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2016年10月27日 (木)

三笠宮崇仁殿下ご薨去・2

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父にあたられる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)殿下が27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院でご薨去(こうきょ)された。100歳だった。

笠宮崇仁殿下は皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。

本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は現在、日取りなどの検討を行なっている。

謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。

伝達するニュースの数が多くなりましたので分割します。
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リンク:<三笠宮さまご逝去>学者として議論楽しむ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>市民との垣根低く 俳句に家庭多く詠み - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>スキー発展に尽力 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま、本葬は来月4日=喪主は妃の百合子さま―宮内庁 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>皇族減少、宮内庁「大きな課題」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>首相が哀悼の意 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:100歳、平和願い…三笠宮さまがご逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:一般弔問記帳、28日から=三笠宮邸内で―宮内庁 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>一般向け記帳所 28日から設置 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:皇族や首相ら次々弔問=涙浮かべる記帳者も―三笠 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 両陛下、7日間ご服喪 秋の園遊会は中止、比大統領とのご会見も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:天皇陛下、比大統領にメッセージ=三笠宮さま逝去で会見中止 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、三笠宮邸を弔問 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 衆参議長が謹話発表 「誠に痛惜の限り」「深い悲しみ」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま 歴史ご探求 オリエントの宮さま 教壇に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 気さくなお人柄悼む 関西ゆかりの地 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま ご子息3方に先立たれ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「生前退位」ご提案 皇室典範 三笠宮さま私案 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去で謹話=衆参議長 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 安倍晋三首相「哀惜の意を表します」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 宮内庁会見(下)両陛下に「心停止」「薨去」をご報告 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:秋の園遊会中止、宮内庁発表…三笠宮さま逝去で - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 両陛下は7日間ご服喪 秋の園遊会はお取りやめ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:秋の園遊会取りやめ=両陛下ら服喪―三笠宮さま逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>秋の園遊会を中止 宮内庁発表 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>九州・山口に足跡 宮崎神宮でお手植え - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>冗談とユーモアで周囲なごませ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 宮内庁会見(上)午前7時40分ごろにご容体急変 百合子さまが病室で看取られ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 激動の時代を生き抜かれ 歴史ご探求「学者肌」の一面も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「穏やかな方、残念」=青い車で自宅へ―入院先病院・三笠宮さま逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>ダンススポーツ発展に尽力 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>飾らぬ素顔 カラオケやドラマ楽しむ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 自民・小此木八郎国対委員長代理「ご冥福をお祈りする」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>平和願い歴史探究 最後の皇族将校 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

<三笠宮さまご逝去>学者として議論楽しむ
毎日新聞 10/27(木) 22:42配信

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父の三笠宮崇仁(たかひと)さまが27日、亡くなられた。多くの人々と分け隔てなく交流し、学問や趣味に真摯(しんし)に取り組む三笠宮さまの姿は、周囲の人たちの胸に深く刻まれている。親しく接した人からは、自由で気さくな人柄を懐かしむ声も聞かれた。

 三笠宮さまの提唱で1954年に設立した「日本オリエント学会」の前会長、鎌田繁・東大名誉教授(イスラム思想)は「体調がすぐれないと聞いてはいたが、とても残念に思う」と惜しんだ。

 三笠宮さまは、皇族としてではなく学者として学会に出席されているように見えたという。約30年前、学会の忘年会に出席した際、他の学者から「(三笠宮さまの)論文はおかしい点がある」と議論をふっかけられても、にこにこ笑いながら応じていたことをよく覚えている。鎌田さんは「みんなと同じ立場で議論するのを楽しんでいるようだった」と懐かしむ。

 設立60周年を迎えた2014年、三笠宮さまから学会にファクスでメッセージが届いた。後になって宮家の職員から「学会のことを気にされていて、いろいろな資料を読んでメッセージを書かれた」と聞き、鎌田さんは「高齢になられても学会のことを心配されている」と感じたと振り返る。

 三笠宮さまは戦争の経験から歴史学を学ぶことの重要性を感じ、東大文学部の研究生となった。学生として知り合った中根千枝・東大名誉教授(社会人類学)は「研究姿勢などとても真面目な方だった。入院されていたので心配していた」と声を落とした。

 中根さんは「初めは普通の人だと思ったが、三笠宮さまが教室に入ると講師が最敬礼しており、皇族だと後になって知った」と振り返る。講義の内容について話し合ったり、ノートを貸し借りしたりする仲だった。

