12:03配信

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聖路加国際病院を出る三笠宮さまのご遺体を乗せたとみられる車(写真の一部を画像処理しています)=27日午前11時4分、東京都中央区

(時事通信社)


「心から哀悼の意」…安倍首相が謹話
読売新聞 10/27(木) 11:59配信

 安倍首相は27日、三笠宮さまの逝去について、「国民と共に謹んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。

 謹話は、「国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました。国際親善やスポーツ、レクリエーション、芸術、文化、医療、福祉など幅広い分野にわたり、皇族として、重要な役割を果たされるなど、国民と親しく接せられました」と功績をたたえた。

 昨年、百寿(100歳)を迎えられたことにも触れ、「国民は、殿下の一層のご長寿を願っていましたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは誠に哀惜に堪えません」とした。


<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父
毎日新聞 10/27(木) 11:55配信

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3人のお孫さまに囲まれる三笠宮さま=長野県軽井沢町で2014年8月、宮内庁提供


三笠宮さま薨去 宮内庁が午前10時半すぎに発表
産経新聞 10/27(木) 11:33配信

 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。戦時中は陸軍の軍人、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍された。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は約1週間後に東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で執り行われるとみられる。薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。

 宮内庁は27日午前10時半すぎから、加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまの薨去を発表した。

 昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。

 昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、先の大戦中の昭和18年、お印の「若杉」から「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として南京に赴かれた。19年には大本営参謀となり、終戦時は陸軍少佐であられた。

 16年10月に高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚し、寛仁親王殿下、桂宮宜仁親王殿下、高円宮憲仁親王殿下、●(=ウかんむりの下に心、その下に用)子(やすこ)さん(近衛忠●(=火へんに軍)夫人)、容子(まさこ)さん(千宗室夫人)の3男2女をもうけたが、平成14年に高円宮さま、24年に寛仁さま、26年に桂宮さまを相次いで亡くされた。

 戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史学者の道を歩まれた。メソポタミア地方(イラク)の学術探検、トルコの古代遺跡視察のほか、友好親善や葬儀参列のため、北欧や東南アジアなども訪問し、戦後の皇室による国際親善に大きな足跡を残された。

 90歳を過ぎると体調を崩しがちになり、20年6月に急性心不全との診断を受けてご入院。21年と23年にも軽い心不全で入院された。寛仁さまが薨去された直後の24年7月には、心臓の僧帽(そうぼう)弁が十分に機能しないために血液が逆流する鬱血性心不全と診断されて96歳で手術を受けられた。

 手術後は公の場に出る機会が減ったが、27年12月2日に100歳となり、28年1月2日には、皇居で行われた新年一般参賀で元気な姿を見せられた。しかし、5月16日に急性肺炎で同病院に入院後、心機能の低下が確認され、ご入院は約5カ月に及んでいた。

 最近は容体が安定していたが、27日午前7時40分ごろに容体が急変して同8時ごろに心停止となり、百合子さまが付き添われる中で息を引き取られたという。


<三笠宮さまご逝去>皇位継承資格者、4人に減少
毎日新聞 10月27日(木)11時23分配信

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皇室の構成

 皇位継承順位5位だった三笠宮崇仁さまが亡くなったことに伴い、継承資格者は4人に減少した。今後の順位は(1)皇太子さま(2)秋篠宮さま(3)秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま(4)常陸宮さま--となる。天皇陛下と皇族からなる皇室も19人に減った。

 これに関連し、菅義偉官房長官は27日午前の記者会見で「皇室の減少に今後どのように対応するかは内閣官房皇室典範改正準備室でこれまでの議論を十分検証するなど、政府内で検討している」と説明した。天皇陛下の生前退位に関する安倍晋三首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で皇室減少を検討対象に加えることは「ない」と否定した。

 有識者会議は27日午後、第2回会合を開催する。【田中裕之】


三笠宮さま薨去 安倍首相が謹話「哀惜に堪えない」 官房長官、有識者会議は「公務の負担軽減に絞って議論」
産経新聞 10月27日(木)11時16分配信

 安倍晋三首相は27日午前、三笠宮崇仁親王殿下が薨去(こうきょ)されたことを受け、「国民は、殿下の一層の御長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去されましたことは、誠に哀惜に堪えません」との謹話を発表した。

