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2016年10月27日 (木)

三笠宮崇仁殿下ご薨去・3

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父にあたられる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)殿下が27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院でご薨去(こうきょ)された。100歳だった。

笠宮崇仁殿下は皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。

本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日に文京区の豊島岡墓地で営まれる。喪主は妻の百合子妃殿下が務められる。

謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。

伝達するニュースの数が多くなりましたので分割します。
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リンク:三笠宮さまに弔詞奉呈=参院 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:逝去悼み、記帳=ゆかりの人ら次々と―三笠宮邸 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>一般向け弔問記帳始まる 赤坂御用地 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまに弔詞奉呈=参院 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま悼み記帳する人たち - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去で記帳する人たち - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮崇仁親王殿下が薨去 100歳、昭和天皇の弟 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:【三笠宮さま薨去】ゆかりの信州、悲しみ包む ご静養や遺跡視察で来県 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:【三笠宮さま薨去】飾らぬお人柄しのぶ 千葉県内、悲しみの声 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 「本当に尊敬できる方」 神奈川県内、悼む声相次ぐ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「また昭和が遠くなった」 三笠宮さま薨去 在りし日しのび各地から哀悼 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 「雰囲気和やか」人柄しのぶ 秩父神社でご植樹…埼玉県と縁深く - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま 山梨県内にも悲しみ 2回の公式来県 知事「心からご冥福」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 宗像・沖ノ島ご視察「ここは日本の原点だ」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 黙祷…静岡県内深い悲しみ 知事「哀悼の誠」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 茨城県内から悲しみの声 「写真ご一緒に」「残念…」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 「細やかな気遣い印象」 東北、悲しみ広がる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 気さくでご趣味多く ダンス・「童謡の宮さま」… - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 昭和天皇の弟 100歳、皇族最高齢 来月4日に「斂葬の儀」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまのご発言 「皇族は外交官」「国民あっての皇室」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 「本当に寂しい」悼む声 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 朝食後、ご容体急変 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 学者殿下、平和ご希求 皇族方、悲しみ広がる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 オリエント史研究、譲位ご提案も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 ご子息3方を見送られる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 激動の時代生き抜かれ 昭和天皇のご聖断にお立ち会い - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 夫唱婦随、辛苦ともに 百合子さまにみとられ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 継承資格4皇族に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 伝統踏まえご葬儀 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去、昭和天皇の末弟、100歳 皇族最長寿 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「斂葬の儀」11月4日に豊島岡墓地で - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>皇室典範制定時 「生前退位」規定主張 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>護衛付けずに1人で外出 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>将校から史家に 11月4日に斂葬の儀 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

三笠宮さまに弔詞奉呈=参院
時事通信 10/28(金) 11:17配信

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参院は28日午前の本会議で、逝去された三笠宮さまに弔詞を奉呈することを全会一致で決めた。伊達忠一参院議長は「誠に哀悼に堪えない。参院はここに恭しく弔意を表し奉る」との弔詞を朗読した。

(時事通信社)


逝去悼み、記帳=ゆかりの人ら次々と―三笠宮邸
時事通信 10/28(金) 11:16配信

 三笠宮さまの逝去から一夜明けた28日午前、赤坂御用地(東京都港区)にある三笠宮邸で一般記帳の受け付けが始まり、ゆかりのある人々らが次々と訪れて三笠宮さまの死を悼んだ。

 
 元トルコ大使で、三笠宮さまが名誉総裁を務めた日本・トルコ協会副会長の遠山敦子元文部科学相は「長年にわたり日本と中東諸国との関係を築いてこられ、現地でも非常に尊敬されていた」と振り返った。昨年、協会メンバーで100歳のお祝いをした際に会ったのが最後だったといい、「とてもにこやかないい顔で、人生の深みを感じた」と話した。

 かつて赤坂御用地の近くに住んでいたという静岡県裾野市の主婦谷須美子さん(64)は「お見掛けしたこともあり、とても身近に感じていたので親を亡くしたような気持ち。また一つ昭和が終わってしまった気がします」と残念そうな様子だった。


<三笠宮さまご逝去>一般向け弔問記帳始まる 赤坂御用地
毎日新聞 10/28(金) 11:05配信

 100歳で亡くなられた三笠宮さまを悼む一般向けの弔問記帳が28日、赤坂御用地(東京都港区)にある三笠宮邸で始まった。訪れた人は、三笠宮さまの気さくな人柄や、外国との友好などに尽力された活動をしのび、別れを惜しんだ。

 記帳は、宮邸前の仮設テントで午前9時に始まった。トルコ大使を務めたことを機に20年来の交流がある遠山敦子さん(77)は「トルコや考古学に深い知見をお持ちで、日本と中東諸国の絆を築かれた。三笠宮さまのおかげで日本とトルコの関係を深められた」と振り返る。「戦中戦後の難しい時代を毅然(きぜん)と生きられた立派なご生涯だった」と話した。

 三笠宮さまが名誉総裁を務めていたころの日蘭協会の活動に携わっていた曽武川栄一さん(83)は「気どらなくて優しい、行動力のある方だった」と話す。「百合子妃殿下との仲むつまじい姿が印象的だった」と百合子さまの悲しみを思いやっていた。

 一般記帳は当面の間、午前9時から午後7時まで行われる。希望者は徒歩で御用地の南門から入る。【山田奈緒】


三笠宮さまに弔詞奉呈=参院
時事通信 10/28(金) 10:51配信

 参院は28日午前の本会議で、逝去された三笠宮さまに弔詞を奉呈することを全会一致で決めた。

 伊達忠一参院議長は「誠に哀悼に堪えない。参院はここに恭しく弔意を表し奉る」との弔詞を朗読した。


三笠宮さま悼み記帳する人たち
時事通信 10/28(金) 10:41配信

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逝去された三笠宮さまを悼み記帳する人たち=28日午前、東京・元赤坂の赤坂御用地(代表撮影)

(時事通信社)


三笠宮さま逝去で記帳する人たち
時事通信 10/28(金) 10:41配信

842
逝去された三笠宮さまを悼み記帳する人たち=28日午前、東京・元赤坂の赤坂御用地(代表撮影)

(時事通信社)


三笠宮崇仁親王殿下が薨去 100歳、昭和天皇の弟
SankeiBiz 10/28(金) 8:15配信

 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。戦時中は陸軍の軍人、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍された。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は約1週間後に東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で執り行われるとみられる。薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。

 宮内庁は27日午前10時半すぎから、加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまの薨去を発表した。

 昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。

 昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、先の大戦中の昭和18(1943)年、お印の「若杉」から「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として南京に赴かれた。19(1944)年には大本営参謀となり、終戦時は陸軍少佐であられた。

 16(1941)年10月に高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚し、寛仁(ともひと)親王殿下、桂宮宜仁(よしひと)親王殿下、高円宮憲仁親王殿下、●子(やすこ)さん(近衛忠★(ただてる)夫人)、容子(まさこ)さん(千宗室夫人)の3男2女をもうけたが、平成14(2002)年に高円宮さま、24(2012)年に寛仁さま、26(2014)年に桂宮さまを相次いで亡くされた。

 戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史学者の道を歩まれた。メソポタミア地方(イラク)の学術探検、トルコの古代遺跡視察のほか、友好親善や葬儀参列のため、北欧や東南アジアなども訪問し、戦後の皇室による国際親善に大きな足跡を残された。