 宮邸や別荘に呼ばれることもあり、交際は長く続いた。「体を鍛えていたからか、健康的な方だった」と話した。【伊澤拓也、町田徳丈】


<三笠宮さまご逝去>市民との垣根低く 俳句に家庭多く詠み
毎日新聞 10/27(木) 22:37配信

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結婚から70年を迎えられた三笠宮さま、百合子さま=東京・元赤坂の三笠宮邸で2011年10月、宮内庁提供

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父の三笠宮崇仁(たかひと)さまが27日、亡くなられた。多くの人々と分け隔てなく交流し、学問や趣味に真摯(しんし)に取り組む三笠宮さまの姿は、周囲の人たちの胸に深く刻まれている。親しく接した人からは、自由で気さくな人柄を懐かしむ声も聞かれた。

 三笠宮さまは長年にわたり俳句を趣味とされ、妻の百合子さま(93)との合同句集を2冊出版した。2006年から約6年にわたって指導した毎日俳壇選者で俳人協会会長の鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)さん(86)は三笠宮さまの俳句を「格調高く、観察眼も素晴らしい。また新しく作られた俳句を拝見したかった。残念でならない」と惜しんだ。

 ご夫妻で俳句を始めたのは1948年。俳人の星野立子らの指導を受け、57年に初めての合同句集「初雪」を出版した。

 06年10月からほぼ毎月、鷹羽さんの指導を宮邸で受けた。句について鷹羽さんが意味などを尋ねると、三笠宮さまは資料を持ち出して説明することもあった。鷹羽さんは「学者らしい方だ」との印象を受けたという。

 鷹羽さんは秀作の句には朱で丸をつけた。ある日、鷹羽さんが「何かご質問などございますか」と尋ねると、三笠宮さまが「もっと丸がほしい」と冗談まじりに話したことがほほ笑ましい思い出だという。

 ご夫妻が結婚70年を迎えた11年10月、鷹羽さんは記念に句集を出版することを勧め、150句ずつを収録した「夕虹」が12年に出版された。「夕虹」に収められた三笠宮さまの句には家庭や家族を詠んだものが多い。「短日や戻れば我が家灯の点り」「女子高の卒業証書見せに孫」など温かみを感じさせる句が数多く収録されている。戦争体験を詠んだ句には「枯野ゆく匍匐(ほふく)前進せしむかし」や「残雪の中の演習忘れ得ず」などがある。

 鷹羽さんの指導は、12年に三笠宮さまが入院するまで続いた。時には、三笠宮ご夫妻の案内で赤坂御苑内を俳句を作るため、散策を楽しんだこともあったという。鷹羽さんは約6年の交流を振り返り「温かな雰囲気でもてなしを受け、貴重な思い出になった。『夕虹』を読み返して、殿下のお人柄を振り返りたい」と話していた。【高島博之】


<三笠宮さまご逝去>スキー発展に尽力
毎日新聞 10/27(木) 22:25配信

 27日に亡くなられた三笠宮さまはスポーツ界との関わりも深かった。スキーでは、毎年3月に札幌市で行われる宮様スキー国際競技会のうち、ノルディック複合の大会が「三笠宮杯」として行われている。

 1994年リレハンメル五輪の複合団体金メダリストで、北海道名寄市の阿部雅司特別参与・スポーツ振興アドバイザーは「高校3年の宮様大会で少年組ながら成年組を抑えて初優勝し、賜杯をいただいた。僕の人生できっかけの大会で思い入れが強い。スキー界に宮様が力を注いでいただいたので残念」と話した。98年長野五輪スキージャンプ団体金メダリストで、雪印メグミルクスキー部の原田雅彦監督は「スキーの発展に尽力いただいた。大変残念です」と語った。【江連能弘】


三笠宮さま、本葬は来月4日=喪主は妃の百合子さま―宮内庁
時事通信 10/27(木) 22:21配信

 宮内庁は27日夜、100歳で亡くなられた三笠宮さまの葬儀関連行事の日程を発表した。

 本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は来月4日、東京都文京区の豊島岡墓地で執り行う。

 同庁によると、斂葬の儀は三笠宮家の行事として執り行われる。喪主は三笠宮妃百合子さま(93)が務める。


<三笠宮さまご逝去>皇族減少、宮内庁「大きな課題」
毎日新聞 10/27(木) 22:17配信

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皇室の構成

 ◇政府内の議論は進まず

 三笠宮崇仁さまが逝去されたことに関し、宮内庁の山本信一郎長官は27日の定例記者会見で、皇族の減少が進んでいることについて「大きな課題。内閣でも検討いただいている状況だ」と述べた。政府は天皇陛下の生前退位などについての検討を優先し、皇族減少によって皇室が縮小しつつある問題への対応は先送りとなる見通しだ。