 三笠宮さまの薨去により皇位継承資格者は4方となった。

 菅義偉官房長官は27日午前の記者会見で、首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で皇位の安定継承に関する議論を行うかを問われ、「天皇陛下の公務の負担軽減に絞って議論をいただく」と述べた。その上で「皇室の減少に今後どのように対応するかは、内閣官房皇室典範改正準備室でこれまでの議論の経緯を十分検証するなど、政府部内で検討を行っている」と説明した。


三笠宮さま薨去 安倍晋三首相の謹話「一層の御長寿を願っておりました」
産経新聞 10月27日(木)10時56分配信

 安倍晋三首相は27日、三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下の薨去を受け、総理大臣謹話を発表した。謹話全文は以下の通り。

     ◇

 三笠宮崇仁親王殿下の御訃報に接し、悲しみの念に堪えません。

 殿下には、大正天皇の御四男としてお生まれになり、昭和時代からの長きにわたり、御兄君昭和天皇及び今上陛下を助けられ、国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました。殊に国際親善やスポーツ、レクリエーション、芸術、文化、医療、福祉等幅広い分野にわたり、皇族として、重要な役割を果たされ、各種の記念式典や大会に御臨席の際には関係者を励まされるなど、国民と親しく接せられました。

 また、殿下は、古代オリエント史の研究者としても著名であられました。

 殿下は、お年を召されてからは、静かな日々をお健やかにお過ごしになり、昨年には、百寿をお迎えになりました。国民は、殿下の一層の御長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去されましたことは、誠に哀惜に堪えません。

 皇室を始め御近親の方々の深いお悲しみを拝察申し上げ、ここに、国民と共に慎んで心から哀悼の意を表します。


フォークダンスを踊られる三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時43分配信

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未来の東北博が協賛した「フォークダンス市民のつどい」に参加し、フォークダンスを踊られる三笠宮さま。左は同妃百合子さま=1987年7月、仙台市の同市体育館(日本フォークダンス連盟提供)

(時事通信社)


ご家族で記念撮影される三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時43分配信

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大正天皇の皇后、貞明皇后が秩父宮邸(当時)を訪問し、ご家族で記念撮影。前列左から秩父宮妃勢津子さま、貞明皇后、高松宮妃喜久子さま、後列左から秩父宮さま、高松宮さま、三笠宮さま=1939年10月撮影


展覧会を鑑賞される三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時43分配信

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展覧会「幻の室内装飾―明治宮殿の再現を試みる」を笑顔で鑑賞される三笠宮さま=2011年10月撮影、皇居・三の丸尚蔵館


孫に囲まれる三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時37分配信

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孫に囲まれ記念撮影される三笠宮さま。左は高円宮家の長女承子さま、右は次女の千家典子さん、奥は三女絢子さま=2014年8月、長野県軽井沢町(宮内庁提供)


散策される三笠宮ご夫妻
時事通信 10月27日(木)10時37分配信

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赤坂御用地を散策される三笠宮ご夫妻。三笠宮さまは2015年12月2日に100歳を迎えた=15年11月16日、東京・元赤坂(宮内庁提供)


退院される三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時37分配信

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心臓手術を受け、妻の百合子さまに付き添われ笑顔で退院される三笠宮さま=2012年8月撮影、東京都中央区の聖路加国際病院


<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父
毎日新聞 10月27日(木)10時33分配信

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百合子さまとご結婚=1941年10月22日


手を振られる三笠宮ご夫妻
時事通信 10月27日(木)10時33分配信

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新年一般参賀で手を振られる三笠宮ご夫妻=2013年1月撮影、皇居


葬儀に向かわれる三笠宮ご夫妻
時事通信 10月27日(木)10時33分配信

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47歳で急逝した三男高円宮さまの本葬「斂葬(れんそう)の儀」に向かわれる三笠宮ご夫妻=2002年11月撮影、東京都文京区の豊島岡墓地


晩さん会でお礼を述べられる三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時33分配信

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高円宮ご夫妻の結婚を祝う晩さん会で、出席者にお礼を述べられる三笠宮さま(左端)=1984年12月撮影、東京都港区

(時事通信社)


<三笠宮さまご逝去>安倍首相「悲しみの念に堪えません」
毎日新聞 10月27日(木)10時31分配信

 安倍晋三首相は27日午前、三笠宮崇仁さまの逝去を受け、「悲しみの念に堪えません。昭和時代からの長きにわたり、昭和天皇及び天皇陛下を助けられ、国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました。国民と共に謹んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。【田中裕之】