 90歳を過ぎると体調を崩しがちになり、20(2008)年6月に急性心不全との診断を受けてご入院。21(2009)年と23(2011)年にも軽い心不全で入院された。寛仁さまが薨去された直後の24(2012)年7月には、心臓の僧帽(そうぼう)弁が十分に機能しないために血液が逆流する鬱血(うっけつ)性心不全と診断されて96歳で手術を受けられた。

 手術後は公の場に出る機会が減ったが、27(2015)年12月2日に100歳となり、28(2016)年1月2日には、皇居で行われた新年一般参賀で元気な姿を見せられた。しかし、5月16日に急性肺炎で同病院に入院後、心機能の低下が確認され、ご入院は約5カ月に及んでいた。

 最近は容体が安定していたが、27日午前7時40分ごろに容体が急変して同8時ごろに心停止となり、百合子さまが付き添われる中で息を引き取られたという。

●=ウかんむりの下に心、その下に用

★=火へんに軍


【三笠宮さま薨去】ゆかりの信州、悲しみ包む ご静養や遺跡視察で来県
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 ■「気さくな方」「寂しい限り」

 天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日、薨去(こうきょ)された。生前、ご静養のために軽井沢町に幾度も足を運んだり、訪れた土地の人々と親しく交流されたりと、信州とのゆかりが深かった三笠宮さま。県内は大きな悲しみに包まれた。

 阿部守一知事(55)は同日、「県民とともに謹んで哀悼の意を表します。三笠宮崇仁親王殿下は、長野県にたびたびお越しくださっておりました。昨年には百寿をお迎えになり、殿下の一層のご長寿を願っておりましたが、薨去されたことは誠に哀惜に堪えません。ご冥福を心からお祈り申し上げます」とする謹話を発表した。

 三笠宮さまはわけても軽井沢町を愛されていた。夏には毎年のようにご静養に訪れ、昭和30年には三笠地区に別荘も所有された。

 旧軽銀座にある明治39年創業の「土屋写真店」は、大正12年ごろから皇族の写真を撮り続ける。昭和、平成と時を経ても天皇、皇后両陛下が軽井沢町に入られた際、駅で町民らがお迎え、お見送りする様子を欠かさず見守ってきた。三笠宮さまは「また来たよ。よろしくね」と言って店に立ち寄られたこともあったという。

 3代目店主の町田夏子さん(79)は「気さくな方で、いつもお元気な姿を見せていただいた。ご高齢になっても精力的に公務をこなされていた」と振り返り「惜しい方を亡くしました。ご冥福をお祈りします」と声を振り絞った。

 同町の藤巻進町長(65)は「長く軽井沢を愛していただいた三笠宮さまが薨去され寂しい限りです。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」とコメントした。

 佐藤雅義前町長(79)にとっては、10年ほど前に軽井沢町に訪れた三笠宮さまと記念に撮影した写真が、かけがえのない宝物だ。

 「軽井沢を愛して頻繁に来ていただいた。写真の中の三笠宮さまも素敵な笑顔でいらっしゃる。残念でなりません」

 太古をしのび、縄文文化に精通した三笠宮さまは県内の遺跡発掘現場にも熱心に足を運ばれた。

 昭和39年9月、川上村の大深山(おおみやま)遺跡を視察された。発掘に携わった地元の人々の努力をたたえ、自らもスコップを手に住居址や石棒を掘り出された。

 当時、役場に入って2年目だった藤原忠彦村長(77)は軽井沢駅で三笠宮さまをお出迎えし、町会議長がハンドルを握る乗用車でお供した。藤原村長は、当時の光景が脳裏に焼き付いて離れないという。

 「村で住民全員が日の丸を手にお迎えしました。穏やかな方で、高齢者を激励されていました。考古学に詳しく、村民に溶け込んでおられた、お姿に大変感動しました。翌年、村民が感謝の気持ちで地元産イワナを宮家に届け、受け取っていだだきました。薨去されたのは本当に残念です。ご冥福をお祈りします」

 これに先立つ昭和29年7月には、茅野市の尖石(とがりいし)遺跡を視察し、地元の高校生たちとともに発掘調査に参加された。

 同市尖石縄文考古館の守矢昌文館長(59)は「貴重な遺跡の発掘に携わっていただいた。ご冥福をお祈りします」と語った。


【三笠宮さま薨去】飾らぬお人柄しのぶ 千葉県内、悲しみの声
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 「親しみやすく気さくな宮さまだった」-。27日の三笠宮祟仁(たかひと)親王殿下の薨去(こうきょ)の報に、県内でもその飾らないお人柄をしのぶ声が相次いだ。

 県レクリエーション協会や日本レクリエーション協会の会長も歴任した元沖縄開発事務次官の川村皓章氏(故人)は生前、日本協会総裁の三笠宮さまと親交があった。息子の川村博章・千葉市議(52)は、皓章氏から三笠宮さまとの親交を聞いていただけに「非常に残念です」と悼んだ。

 川村市議によれば、三笠宮さまは昭和36、40年に県のフォークダンス祭で来県されたという。「父がよくうれしそうに話していた。私も三笠宮さまの計らいで“ひげの殿下”(寛仁親王殿下)と一緒に馬跳びをして遊んだことがありました」と懐かしんだ。

 皓章氏は、三笠宮妃百合子さまの名前にあやかって娘を命名するなど、三笠宮さまを敬愛していたという。川村市議は「父が平成24年に亡くなった際は花を手向けてくださるなど、家族一同お心遣いに感じ入りました」と、身近に感じていただけに落胆の様子だった。

 東金市田間の千葉学芸高校(旧東金女子高)には昭和53年、同校で行われている特徴的な手芸の授業見学に三笠宮さまが訪問された。当時を知る学校関係者はいないが、高橋邦夫校長は、当時の校長で父の美光(よしみつ)氏(故人)が三笠宮さまのご訪問を受けて誇らしそうだった様子を覚えているという。「どの高校でもあることではない栄誉だ」と聞かされていた。

 三笠宮さまは同校に朝早く到着し、校長室で朝食を召し上がった。家政科の教諭が考案した、三笠の形をしたパンを用意したところ、三笠宮さまは感激されたご様子だったという。授業見学では、刺繍(ししゅう)を実習する生徒に「どんなところが大変ですか」などと話しかけられた。「1クラスだけでなく、いくつもの教室を回られ、話しやすく大変気さくな方だったようです」

 生徒からは三笠宮さまに、日本刺繍の額装をお贈りしたところ、大変お喜びになったという。あの日の光景は学校に関わる人々の励みとなった。高橋校長は「生徒にとっても素晴らしい経験だった。大変敬愛していたので悲しみは深いです」としのんだ。


三笠宮さま薨去 「本当に尊敬できる方」 神奈川県内、悼む声相次ぐ
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 27日に薨去(こうきょ)された三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下は、心血を注いだ古代オリエント史の研究などを通じ、県内の関係者とも長く交流されてきた。三笠宮さまの人柄に、身近に触れた人々からは「本当に尊敬できる方でした」と悼む声が聞かれた。

 横浜ユーラシア文化館(横浜市中区)に平成15年と17年に来館された際に案内した主任学芸員の福原庸子さんは「(三笠宮さまは)日本オリエント学会の会長で、世界レベルの研究者。1つの展示室を30分以上もじっくりとご覧になっていました。温かいお人柄で、研究者はみな尊敬しておりました」と語った。

 そのうえで福原さんは「われわれが、研究に対する熱いお気持ちを引き継いでいかなければならないと改めて感じています」と表情を引き締めた。

 俳句を通じて両親とご交流があり、その後も交流を続けた鎌倉ユネスコ協会会長で、鎌倉市の高徳院住職の母、佐藤美智子さん(81)は「鎌倉市に住んでいた俳人の高浜虚子と三笠宮さまが俳句の会を作っており、高徳院でも俳句を詠まれていた。とても気さくなお人柄で、(三笠宮さまが)東京女子大で教鞭(きょうべん)をとっていたときには、女子学生を連れて、ふらりと自宅を訪ねて来られたこともありました」と振り返る。

 シルクロードをテーマにした日本画家の平山郁夫さんが市内在住だったこともあり、「平山先生とは熱心にいろいろと歴史の話をされていたようです。平山先生をテーマにした講演会が高徳院でありますが、三笠宮さまと交流のある方々が集まる機会もあり、皆、悼む気持ちでしょうね」と肩を落とした。

 黒岩祐治知事は「914万県民とともに、ここに心からお悔やみ申し上げます」とするコメントを発表した。


「また昭和が遠くなった」 三笠宮さま薨去 在りし日しのび各地から哀悼
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 27日薨去(こうきょ)された三笠宮さまをしのび、都内のゆかりの地ではさまざまな形で、哀悼の意を表した。

 立川市の国営昭和記念公園内にある「昭和天皇記念館」(同市緑町)は、「崇仁(たかひと)親王殿下の薨去に接し謹んで哀悼の意を表します」と張り紙を入り口脇の掲示板に張り出した。

 同館では開館10周年特別展示「思い出の昭和天皇」を開催中。妻と訪れた中野区の土地家屋調査士、中村文康さん(68)は「残念です。今日は特別展示を見て感慨に浸りましたが、またひとつ昭和が遠くなった気がします」と寂しそうに語った。

 三笠宮さまのご発意で創設され、中近東の歴史・文化を研究、公開している三鷹市の「中近東文化センター」(同市大沢)は、ポールに半旗を掲げて哀悼の意を示した。職員によると、休館日だったが、薨去を知り半旗を掲げたという。

 三笠宮ご夫妻が昭和31(1956)年にスリランカを訪問したことを記念して日本に贈られたスリランカゾウ「アヌーラ」は、日野市の多摩動物公園(同市程久保)で国内のアジアゾウでは最高齢の63歳(推定)となった今も元気に過ごしている。

 平成19年5月に同園で開かれたアヌーラの「来日50年を祝う会」には、日本スリランカ協会名誉総裁の三笠宮さまがご夫妻で出席され、宮さまは再会を楽しまれたという。

 上野動物園の金子美香子課長は当時、多摩動物公園の係長として式典のとりまとめを担当。「三笠宮さまはゾウ舎にもおいでになり、柵越しにお祝いのバナナを投げ入れてくださいました。少し距離があるので心配しましたが、ちゃんと届いてアヌーラがおいしそうに食べたことが忘れられません」と振り返った。


三笠宮さま薨去 「雰囲気和やか」人柄しのぶ 秩父神社でご植樹…埼玉県と縁深く
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 現皇室最高齢の100歳で27日に薨去(こうきょ)された三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下。昭和63年のさいたま博覧会では名誉総裁を務め、秩父宮家ゆかりの秩父神社(秩父市)ではケヤキを植樹されるなど、埼玉と縁が深かった。県内は哀悼の意に包まれ、関係者らはその気さくなお人柄をしのんだ。

 県によると、三笠宮さまは昭和53年の県レクリエーション大会(上尾市)や、56年の全国レクリエーション大会(東松山市など)の式典にご夫妻で臨席されたほか、さいたま博覧会(熊谷市)をご視察。平成13年には彩の国さいたま芸術劇場(さいたま市)でベルギーのダンスカンパニー、ローザスの「ドラミング」を私的に鑑賞されている。

 4年5月には秩父神社をご参拝。案内した薗田稔宮司(80)は「兄の秩父宮さまと縁が深い秩父神社を、大事に考えてくださっていた」と話した。

 薗田氏は東京大の学生時代、教授だった大畠清氏の下で宗教学を学ばれた三笠宮さまと交流があったといい、「気さくで和やかな雰囲気は、当時とお変わりなかった」と振り返った。

 三笠宮さまは社殿西側に高さ約1・5メートルのケヤキをお手植えされ、同神社では秩父宮家、高松宮家のイチョウとともに3宮家のお手植えが実現。ケヤキは約5メートルに成長しているという。

 「お年がお年なので、来るべきときが来たという思いもあるが、残念だ」と薗田氏。天皇陛下が意向を示された譲位については「皇族であり、ご発言できなかったことは心残りだったのではないか」と推察した。

 「天寿を全うされたと思う。時代の区切りを迎えたと感じる」。三笠宮家由来の盆栽を預かる「九霞(きゅうか)園」(さいたま市北区)の3代目、村田行雄氏(45)はこうしのんだ。

 同園は初代園主の久造氏が昭和4年に開設し、三笠宮さまは33年に訪問された。皇居の盆栽を担当していたことが縁で、約30年前に三笠宮さまから黒松を預かり、管理を続けている。

 村田氏は「時代の変化とともに盆栽は皇族と縁遠くなりつつある。盆栽と皇族との本当の結びつきの時代が終わったのかもしれない」と話した。


三笠宮さま 山梨県内にも悲しみ 2回の公式来県 知事「心からご冥福」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)された27日、県内にも悲しみが広がった。県によると、三笠宮さまは昭和61年に開催された「かいじ国体」と、昭和45年の「全国リクリエーション大会」の際に、ご視察などで計2回、公式に来県された。

 後藤斎知事は同日、「ご薨去の報に接し、深い悲しみの念を禁じ得ません。全国リクリエーション大会、かいじ国体の際にご来県され、県民と親しく接していただきました。県民とともに、心から安らかなるご冥福をお祈り申し上げます」と謹話を発表。薨去を悼んだ。

 後藤知事は謹話で「古代オリエント史の分野で、幾度となく現地での発掘作業に携われるなど、ご熱心にご研究をなさるお姿には、深い感銘を覚えたことを記憶しています」と三笠宮さまのお人柄にも触れた。

 三笠宮さまは、かいじ国体の際に大月、都留など県東部を中心に視察し、バスケットボールや高校野球を観戦された。

 県秘書課員として皇室を担当した山村武敏・出納局主幹(57)は、「三笠宮さまのご先導をさせていただいた。ご休憩でソファにお座りになったときの気品と優雅さに感動した」と振り返る。

 ご視察の皇族と言葉を交わすことができるのは、案内役などごく一部の人だが、三笠宮さまはご日程を終え、車のドアが閉められる際、若かった山村さんに「ありがとう」と優しくお声をかけられたという。

 山村さんは「100歳のご長寿を全うされたと思うが、もっと長生きしていただきたかった」と話した。


三笠宮さま薨去 宗像・沖ノ島ご視察「ここは日本の原点だ」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまは、九州・山口を複数回、訪問された。