<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父
毎日新聞 10月27日(木)10時30分配信

815
赤坂御用地を散策される三笠宮ご夫妻=東京都港区で2015年11月16日、宮内庁提供


三笠宮さまとお兄さま方
時事通信 10月27日(木)10時26分配信

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昭和天皇(当時皇太子)が欧州訪問から帰国し、兄弟4人そろって記念撮影。左から昭和天皇、三笠宮さま、高松宮さま、秩父宮さま=1921年9月撮影、栃木県の日光田母沢御用邸


講義される三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時26分配信

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東京芸術大美術学部の客員教授として「古代オリエント美術史」の特別講義をされる三笠宮さま=1985年12月撮影、東京都台東区


三笠宮さま逝去
時事通信 10月27日(木)10時21分配信

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昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、入院先の都内の病院で亡くなられた。100歳だった。


「悲しみの念に堪えぬ」=三笠宮さま逝去で首相謹話―与党幹部も哀悼
時事通信 10月27日(木)10時18分配信

 安倍晋三首相は27日午前、三笠宮崇仁さまの逝去について「悲しみの念に堪えません。国民と共に慎んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。

 
 謹話は「幅広い分野にわたり、皇族として、重要な役割を果たされ、各種の記念式典や大会にご臨席の際には、国民と親しく接せられました。国民は、殿下の一層のご長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは、誠に哀惜に堪えません」としている。

 自民党の二階俊博幹事長は「国民とできるだけ近い距離で接触され、皇室としての責任を大いに果たしていただいた。ご冥福を心からお祈り申し上げる」と悼んだ。東京都内で記者団に語った。

 公明党の山口那津男代表も、党会合のあいさつで、「戦後の平和で安定した社会へ、国民のために数々の功績を重ねられた。深く敬意を表したい」と述べた。


三笠宮さま ご逝去
ねとらぼ 10月27日(木)10時4分配信

 天皇陛下の叔父で昭和天皇の弟である三笠宮さまが亡くなりました。100歳でした。

 三笠宮さまは5月16日から急性肺炎により都内の病院に入院されていました。NHKなどの報道によると治療で症状は改善されましたが、心臓の働きの低下や新たに誤えん性の肺炎を発症するなどして、病室と集中治療室とを行き来されていたそうです。

 三笠宮さまは大正4年(1915年)に大正天皇の四男として誕生されました。戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史研究者の道を選択。2015年12月2日には明治以降の皇族ではじめて紀寿(満100歳)を迎えていました。1月の新年の一般参賀では元気な姿を見せていました。


生前退位容認の意見=皇室典範制定時に―三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)9時52分配信

 今年に入り表面化した天皇陛下の「生前退位」をめぐる問題。

 三笠宮さまは70年前の皇室典範制定時に、皇族の立場から天皇の生前退位を容認する意見を発表されていた(表記は原文通り)。

 1946年11月、政府は皇室典範改正案を衆議院に提出。三笠宮さまの意見は同12月に新聞に掲載され、「(政府の)説明をきいて釈然とした点もあるが、それでもなお、ふにおちない点もある」として、譲位の問題や皇族の婚姻の自由などについて持論を展開した。

 三笠宮さまは明治期制定の旧典範と同様、天皇の生前退位を認めない点について「自由意志による譲位を認めていない、つまり天皇は死なれなければその地位を去ることができないわけだが、たとえ百年に一度ぐらいとしても真にやむをえない事情が起きることを予想すれば必要最小限の基本的人権としての譲位を考えた方がよいと思っている」と異議を唱えた。

 2003年には、日本国憲法が公布された46年11月3日付で三笠宮さまがまとめた私案「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」の存在が明らかになった。その中で三笠宮さまは「『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八條の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか?」と疑問を呈した。

 しかし、三笠宮さまの意見は反映されず、衆議院と貴族院は46年12月、皇室典範改正案を原案通り可決。皇室典範は47年1月に公布、5月に施行された。


三笠宮さま逝去 戦後は古代オリエント史を研究
J-CASTニュース 10月27日(木)9時51分配信

 昭和天皇の末弟で皇族最高齢の三笠宮崇仁(たかひと)さまが2016年10月27日朝、亡くなられた。100歳だった。5月に急性肺炎と診断され、入院されていた。

 戦前は大本営参謀などを務めた陸軍軍人。戦後は古代オリエント史の研究家で、「宮さま学者」として国際的に活躍した。しばしば「戦争の反省」を語り、戦後民主主義の洗礼をいち早く受けた「民主的な皇族」としても知られた。