 昭和44年10月に「海の正倉院」と呼ばれる玄界灘の孤島、沖ノ島(福岡県宗像市)の第3次学術調査を視察された。

 沖ノ島には、宗像大社の「沖津宮」があり、島全体が神域となっている。

 上陸する際には、全裸で海に入り、みそぎをするのがしきたりだ。

 三笠宮さまは船で島に到着すると、あっと言う間に服を脱ぎ、海に飛び込まれたという。

 沖ノ島からは銅鏡や武器、装身具、馬具、金属製品など約8万点が出土し、後に国宝に指定された。

 三笠宮さまは古代オリエント史の研究者だった。西域の影響を受けた陶器「唐三彩」の破片を見て、大変喜ばれたという。

 九州大の研究生として調査団に加わった松本肇氏(74)=宗像市在住=によると、夕食後、調査団員を前に30分ほど話をされた。

 「ここは日本の原点だ。絶えることのない文化が守られている。私も皆さん方と同じく、みそぎをさせていただけたことを、非常にうれしく思います」

 こう熱っぽく語られたという。

 松本氏は「熱心に出土品をご覧になっていた。お心の豊かな方だと感じました」と振り返った。

 三笠宮さまは、視察で抱かれた思いを昭和50年の宮中歌会始の儀で詠まれた。

 「沖ノ島 森のしげみの岩かげに 千歳ふりにし 神祭りのあと」

 宗像大社の境内には歌碑がたたずむ。

 41年9月には、熊本県の天草諸島と九州本土を結ぶ天草五橋の開通式に、ご夫妻で出席された。

 台風接近に伴う、悪天候の中だったが、当時の県知事らとテープにハサミを入れられた。「心からお喜びします。経済発展の契機をつかんだ島民が一致して、島の発展に尽くすよう要望します」とのお言葉を残された。

 熊本県の蒲島郁夫知事は「薨去の報に接し、深い悲しみでいっぱいです。改めて県民とともに謹んで哀悼の意を表します」との謹話を発表した。

 平成16年には、山口県岩国市を訪問し、錦帯橋の架け替え完成を祝う式典に出席された。

 元東京芸術大学学長で彫刻家、澄川喜一氏が式典に誘ったという。三笠宮さまは同大の客員教授でもあった。

 澄川氏は「私の東京での展覧会にもご出席いただくなど、長い付き合いをさせていただいた。庶民的なお人柄で毎年、忘年会でお目にかかるのを楽しみにしていた。残念でなりません」とコメントした。


三笠宮さま薨去 黙祷…静岡県内深い悲しみ 知事「哀悼の誠」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)された27日、県内も深い悲しみに包まれた。

 川勝平太知事は、「この深い悲しみの中で、静岡県民とともに三笠宮殿下の御霊の安からんことを願い、深く哀悼の誠をささげます」とする談話を発表。静岡市の田辺信宏市長は同日の定例会見で、「静岡市を代表して謹んで哀悼の意を表します。大変悲しいことです」と述べた。

 三笠宮さまがご公務で本県を訪問されたのは、平成14年4月が最後。このときは静岡市駿河区の県立美術館で開催された「大トルコ展」をご覧になった。

 27日は、三笠宮家の彬子さまが同区で開かれた「世界お茶まつり2016」の開会式にご臨席の予定だったが、京都駅で新幹線に乗り込まれた後に三笠宮さまご薨去の一報を受け、急遽(きゅうきょ)ご訪問が中止になった。

 世界お茶まつりの会場では、彬子さまのお言葉を川勝知事が紹介し、その後、参加者全員が黙祷(もくとう)をささげた。


三笠宮さま薨去 茨城県内から悲しみの声 「写真ご一緒に」「残念…」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)されたことを受け、県内からも27日、悲しみの声が上がった。

 三笠宮さまは昭和61年、ひたちなか市の笠松運動公園で行われた県レクリエーション協会の創立20周年記念式典に出席された。

 当時同協会の副理事長を務めていた、松吟寺(常陸大宮市下町)の松浦好道住職(78)は「気さくで、親しみやすい方だった。式典ではお祝いの言葉をいただき、みんなでフォークダンスを踊った。写真も一緒に撮らせていただいた」と振り返る。「とても残念。国民の中に溶け込んでこられるような方で、大好きでした」と話した。

 橋本昌知事は「東日本大震災の際には、殿下からお見舞金を賜り、その温かいお心遣いは、県の復旧、復興の大きな励みになった。突然お亡くなりになったことは、誠に残念であり、哀惜の念を禁じ得ない」とのコメントを発表した。

 県秘書課によると、三笠宮さまは昭和5年に神栖市の息栖神社に参拝されたほか、43年に水戸市内で開催された第1回茨城県レクリエーション大会にご出席。44年には鹿島港開港式典に出席するため来県された。


三笠宮さま薨去 「細やかな気遣い印象」 東北、悲しみ広がる
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日、心不全のため、薨去(こうきょ)された。東北でも三笠宮さまと親交のあった人々が薨去を悼み、各地に深い悲しみが広がった。

 「十数年前まで年2回、お住まいを訪ねてお話しなどをさせてもらっていた」と話すのは福島県西郷村の林愼平さん(71)。

 元衆院議員の祖父が、三笠宮さまと親交があったことが縁といい、「今朝、知らせがあり、突然のことでびっくりした」と声を詰まらせた。

 三笠宮さまと、愼平さんの祖父、平馬さん(故人)の親交は陸軍大学校時代にさかのぼるという。また、愼平さんの父が創業した養魚場の敷地内に、同県塩川町(現喜多方市)にあった平馬さんの居宅を移築した際、三笠宮さまが宿泊されたこともあった。約40年前のことという。

 さらに、昭和45年12月、愼平さんの挙式にあたって三笠宮さまは「御両人の平和国家にふさわしい新家庭の建設を期待いたします」との言葉を贈られた。

 愼平さんは「諸事に細やかな気遣いをなさる三笠宮さまがとても印象に残っている」と振り返った。その上で「大変なご苦労もあったと思うが、100歳まで、よく頑張られたと思います」と話した。

 ■「だまこ鍋」に舌鼓

 三笠宮さまは昭和34年8月、秋田県五城目町で開かれた全国高校レスリング大会をご視察。当時の加賀谷力司町長の自宅に宿泊した際に、召し上がった郷土料理「だまこ鍋」を「大変おいしい」と気に入られたという。

 だまこ鍋は、ご飯をつぶして丸めた「だまこもち」や鶏肉、野菜などを、鶏肉のだしで煮る農家の家庭料理で、客が来た際に鶏をつぶしてもてなしたのが由来という。

 三笠宮さまのご様子から加賀谷町長が地元の料亭「松竹」に商品化を勧め、今では郷土料理として有名になった。当時の様子を知る同店の女将(おかみ)、鐙満子さん(74)は「町長の自宅の庭で鍋が出されて、多くの人がいらしてにぎわったそうです」と話す。

 ■村井知事も弔意

 各県の知事も薨去を悼む謹話を発表するなど、弔意を示した。非公式行事も含め10度訪問された青森県の三村申吾知事は「本県スポーツ、レクリエーション活動の振興等に多大なご尽力をいただきました。県民とともに衷心より哀悼の意を表すものであります」との謹話を発表した。

 山形県には8回、岩手県は6回ご訪問。山形県の吉村美栄子知事は「皇室をはじめ、ご近親の方々の深いお悲しみを拝察申し上げ、県民とともに謹んで安らかなるご冥福をお祈り申し上げます」とコメントした。

 岩手県の達増拓也知事は記者会見で「大変悲しいことで、つらい思いをしております。謹んでご冥福をお祈りしたいと思います」と弔意を示した。宮城県の村井嘉浩知事も「ご来県の折には多くの県民と親しくふれあっていただきました。県民とともに、慎んで心から哀悼の意を表します」との謹話を出した。


三笠宮さま薨去 気さくでご趣味多く ダンス・「童謡の宮さま」…
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

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東京国際ブックフェアの会場を見学される三笠宮さま。トルコの出展者らと歓談された=平成14年4月(写真:産経新聞)

 三笠宮さまは、若者たちにまじってダンスのステップを踏まれるなど、庶民的でフランクな人柄で知られた。作詞や俳句、登山など趣味も幅広く、多彩な横顔をお持ちだった。

 「殿下は気取りのない気さくな方。ダンスのステップがとてもきれいだったのが印象的だった。正月にお会いしたときはお元気だったのに…」。「品川区フォークダンス協会」(東京)の高須みちよ理事長(78)は、そう残念がった。

 高須さんによると、同協会創立当時の昭和25年に三笠宮邸が同区にあった縁で会員があいさつに行った際、三笠宮さまから「(戦後の)廃虚の中ですけど頑張りなさい」と励ましがあり、創立大会にもご夫妻で出席された。毎年12月の定期大会に5年おきに出席し、フォークダンスを楽しまれたという。

 また、三笠宮さまが考案された「スケートフォークダンス」を通じて約50年間交流があった金子恵以子さん(74)=東京都文京区=は、「人間的な魅力にあふれた方。真摯(しんし)なお人柄とともに、ユーモアもおありだった」と振り返った。

 金子さんは「温厚で細やか。レディーファーストも心得ておられ、エレベーターで必ず女性を先に乗せていただいた。お付き合いの機会に恵まれ、感謝、感激しかない」。

 ダンス以外にもさまざまな顔をお持ちだった。幼少期についたニックネームは「童謡の宮さま」。

 〈月夜の空を雁飛びて 宮くん御殿でそれ見てる〉

 これは、6歳前後の頃に作詞された「月と雁」という童謡だ。ほかにもいくつもの作詞があるほか、多くの俳句を詠まれている。

 昭和30年には皇族として初の大学(東京女子大)講師となり、東京芸術大、青山学院大などでも教壇に立たれた。ラジオやテレビにもご出演。東京女子大への通勤はもっぱら国鉄(現JR)を利用された。学食では学生らと一緒にしばしば1杯20円のきつねうどんを食べられ、メニューは「宮さまうどん」などと呼ばれるようになったという。


三笠宮さま薨去 昭和天皇の弟 100歳、皇族最高齢 来月4日に「斂葬の儀」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

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薨去された三笠宮崇仁親王殿下=平成15年2月(写真:産経新聞)

 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。戦時中は陸軍の軍人、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍された。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日に東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で執り行われ、三笠宮妃百合子さまが喪主を務められる。薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。

 大正4年12月2日のご誕生で、昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、先の大戦中の昭和18年、支那派遣軍参謀として南京に赴かれた。19年には大本営参謀となり、終戦時は陸軍少佐であられた。

 16年10月に高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚し、寛仁親王殿下、桂宮宜仁(よしひと)親王殿下、高円宮憲仁親王殿下、●子(やすこ)さん(近衛忠★(ただてる)夫人)、容子(まさこ)さん(千宗室夫人)の3男2女をもうけたが、平成14年に高円宮さま、24年に寛仁さま、26年に桂宮さまを相次いで亡くされた。

 戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史学者の道を歩まれた。イラク・メソポタミア地方の学術探検、トルコの古代遺跡視察など皇室による国際親善に大きな足跡を残された。

 90歳を過ぎると体調を崩しがちになり、寛仁さまが薨去された直後の24年7月には、鬱血性心不全と診断されて96歳で手術を受けられた。5月16日に急性肺炎で同病院に入院後は心機能の低下が確認され、ご入院は約5カ月に及んでいた。

●=ウかんむりの下に心、その下に用

★=火へんに軍


三笠宮さまのご発言 「皇族は外交官」「国民あっての皇室」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 「だれでも音楽がはじまればじっとしておれず、踊り出すなにものかがほしい。(中略)世界がひとつにならねばならない現代においては、世界のすべての人たちが喜んで飛び出して踊れるもの、言葉が通じなくても、踊りで心と心とが通じ合ったら…」(昭和27年、『文芸春秋』秋の増刊号、フォークダンスにひかれた理由を聞かれて)

 「スポーツを通じてこの緊張した国際関係を緩和したいという念願こそ大会にかける私の期待だ。もちろんソ連の入国を拒否すればこの大会の意義もなくなるし、第一、世界選手権大会ではなくなってしまうから私が総裁をひきうけた意図も失われてしまったろう」(29年5月、東京での世界レスリング選手権大会で記者の質問に対して)

 「外国王皇族は外国語もペラペラで、政治、経済、スポーツなどについて広い意見を述べられる。それに対して日本の皇族が口の中でモガモガしゃべっているんじゃ対等の話ができない。皇族はその生活の半分以上を外国のお客さまの接待に過ごしているのだからある意味での外交官だ」(40年8月、渡米を前にした記者会見で)

 「国民あっての皇室だから、国民が皇室に何を期待するかが前提だ。皇室のあり方も、歴史の発展に沿って変わってきたのだし、これからも社会の変遷に即応していかなくてはいけない」(平成元年6月、平成皇室についての質問に対して)


三笠宮さま薨去 「本当に寂しい」悼む声
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまが27日に薨去された聖路加国際病院(東京都中央区)では、午前11時5分ごろ、ご遺体を乗せたとみられる車両が病院を出た。

 同病院に入院中の友人を見舞いに来た神奈川県海老名市の無職、今井祐賢(ゆうけん)さん(69)は「激動の時代を生きられ、大変な思いもなさったことでしょう。『お疲れさまでした』とお伝えしたい」と話した。同病院に通院している中央区の無職女性(81)は「ご病気でお苦しかったことでしょう」と悼み、「奥さまはお寂しいと思います」と三笠宮妃百合子さまを気遣った。

 お住まいの宮邸のある赤坂御用地周辺でも、悲しみが広がった。岐阜県山県市から旅行に来ていた主婦、山田香代子さん(63)は「季節の変わり目が、お体に響いたのでしょうか。言葉になりません。本当に寂しい。何とも言えない悲しい気持ちです」とショックを受けた様子で話した。練馬区の大学研究員の男性(64)は「この気持ちを、どのように表現したらいいのか」と言葉を詰まらせ、「皇室の大切な方が亡くなられたことを、大変悲しく思います。長い期間ありがとうございました」と感謝の気持ちを述べた。


三笠宮さま薨去 朝食後、ご容体急変
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまが薨去されたことを受け、宮内庁は27日午前10時半すぎから記者会見を開いた。容体の変化を説明した名川弘一皇室医務主管によると、この日も朝食を取るなど前日と変わらぬ姿で、三笠宮妃百合子さまにみとられ、静かに最期を迎えられた。