■終戦直前、息詰まる攻防があった

 1915年、大正天皇と貞明皇后の第4皇男子として生まれた。長兄の昭和天皇とは14歳、秩父宮や高松宮とも10歳以上の年齢差があった。皇族身分令で、皇族男子は原則として陸軍または海軍の武官になることが定められていたので、学習院を経て陸軍士官学校に進む。1936年から39年にかけて千葉県習志野にあった騎兵第十五連隊に勤務。

 43年1月には支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に。44年1月に帰還し、大本営参謀。このころ一部若手将校らが東条英機首相暗殺を計画、その動きを知った三笠宮さまは「いかに東条氏の施策に欠陥があるにせよ、天皇が首相、もしくは陸相に親任したわけだから、抹殺は天皇に対する反抗」と考えて憲兵隊に伝え、事件は未遂に終わった。

 45年5月25日の大空襲で赤坂の住居は全焼。以後、コンクリート製の防空壕で暮らす。終戦直前、息詰まる攻防があったことが明らかになっている。なお戦争継続を主張する陸軍は、同じ陸軍の軍籍を持つ三笠宮さまに最後の期待をかけた。8月12日、徹底抗戦派の参謀が門前で待ちかまえ、皇室会議に出かける三笠宮さまを説得しようとするが、「天皇の意図は和平にある」と断固拒否。13日夜には、阿南惟幾陸相自身も三笠宮宅を訪れ、天皇に御翻意をお願いしていただきたいと訴えた。しかし、三笠宮さまは強く叱責。

 陸相秘書官の手記によると、「会談の後(阿南陸相)は、…自動車が走り出しても、しばらくは無言であった。官邸に着く少し前になって漸く『三笠宮から陸軍は満洲事変いらい大御心(天皇のお考え)にそわない行動ばかりしてきたとお叱りをうけたが、そんなにひどいことを仰せられなくてもよいのに』とただそれだけを低い声で語った。…ひどくこたえたようであった」。

 阿南陸相は15日に自決。三笠宮さまはのちに「感無量なるものがあった」と回想している。

満員電車で東大に通う
 終戦時、三笠宮さまは29歳。耐乏生活が続いたが、一転、学究の道を目指す。きっかけは中国赴任中に感じていた疑問だ。白人の宣教師はなぜ人里離れた山奥に1人とどまり、中国人を相手に神の愛を説くのか。あるいは八路軍(中共軍)はなぜ自給自足で日本軍に抵抗し、民衆、特に婦女子にたいする軍紀は厳粛に保たれているのか。

 人間の情熱を駆り立てる根本的な要因を探求してみたいと考え、東大文学部の研究生に。まずヨーロッパの宗教改革の勉強から始めた。さらに原始キリスト教、ヘブライ史、オリエント史へとさかのぼる。旧約聖書はヘブライ語で読み、英語は駐日カナダ代表部の首席ハーバード・ノーマン氏に、フランス語はフランス文学の泰斗、渡辺一夫氏に教わった。

 当時の心境について、「過去のあらゆるものに失望し、信頼をなくしていた私は、何から何まですべてを新しいものの中から探しもとめねばならなかった」と語っている。

 住んでいた目黒から、満員電車やバスに乗って東大へ。時にはダットサンの自家用小型トラックを自分で運転して通った。お弁当持参。皇族としての公務もあり、授業に出席できない時は友人にノートを借り、夜のうちに百合子妃に写してもらった。難解な専門用語だらけ。「それは教室で筆記するより大変だったろう」と、結婚70周年の所感で妻への感謝をつづっている。

紀元節復活に反対の立場
 戦後の三笠宮さまは、早い時期にリベラルなスタンスに変わっていたようだ。近年明らかになった資料では、新憲法案を採決した46(昭和21)年6月8日の枢密院本会議で、新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張していた。ただし、新憲法案については、「どうしてもマッカーサー元帥の憲法という印象を受ける。反対もできないが、賛成も良心がゆるさない」とも述べ、採決では棄権した。

 60年ごろ、紀元節復活の動きが強まった時は、歴史学者として「反対」の立場。保守の重鎮・大野伴睦氏のところを突然訪れ、「2月11日というのは科学的根拠がない。国家権力で祝日とするのは間違い」と自ら説明し、「紀元節万歳」の大野氏の翻意を促したこともある。大野氏と親しく、実際にその様子を目撃した読売新聞記者・渡辺恒雄氏は「三笠宮殿下は非常に民主的な人」と記している。

 84年に出版した『古代オリエント史と私』(学生社)には「戦争への反省」があちこちに出てくる。騎兵第十五連隊の教官時代、「日本軍による戦争は正義のいくさである」と部下に訓示していたが、「今もなお良心の呵責にたえない」「戦争の罪悪性を十分に認識していなかった」。南京の総司令部に勤務したときは、肝試しに「生きた捕虜を銃剣で突き刺す」などの日本軍の残虐行為を知らされたほか、多数の中国人捕虜を満洲の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられ、「『聖戦』のかげに、実はこんなことがあったのでした」と記す。

 あるとき、日本軍の戦利品の中に「勝利行進曲」という映画があった。重慶政府(蒋介石の中華民国政府)制作。日本軍の残虐行為をテーマにした宣伝映画だが、「シナリオは事実をもとにして書かれたとしか思えませんでした」。東京への出張を命じられたとき、この映画を携行し、大元帥陛下にもお見せしたという。

 実際、南京から離任するときには現地の将校たちに講話。日中戦争が解決しない理由を「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と厳しく批判、中国内の抗日活動について「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」と分析していたことが、近年発掘された文書資料で明らかになっている。

 この文書は当時、回収されたといわれるが、陸軍内部ばかりでなく日本の上層部にも回覧され、非常に大きな衝撃を与えたという。

 2000年6月、日中友好に力を注いだ画家、平山郁夫さんの古稀の会でも、「戦時中、中国での日本軍の残虐行為を間近にして、身の縮む思いをしました。そのことを昭和天皇に報告した」と語っていた。

東京女子大に「宮さまうどん」
 気さくな人柄で知られ、自然体で多くの人と付き合い、ファンが多かった。東京女子大で教えていた時は、学内食堂で「きつねうどん」をよく食べていた。「宮さまうどん」と呼ばれた。フォークダンスが大好きで女子学生たちと踊ることもあった。

 研究者として、何度も中東を訪れ、ヘルメット姿で発掘作業に関わった。『古代エジプトの神々-その誕生と発展』(日本放送出版協会、88年)、『文明のあけぼの - 古代オリエントの世界』(集英社、02年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、08年)など多数の著書や翻訳書、監修本を残した。日本オリエント学会の会長や、東京都三鷹市に設立された中近東文化センターの総裁も務めた。

 近年は最長老皇族の立場だった。ご夫妻には男性3人、女性2人のお子さま方がいたが、三男高円宮憲仁さまは02年11月に急逝。長男寛仁さまは12年6月に、次男の桂宮宜仁さまは14年6月に亡くなっている。男系の男孫はいなかった。長女の甯子さまは日本赤十字社社長近衛忠煇夫人、次女の容子さまは 裏千家家元千宗室夫人。

 寛仁さまの長女、彬子さまは日本美術史を専攻し、オックスフォード大で博士号を取得、研究者の道に進んだ。三笠宮さまの衣鉢を継いで中近東文化センター総裁や日本・トルコ協会総裁を務めている。


余暇活動の普及にも尽力=スケートフォークダンス発案―ゆかりの人、三笠宮さま悼む
時事通信 10月27日(木)9時49分配信

 三笠宮さまは、戦後の日本を平和で文化的な国にするためには、フォークダンスなどのレクリエーションやスポーツが大切と考え、関係団体の総裁職などに就き、発展に尽くされた。

 フォークダンスとスケートを組み合わせた「スケートフォークダンス」も発案。ゆかりの人々から逝去を悼む声が相次いだ。

 「真面目だが、気さくでユーモアもあり、皇族として特別扱いされるのを嫌がられた。エレベーターでも必ず女性から先に乗せていただき、温厚で気配りの細やかな方だった」。フィギュアスケートインストラクターの金子恵以子さん(74)=東京都文京区=は半世紀にわたる交流を振り返った。

 金子さんが日本体育大4年に在学中、「フォークダンスとスケートを組み合わせてはどうか」と三笠宮さまが栗本義彦・同大学長(故人)に発案。これを機に、金子さんは日本で初めてスケートフォークダンスを始めた。

 約40年前、三笠宮さまが運転する車で都内のすし店を2人で訪れた。周囲の車の流れは速かったが、三笠宮さまは「立場上規則を破れないから」と制限速度を守り、一番左の車線を走っていたのが印象に残っている。