 三笠宮さまは5月16日に急性肺炎で入院された後、症状が快方に向かったものの、6月中旬ごろからは慢性的な心不全の症状がみられるようになり、治療が続けられた。名川氏は「ご年齢からくる心機能の低下の進行はいかんともしがたかった」と説明した。

 一方で、「最近まで血圧は安定し、手足を動かされることもあった」(名川氏)といい、26日にも、同病院に検査入院してきた百合子さまと会話を交わされていたという。

 27日は朝食を取ったが午前7時40分ごろから心臓の拍動が徐々に遅くなり、同8時ごろに心停止するなど、ご容体が急変。百合子さまが病室に駆けつけられるのを待つようにして、静かに息を引き取られたという。100歳という長寿を全うされた背景について、名川氏は「健康を保てるだけの体力が若い頃からおありだった」と述べ、「宮邸では、運動を欠かされなかった」と振り返った。


三笠宮さま薨去 学者殿下、平和ご希求 皇族方、悲しみ広がる
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 大正天皇の第4皇男子で、27日に現皇室最高齢の100歳で薨去(こうきょ)した三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下は、戦前、戦中、戦後の混乱期と激動の時代を生き抜き、高度経済成長やバブルの崩壊など大きく移り変わるわが国の姿をつぶさに目撃してきた、まさに「歴史の生き証人」であられた。戦後は平和を願いながら長年公務に励み、気さくなお人柄で国民と皇室との懸け橋になられた。突然の薨去を多くの国民が悼み、ご失意の百合子妃殿下を気遣う天皇、皇后両陛下も深く悲しまれている。

                   ◇

 天皇、皇后両陛下は27日午後5時前、弔問のため、三笠宮邸がある赤坂御用地に車で入られた。薨去された聖路加国際病院(東京都中央区)から宮邸にご遺体が移された三笠宮さまとの別れを惜しまれた。

 宮内庁の山本信一郎長官らによると、両陛下にこの日、三笠宮さまの容体が伝えられたのは午前8時ごろ。

 名川弘一皇室医務主管から側近の侍従を通じ、心停止の危篤状態となられたことが報告された。朝食を取り終え、新聞に目を通されていたという。

 「すぐに見舞いに行けるだろうか」。両陛下はそう尋ねられたが、間もなく薨去の連絡が届いた。両陛下はすぐに「家族の別れの時間があるだろう」との気遣いを見せ、ご遺体が三笠宮邸に戻った後に弔問することにされたという。

 三笠宮さまが5月に入院された後、両陛下は「高齢である三笠宮さまのご容体を、常に気にかけられていた」(宮内庁関係者)。急性肺炎の症状が快方に向かった6月30日には、入院先の聖路加国際病院を見舞われていた。

 三笠宮さまのご遺体を乗せた車は午前11時5分ごろ、白バイの先導で病院を出発。

 スーツ姿の病院関係者10人以上が頭を下げて見送り、来訪者らも静かに手を合わせた。車は同11時15分ごろ、宮邸がある赤坂御用地に入った。

 その後、国旗を掲げた各国大使館の車などが頻繁に出入りした。昼過ぎには、弔問を終えたとみられる寛仁親王妃信子さま、常陸宮ご夫妻が御用地を車で出て、沈痛な面持ちで立ち去られた。

 両陛下のご弔問に続き、夕方には皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻と長女の眞子さま、次女の佳子さまも相次いで弔問に駆けつけ、三笠宮さまに悲しみの別れを告げられたという。


三笠宮さま薨去 オリエント史研究、譲位ご提案も
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまは、オリエント史の研究では皇族として初めて大学の教壇に立ち、テレビでも講義するなど「学者肌」の一面を持たれていた。今年、天皇陛下がお気持ちとして示された「譲位」についても、以前から言及されていた。

 三笠宮さまが「学者皇族」の道を歩まれたのは戦後から。昭和22年に東京大学文学部の研究生となって歴史学の分野に進み、アジアの広い地域の歴史を学ぶオリエント史を研究され、「オリエントの宮さま」と親しまれた。

 29年の日本オリエント学会創立を提唱し、会長にご就任。中近東文化センターと日本・トルコ協会では、ともに名誉総裁を務められてきた。同センターは54年、三笠宮さまのご発意により、古代中近東の研究機関として東京都三鷹市に創設され、トルコのカマン・カレホユック遺跡で発掘調査を進めてきた。

 日本で開催される複数のトルコ関連の展覧会で総裁を務め、同国の奥の深い歴史を紹介するなど、両国の懸け橋となられてきた。日本・トルコ間の国際親善に貢献した人物にトルコ政府から贈られる「アタチュルク国際平和賞」を平成元年にご受賞。受賞の際には「日本のトルコ関係者が一生懸命やっており、その代表者として賞をいただいたと解釈している」と喜びの気持ちを語られた。

 一方、三笠宮さまは昭和21年、現行の皇室典範を審議するにあたり、天皇が自らの意思で「退位」できるよう求める「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」という私案をまとめられている。

 崩御のみを譲位の条件とするのではなく、天皇陛下が意向を示されている「譲位」を認める内容だ。

 皇室典範は天皇や皇太子の成年を18歳とする一方で、結婚には「皇室会議の議を経ること」などの制限を課している。

 当時の政府は典範改正案が昭和天皇の裁可をすでに得ていたことを根拠に、三笠宮さまの私案を改正典範に反映させることを見送ったが、三笠宮さまが戦後間もない段階で、問題意識を持たれていたことがよく分かる。


三笠宮さま薨去 ご子息3方を見送られる
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 気さくで穏やかな人柄から「大殿下(おおでんか)」と呼ばれた三笠宮さまは、5人のお子さまに恵まれた。軍隊経験に基づく厳格な姿勢を貫く中で温かい家庭を築かれ、3人の親王方はいずれも独立してそれぞれの道を歩み、精力的に公務に取り組まれた。しかしその後は不幸にも、親王方全員に先立たれていた。

 平成14年11月には三男の高円宮さまが室内球技のスカッシュ中に突然倒れ、心室細動のため47歳の若さで薨去。約10年後の24年6月には、度重なるがんの手術を乗り越えてきた長男の寛仁(ともひと)親王殿下も亡くなられた。葬儀が営まれた同月には、翌日から入院された。

 三笠宮さまは、寛仁さまの本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」に車いすで参列したが、非常に悲しみ、涙を流されていたという。住まいから葬場へ向かう寛仁さまを見送る際には、体調不良を訴えて座り込まれる場面もあった。

 次男の桂宮さまは昭和63年5月に宮邸の寝室で倒れ、右半身まひなどの障害が残り、長年、車いすでご生活。平成20年9月に敗血症を発症してからは懸命に闘病生活を送っていたが、26年6月に薨去された。


三笠宮さま薨去 激動の時代生き抜かれ 昭和天皇のご聖断にお立ち会い
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 27日に薨去(こうきょ)した三笠宮さまは昭和天皇の末弟として長兄を支え、大正、昭和、平成の3つの時代を生き、歴史的な局面に数多く立ち会われてきた。

 昭和7年に陸軍士官学校予科にご入学。11年の二・二六事件で反乱部隊が襲撃した東京・赤坂の高橋是清邸は三笠宮邸のすぐ向かいにあった。

 三笠宮さまは市谷にあった士官学校の皇族用宿舎に滞在していたが、著書で当時を回想し「市街戦が始まると機関銃の弾丸がちょうど飛んでくる方向だな、と緊張した」と記されている。