 三笠宮さまは70歳になり、医師の忠告に従ってスケートをやめた。しかしその後も年1回の講習会に参加。会終了後の打ち上げの場で、どじょうすくい踊りを出席者と一緒に輪になって踊ったこともあったという。

 「品川区フォークダンス協会」会長の高須みちよさん(78)=東京都品川区=は「いつもにこやかに、私たちと手を組んで楽しく踊ってくださった。いつまでもお元気でいてほしかった」と残念がった。

 1950年の創立当時、三笠宮邸が品川区にあったのが縁で、同年12月の創立大会には三笠宮ご夫妻が出席。三笠宮さまはその後、90歳を迎えるまで、毎年12月の定期大会に5年の節目ごとに出席し、会員とフォークダンスを踊った。

 高須さんは「どんなにお忙しくても『品川だけは特別ですよ』と言って来ていただいたのが、私たちの心の支えだった」と悼んだ。


オリエント史研究に情熱=戦争、皇室批判も―激動の一世紀歩む・三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)9時47分配信

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東京芸術大美術学部の客員教授として「古代オリエント美術史」の特別講義をされる三笠宮さま=1985年12月撮影、東京都台東区

 亡くなられた三笠宮さまは終戦まで軍人生活を送り、戦後は古代オリエント史研究に情熱を傾け、「オリエントの宮さま」と呼ばれた。

 戦時中の体験から戦争批判を繰り広げ、歴史学者の立場から紀元節復活に反対。時に大胆な発言が波紋を呼んだが、暗い時代に戻るまいとの強い決意の表れでもあった。

 ◇聖戦の裏側で
 第1次世界大戦中の1915年12月生まれ。幼少時に童謡を作詞し、「童謡の宮さま」と呼ばれた。陸軍大学校を卒業した41年12月、太平洋戦争が始まった。意気盛んな青年将校だった三笠宮さまに、戦争に対する決定的な疑問を抱かせたのは、支那派遣軍総司令部参謀として赴いた戦地の中国・南京で見聞きした日本軍の残虐行為だった。

 44年1月、三笠宮さまが陸軍を批判した文書は50年後の94年7月に見つかった。自身の「お印(しるし)」にちなんだ秘匿名「若杉参謀」の名で書かれ、「支那事変に対する日本人としての内省」と題し、「現在日本人、特に軍人に欠如しているものは『内省』と『謙譲』」と述べ、軍部に猛省を迫った。

 日本軍の残虐行為をテーマにした映画を日本に持ち帰り、昭和天皇に見せたこともあった。「聖戦という大義名分が、事実とはおよそ懸け離れたものであった」「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」。著書に付した「わが思い出の記」で当時の苦悩を吐露している。

 終戦の年の45年5月、宮邸は空襲で全焼。妻の百合子さま、1歳だった長女の近衛※子さん(※ウカンムリの下に心その下に用)と共に、コンクリート製の防空室で生活した。終戦直前には、後ろ盾を期待する抗戦派陸軍幹部からの働き掛けを断固として拒み、陸軍に反省を促したとされる。

 ◇「菊のカーテン」
 戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩み、「学者皇族」として活躍。テレビやラジオ、雑誌などにもたびたび登場した。憲法9条について「戦争放棄は大変いいと思いました」と述べ、紀元節復活の動きには「歴史学的、考古学的な裏付けがない」と反対。時に踏み込んだ見解を示し、保守派勢力から「赤い宮さま」とやゆされたこともあった。

 太平洋戦争以前の皇室制度を「格子なき牢獄(ろうごく)」と著書で表現。皇室の閉鎖性を、東西冷戦時代の「鉄のカーテン」になぞらえ、「菊のカーテン」と表現した。「皇室を尊厳の対象にしようとすると、また昔の状態に向かう恐れがあるのではないでしょうか」と雑誌の対談で述べたこともあった。

 研究では、宮内庁書陵部内に三笠宮研究室を開設する一方、東京女子大などの教壇に立った。同大の食堂で学生と語らい、いつも注文する1杯20円のきつねうどんは「宮さまうどん」と呼ばれた。

 ◇内助の功に感謝
 2008年に「わが歴史研究の七十年」を「総括の意味」で出版。「古代史はこれからつくられるのです」と、若い研究者への思いを記し、研究への情熱は晩年も衰えなかった。

 「顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」「今静かに過去の70年を振り返ってみるとき、百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである」(11年10月、結婚70年の所感)
 「世界中の人々の幸せを願い、70年以上にもわたり私を支えてくれている妻百合子に感謝しつつ、楽しく穏やかな日々を過ごしていきたい」(15年12月、100歳の所感)
 晩年、高円宮さま、寛仁さま、桂宮さまと最愛のお子さま3人に先立たれ、96歳での心臓手術など、苦難の連続だった三笠宮さま。人生の節目には、長年連れ添った妻百合子さまに、感謝の言葉をつづっていた。


皇位継承者は4人に=三笠宮さま逝去
時事通信 10月27日(木)9時44分配信

 三笠宮さまが亡くなられたことで、皇室の構成は天皇陛下と皇族方計19人となり、皇位継承権を持つ男性皇族は4人となった。

 新たな皇位継承順位は次の通り。

 (1)皇太子さま(2)秋篠宮さま(3)悠仁さま(4)常陸宮さま。


三笠宮さまがご逝去…100歳、昭和天皇の末弟
読売新聞 10月27日(木)9時31分配信

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三笠宮崇仁親王殿下(2007年5月12日)

 三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)親王殿下は、27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で逝去された。

 100歳だった。昭和天皇の末の弟宮で、天皇陛下の叔父にあたり、明治以降の皇族では最高齢だった。皇位継承順位5位で、三笠宮さまの逝去により、皇位継承権を持つ男性皇族は4人になった。〈ありし日の宮さま2面、関連記事10・11面〉

 宮内庁では、加地隆治・宮務主管が27日午前10時半から記者会見し、三笠宮さまの逝去を発表した。同席した宮内庁の名川弘一・皇室医務主管によると、最近の三笠宮さまの容体は安定した状態が続いていたが、この日の午前7時40分頃から徐々に心臓の拍動が遅くなり、意識不明となった。同8時頃に心停止状態となり、同34分、妃殿下の百合子さま(93)にみとられ、逝去が確認されたという。

 三笠宮さまは2006年頃、心臓の僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症と診断された。長男の寛仁(ともひと)さまが亡くなられた翌月の12年7月、急激に心機能が低下、弁の機能回復のため心臓を止めて人工心肺を使った手術を受けられた。当時96歳の高齢者には異例の手術だったが順調に回復し、今年5月までは宮邸で静かに過ごされていた。

 15年12月2日に100歳の誕生日を迎えられた。今年1月2日の皇居一般参賀に臨まれたが、急性肺炎で5月16日、同病院に入院。心臓機能の低下が発覚し、経過観察を続けられていた。名川医務主管は「懸命の治療を続けてきたが、年齢からくる心機能の低下はいかんともしがたかった」と説明した。

 三笠宮さまは1915年(大正4年)12月2日、昭和天皇、秩父宮、高松宮に続き、大正天皇と貞明皇后の第4皇子として誕生された。幼時の称号は澄宮(すみのみや)。32年(昭和7年)、学習院中等科4年を修了して陸軍士官学校予科に進まれた。

 卒業後、騎兵連隊勤務を経て陸軍大学校で学び、先の大戦中は支那派遣軍の参謀や大本営陸軍参謀などを務められた。終戦時は少佐で、陸軍の方針には反対の立場を取られていた。この間の35年12月、三笠宮家を創立。41年10月、高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚された。

 戦後は東大文学部の研究生として西洋史や宗教史を修め、オリエント学者の道を歩まれた。55年から東京女子大や青山学院大の講師を務められ、75年にロンドン大の客員教授、85年には東京芸術大美術学部の客員教授にも就任。一方で、大戦中の軍部批判や、建国記念の日の制定に絡む「紀元節」復活反対の発言なども話題となった。

 百合子さまとの間に寛仁さま、桂宮さま、高円宮さま、近衛寧子(やすこ)さん、千容子(まさこ)さんの3男2女をもうけられた。2002年11月に高円宮さまが、12年6月に寛仁さまが、14年6月には桂宮さまが亡くなり、3人の男子ともに先立たれた。