 大戦中の18年には、お印の「若杉」をとって「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として中国・南京に赴かれている。

 19年1月からの大本営陸軍参謀時代には、陸軍内で東条英機首相を排除しようとする動きが浮上した。若手参謀から話を聞かれた三笠宮さまが「黙認した」と誤解され、首相暗殺計画に発展。三笠宮さまは「軍人として許せない行為」として憲兵隊に通報され、未遂に終わったとされる。

 終戦を3日後に控えた20年8月12日には、皇居の御文庫附属(ふぞく)室に高松宮はじめ皇族方とともに参集し、昭和天皇からポツダム宣言受諾の決心を下した「聖断」や、理由の説明を受けられている。

 同じころ、阿南惟幾陸軍相が空襲で全焼した三笠宮邸を訪問した際、昭和天皇にポツダム宣言受諾の翻意を促すよう訴えると、三笠宮さまは「陸軍は満州事変以来、大御心(昭和天皇の考え)に沿わない行動ばかりしてきた」と叱責されたと伝えられる。

 一方、戦後には自らが体験した軍の「実態」について皇族の立場から批判をされ、波紋が広がった。南京に赴任した18~19年の経験について、著書『帝王と墓と民衆』で、「かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾(てきがい)心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」と述懐し、「求めるものはただ和平のみとなった」と述べられている。紀元節復活に学術的な視点から反対の立場を取られたこともあった。

 戦後間もなく歴史研究の道に進み、古代オリエント史の研究を続ける一方で、昭和天皇の代理として台風などで被害を受けた被災地にも多く足を運ばれた。

 28年に秩父宮、62年に高松宮が亡くなり、唯一残った弟宮として64年1月7日には、皇居・吹上御所で昭和天皇の崩御に立ち会い、「激動の時代」の終わりを見とどけられた。

 平成になってからは皇室の重鎮として天皇陛下のご即位をはじめ、皇室のご活動の移り変わりを見守られた。


三笠宮さま薨去 夫唱婦随、辛苦ともに 百合子さまにみとられ
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 次男の桂宮さまを、平成26年6月にご夫妻でみとられてから2年余り。三笠宮さまは長寿を全うし、常に寄り添ってきた最愛の妻、93歳の百合子さまが見守られる中で、静かに薨去(こうきょ)されたという。

 「やはり家内が一番大変です。私なんかはどうしていいかわかりませんので、ただ、アレヨアレヨとみているのみですが。結婚していってしまったら、寂しくなるでしょうね」

 三笠宮さまは昭和41年秋、長女の●子(やすこ)さん(近衛忠★(ただてる)夫人)の結婚を前にこう述べ、●子さんへの愛情とともに、百合子さまを頼りに思う気持ちをにじませられた。

 結婚60周年を迎えた平成13年10月22日夜には、東京・丸の内の東京銀行協会ビルでダイヤモンド婚式のパーティーをご開催。結婚70周年の23年10月22日に先立っては、ご夫妻それぞれが感想を文書で発表し、お互いへの感謝をつづられた。

 ご夫妻が文書をそろって公表されたのは、三笠宮さまが95歳、百合子さまが88歳だったこのときが初めてのことだった。

 三笠宮さまからのメッセージは「顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」とする、おねぎらいから始まっていた。

 ご夫妻は開戦前夜の昭和16年に結婚。戦況が厳しくなる中で、新婚生活を送られた。結婚から1年余りがたつと、三笠宮さまは陸軍参謀として中国・南京へ赴任。百合子さまは三笠宮さまの活動を宮邸を守ることで支え、終戦前年の19年に生まれた●子さんを抱きながら、空襲に耐える日々を過ごされた。

 「妻は華族の出身であるが、皇族の生活は一段と厳しく、忙しいから、留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない」。三笠宮さまはご感想をこうつづり、激動の時代を過ごされた百合子さまへの思いを込められた。

 空襲で宮邸が焼失したため、三笠宮さまの帰国後は一時期、防空壕(ごう)で生活された。苦しい生活を強いられたが、「それを支えてくれたのも妻であった」。

 戦後、三笠宮さまが東京大学で歴史学を学んでいたころには、公務で参加できなかった授業の分のノートを友人からお借りになると、百合子さまが夜のうちに写されていたという。

 三笠宮さまは「過去の70年を振り返ってみるとき、百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである」と感想を結ばれ、百合子さまも「余(あま)り頑健(がんけん)でない私を、いつもいたわってくださった宮様のおかげで今日まで長生きできましたこと感謝の言葉もございません」と最上級の感謝をつづられていた。

●=ウかんむりの下に心、その下に用

★=火へんに軍


三笠宮さま薨去 継承資格4皇族に
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまの薨去により、天皇陛下と皇族方は19方となり、皇位継承資格を持つ男性皇族は4方となられた。

 寛仁親王殿下が平成24年6月に、桂宮さまが26年6月に薨去され、同年10月には高円宮妃久子さまの次女、典子さんが結婚により皇籍を離れたことで、皇族方の減少が一気に進んだ。

 菅義偉官房長官は27日午前の記者会見で、三笠宮さまの薨去にともない、安倍晋三首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で皇位の安定継承の問題を扱うかを問われ、議論の対象としない考えを重ねて示した。菅氏は「天皇陛下が82歳とご高齢であることも踏まえ、公務の負担軽減に絞って議論をいただく」と強調。その上で、皇族の減少への対応に関しては「内閣官房皇室典範改正準備室でこれまでの議論の経緯を検証するなど、検討を行っている」と説明した。


三笠宮さま薨去 伝統踏まえご葬儀
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

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ご葬儀の主な流れ(写真:産経新聞)

 三笠宮さまのご葬儀は今後、皇室の伝統を踏まえて執り行われる。一連の儀式の始まりで、一般の納棺にあたる「御舟入(おふないり)」は28日。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は、東京都文京区にある「豊島岡(としまがおか)墓地」で11月4日に営まれることが決まった。斂葬の儀では参列者が玉串(たまぐし)をささげて拝礼する「葬場(そうじょう)の儀」の後、ご遺体を火葬場に運んで火葬。再び同墓地に戻る。続く「墓所(ぼしょ)の儀」で同墓地に、ご遺骨が埋葬されることになる。

 天皇、皇后両陛下は、皇室の慣例により一連の儀式に参列せず、勅使を差し向けられる。


三笠宮さま逝去、昭和天皇の末弟、100歳 皇族最長寿
スポニチアネックス 10/28(金) 7:01配信

 昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父に当たる三笠宮さまが27日午前8時34分、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院で心不全のため亡くなられた。名前は崇仁。宮内庁によると、信頼できる記録上、皇族では最長寿の100歳だった。皇位継承資格がある皇族は皇太子さま、秋篠宮さま、悠仁さま、常陸宮さまの4人に減った。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日午前10時から東京都文京区の豊島岡墓地で営まれる。妻の百合子さまが喪主を務める。

 三笠宮さまは5月16日、急性肺炎で入院。宮内庁によると、27日午前7時40分ごろまでは安定した状態だったが、その後心機能が低下した。皇位継承順位は5位。三笠宮さまの死去で、天皇と皇族からなる皇室は19人になった。