 三笠宮さまの逝去により、皇室の方々は19人、うち皇位継承権を持つ男性皇族は4人になり、昭和天皇の弟は3人とも亡くなられたことになる。


<訃報>三笠宮さまご逝去100歳=天皇陛下の叔父
毎日新聞 10月27日(木)9時28分配信

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三笠宮さま=宮内庁提供

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父、三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、聖路加国際病院(東京都中央区)で心不全のため亡くなられた。宮内庁が発表した。明治以降に亡くなった皇族としては最も長寿の100歳だった。三笠宮さまは5月16日に急性肺炎と診断され同病院に入院。心臓の機能低下がみられたため、入院を続けていた。三笠宮さまの逝去により昭和天皇の弟3人がすべて故人となった。

 27日午前10時半に宮内庁の加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまは同日午前8時ごろに心停止の状態になられたと説明した。午前7時40分ごろまでは安定し、意識があったが、容体が急変して心臓の活動が遅くなり、同8時ごろに心停止の状態になった。同病院に検査入院していた妻百合子さま(93)がみとられた。

 名川氏は会見で「医師たちを中心に懸命の治療が行われた結果、ここしばらくは安定された状態だったが、年齢からくる心機能低下に対しては、いかんともしがたかった」と述べた。

 三笠宮さまは、1915(大正4)年12月2日、大正天皇の四男として誕生した。幼名は澄宮(すみのみや)。学習院初等科・中等科から陸軍士官学校、陸軍大学校に進んだ。中国派遣軍参謀として南京に赴任したこともあり、終戦時は陸軍少佐だった。

 41年10月に子爵・高木正得(まさなり)氏の次女百合子さまと結婚。3男2女をもうけた。

 古代オリエント史の研究者として知られ、東京女子大などで講師として教壇に立った。著書に「古代オリエント史と私」などがある。歴史学者の立場から、神武天皇の即位の日とされる2月11日の祝日「紀元節」(48年廃止)を建国記念日として復活させることに反対の意思を表明したこともあった。

 心臓の左心房と左心室の間にある僧帽弁が完全に閉じないため血液が逆流する「僧帽弁閉鎖不全」を患い、2012年7月に手術を受けた。最後に公の場に姿を見せたのは、今年1月2日の新年一般参賀で、皇居・宮殿のベランダで手を振った。公務としては4月8日、トルコに赴任する日本の大使と、お住まいの宮邸で面会したのが最後だった。

 三笠宮さまの長男の寛仁さまは12年に66歳、次男の桂宮さまは14年に66歳、三男の高円宮さまは02年に47歳で亡くなっている。【高島博之、山田奈緒】


三笠宮さま薨去される 天皇陛下の叔父、100歳
産経新聞 10月27日(木)9時26分配信

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三笠宮さま(写真:産経新聞)

 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が入院していた東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。三笠宮さまの薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。

 三笠宮さまは平成24年に心臓の僧帽(そうぼう)弁が十分に機能しないために血液が逆流する鬱血性心不全と診断され、96歳でご手術。今年5月16日に急性肺炎で同病院に入院された後、心機能の低下が確認され、体調悪化が懸念されていた。


三笠宮さま逝去=100歳、昭和天皇末弟―歴史学者として活躍
時事通信 10月27日(木)9時2分配信

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昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、入院先の都内の病院で亡くなられた。100歳だった。

 昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなられた。

 100歳だった。皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は日取りなどの検討を始めた。

 三笠宮さまは急性肺炎と診断され、5月16日から聖路加国際病院に入院していた。宮内庁によると、27日午前7時40分までは容体が安定していたが、徐々に心臓の拍動が弱まり、同8時ごろ心停止に陥った。同病院に検査入院中だった同妃百合子さまが最期をみとったという。

 1915年12月2日、大正天皇の四男として誕生。称号は澄宮(すみのみや)。学習院初等科、同中等科を経て陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。成年を迎えた35年に三笠宮家を創立し、41年10月に子爵・故高木正得氏の次女百合子さまと結婚。太平洋戦争中の43年1月から1年間、支那派遣軍総司令部参謀として中国・南京に赴任し、終戦時は陸軍少佐だった。

 戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩んだ。日本オリエント学会の初代会長を務め、東京女子大や青山学院大の講師、東京芸術大の客員教授などとして教壇に立ち、テレビやラジオなどにも出演。歴史学者の立場から、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で廃止された紀元節復活の動きに反対したほか、戦争末期の44年に陸軍を批判した文書が後に見つかり、反響を呼んだ。

 中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁などを務め、国際親善をはじめ、さまざまな分野に貢献。ダンスにも親しみ、普及に尽力した。著書は「帝王と墓と民衆」「古代オリエント史と私」「わが歴史研究の七十年」など多数。

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