 現在の皇族で唯一、軍務経験があり、太平洋戦争中は大本営陸軍参謀などを歴任した。満州事変での現地軍の独走など軍の在り方を批判。平和を希求する姿勢を鮮明にした。普段は気さくで穏やかな人柄から「大殿下」と呼ばれて慕われていた。古代オリエント史の研究者としても知られ、ダンスも得意だった。

 宮内庁の山本信一郎長官は会見で、皇族の減少が進んだ現状に触れ「大きな課題」との危機感を示した。皇室制度を巡り、政府は天皇陛下の生前退位の制度化へ向けた議論を優先。「女性宮家」創設など過去の政権が検討してきた皇族減少への対応の議論は後回しにする「二段構え」で臨んでいる。

 宮内庁は、天皇陛下と皇后さまら皇族が27日から7~90日、喪に服すと発表。両陛下や皇太子ご夫妻ら皇族は27日夕、相次いで宮邸を弔問に訪れた。また、11月1日に元赤坂の赤坂御苑で予定していた秋の園遊会の取りやめを決定した。27日に皇居・御所で予定していたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見も中止となった。


「斂葬の儀」11月4日に豊島岡墓地で
読売新聞 10/27(木) 23:29配信

 宮内庁は27日、三笠宮さまの葬儀日程を決定した。

 喪主は妻の百合子さまが務められる。納棺に当たる「お舟入(ふないり)」が28日夕に、お墓の予定地の地鎮祭は29日午前に行われる。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日午前10時から、東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で営まれる。


<三笠宮さまご逝去>皇室典範制定時 「生前退位」規定主張
毎日新聞 10/27(木) 23:10配信

 ◇終戦直後 当時の政府認めず

 三笠宮さまは1946年、「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」と題する意見書を作成し、新憲法のもとで制定される新しい皇室典範に天皇の「譲位(生前退位)」を認める規定を盛り込むよう主張されていた。

 吉田茂内閣は46年7月、諮問機関「臨時法制調査会」を設置。調査会は皇室典範について、明治期に制定された旧皇室典範を踏襲し、天皇の生前退位を規定しない要綱を答申した。三笠宮さまの意見書はこの答申に異論を唱えたものとされる。

 三笠宮さまは意見書で、天皇が亡くなった場合のみ皇位継承が行われることについて「『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか?」と疑問を呈した。内閣と天皇で「重大問題」について意見が異なった場合、「譲位といふ最後の道」は天皇に残しておく必要があると述べ、譲位が認められないならば「天皇は鉄鎖(てっさ)につながれた内閣の奴隷と化す」と指摘した。

 だが当時の政府はこうした立場をとらなかった。退位を認めない理由について政府は、天皇の地位を安定させるためと説明したが、戦争責任を問う声も上がっていた昭和天皇の退位を回避しようとした事情もあったとされる。国会審議で金森徳次郎国務大臣(当時)は「天皇一人の考えによって、その位を動くことは、国民の信念と結びつけると調和せざる点があるのではないか」と答弁している。

 皇室典範は衆議院と貴族院(当時)で可決され、新憲法と同じ47年5月3日に施行された。【高島博之、山田奈緒】


<三笠宮さまご逝去>護衛付けずに1人で外出
毎日新聞 10/27(木) 22:50配信

 三笠宮さまが、周囲の人たちに気付かれないまま、ビルの地下商店街を1人で歩かれている場面に遭遇したことがある。8年前の東京駅前だった。スーツ姿で紙袋を手にして、左右の店に視線を向けながらゆったりと歩を進められていた。あいさつすると、「おお、ご苦労様です」とおうようとした様子で応えてくれた。護衛もつけず1人で外出されることは知っていたが、不特定多数が行き交う場で出会ったのには驚き、かつ新鮮に感じた。

 「終戦後わたくしの生活環境は激変した。が、わたくしは楽しかった。三十になってたった一人で町をあるく楽しみをはじめて知ったわたくしは、運命のふしぎさをかみしめながら、だれにも気づかれずにコツコツと町をあるいてみたものである」。三笠宮さまが1956年に書いた「帝王と墓と民衆」に記されている「楽しみ」は92歳になっていても続いていた。「格子なき牢獄(ろうごく)」と表現した戦前とは違う環境を積極的に受け入れた。

 戦前の皇族身位令は、男性皇族は軍務につくと定めていた。中国戦線で見聞きした事実を基に、侵略主義に反省を求める文書を記したのは、戦時中の44年。戦時下の中国で、宣教師が1人で「愛」を説く姿に関心を持ち、キリスト教が誕生した古代オリエントへの興味につながった。

 戦後は東京女子大などで長く講師を務めたが、一般人とバス通勤するなど、皇族と市民の垣根を低くする役割も果たした。

 洒脱(しゃだつ)さも持ち合わせていた。旅先の宴席では、宿の浴衣姿で登場。やおら脱ぐとTシャツ、細身ズボンの全身黒ずくめの衣装で、マイケル・ジャクソンの「ビート・イット」のテープに合わせてラインダンスのように足を上げて踊った。「チントンシャン」のはやしに合わせてすり足で登場、日舞を披露したこともあったという。

 時には皇族という枠を越えながら自らの役割を考え続け、そして信念を貫き通した100年の生涯だった。【大久保和夫】


<三笠宮さまご逝去>将校から史家に 11月4日に斂葬の儀
毎日新聞 10/27(木) 22:47配信

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父に当たる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、入院先の聖路加国際病院(東京都中央区)で心不全のため亡くなられた。明治以降の皇族としては最も長寿の100歳だった。天皇陛下は同日から7日間の喪に服される。皇位継承順位が5位の三笠宮さまの逝去により継承資格を持つ男性皇族は4人となり、天皇陛下と皇族からなる皇室は19人となった。宮内庁は、本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」を11月4日に豊島岡墓地(東京都文京区)で執り行うと発表した。

 三笠宮さまは5月16日に急性肺炎で同病院に入院した後、肺炎の症状は治まったが、心機能の低下がみられたため入院を続けていた。容体の安定した状態が続いたが、27日朝に急変した。宮内庁によると、同日午前7時40分ごろから徐々に心臓の拍動が遅くなり、8時ごろ心停止の状態になった。同病院に検査入院していた妻百合子さま(93)がみとられた。

 三笠宮さまは、心臓の僧帽弁閉鎖不全を患い、96歳だった2012年7月に手術を受けた。車いすを使い、お住まいのある東京都港区の赤坂御用地で百合子さまと静かに暮らしていた。

 1915(大正4)年12月2日、大正天皇の四男として誕生した。幼名は澄宮(すみのみや)。終戦時は陸軍少佐だった。41年10月に子爵・高木正得(まさなり)氏の次女百合子さまと結婚。3男2女をもうけた。長男の寛仁さまは12年、次男の桂宮さまは14年、三男の高円宮さまは02年にそれぞれ亡くなられている。古代オリエント史の研究者としても知られ、東京女子大などで講師として教壇に立った。

 天皇、皇后両陛下や皇太子ご夫妻らは27日夕、弔問のため三笠宮邸を訪れた。同日予定されていた天皇陛下と来日中のドゥテルテ・フィリピン大統領との会見は中止された。11月1日に予定されていた秋の園遊会などの行事も中止となった。宮内庁は天皇陛下が27日から7日間、喪に服すと発表した。皇后さまや皇太子ご夫妻ら皇族方も7~90日の喪に服す。【高島博之、山田奈緒、古関俊樹】

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