 皇位継承順位が5位だった三笠宮さまが亡くなったことにより、継承資格者は(1)皇太子さま(2)秋篠宮さま(3)秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま(4)常陸宮さま--となった。天皇陛下と皇族からなる皇室は19人になった。

 憲法は皇位を世襲と規定し、皇室典範は継承資格者について「皇統に属する男系の男子」としている。女性の皇族は「天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」と規定している。

 山本長官は会見で皇族が減っていることへの見解を問われ、「そういった皇統の問題がある。女性皇族が結婚されれば皇籍を離脱する。皇族が減少する問題が現在の皇室に存在しているとの認識は持っている。政治、内閣、国会の場で検討いただく問題」とした。

 一方、菅義偉官房長官は27日の記者会見で皇族減少問題に取り組む時期について「いたずらに検討を先延ばしするような問題ではない。それ以上のことを今の段階で申し上げることは控えたい」と述べるにとどめた。皇族減少問題を陛下の生前退位と同時に検討しない理由については「皇室制度についてはさまざまな議論がある。一緒にやると方向性を出すのに時間がかかり過ぎる」と説明した。

 皇室制度の改正を巡っては、2005年に小泉純一郎首相(当時)の有識者会議が女性・女系天皇を容認する報告書をまとめたが、翌年に秋篠宮ご夫妻に悠仁さまが誕生したことで棚上げになった。

 11年には民主党(当時)の野田佳彦首相(同)が女性皇族が結婚後も皇室にとどまる「女性宮家」創設の検討を始めたが、反対も根強く立ち消えになった。民進党内には「女性宮家の問題は女性皇族の年齢を考えるとゆっくりしていられない」(岡田克也前代表)と早急な検討を求める声がある。【山田奈緒、田中裕之】


<三笠宮さまご逝去>首相が哀悼の意
毎日新聞 10/27(木) 22:13配信

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衆院TPP特別委員会の冒頭、三笠宮崇仁さまのご逝去について、弔意を述べる安倍晋三首相=国会内で2016年10月27日午後1時5分、川田雅浩撮影

 安倍晋三首相は27日の衆院環太平洋パートナーシップ協定(TPP)特別委員会で、三笠宮崇仁さまの逝去について「誠に哀惜に堪えません」と述べ、弔意を表した。また、「国際親善やスポーツ、医療福祉等の分野にわたり、皇族として重要な役割を果たされ、行事にご臨席の際には関係者を励まされるなど国民と親しく接せられました」と語り、人柄をしのんだ。

 首相はまた、「昭和時代からの長きにわたり、昭和天皇及び天皇陛下を助けられ、国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました。国民と共に謹んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。【梅田啓祐】


100歳、平和願い…三笠宮さまがご逝去
読売新聞 10/27(木) 22:11配信

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新年の一般参賀で、訪れた人たちに手を振られる三笠宮さま(2013年1月2日)

 昭和天皇の末の弟宮で天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)親王殿下は、27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で逝去された。

 明治以降の皇族では最高齢の100歳だった。天皇、皇后両陛下や皇太子ご夫妻を始め、皇族方は同日、港区の三笠宮邸を相次いで弔問。大正、昭和、平成と生き抜き、平和と自由を重んじられた三笠宮さまとの別れを惜しまれた。

 宮内庁は27日午前10時半から加地隆治・宮務主管が記者会見し、三笠宮さまの逝去を発表した。

 同席した同庁の名川弘一・皇室医務主管によると、三笠宮さまは5月16日に急性肺炎で同病院に入院した際、心臓機能に低下が見られたため、退院せずに経過観察を続けていた。最近の容体は安定していたが、27日午前7時40分頃、徐々に心臓の拍動が遅くなるなど急変。同8時頃には心停止状態となり、同34分、妃殿下の百合子さまにみとられ、逝去が確認された。

 三笠宮さまは2006年頃、心臓の僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症と診断された。12年7月に急激に心臓機能が低下し、弁を修復する手術を受けられた。当時96歳の高齢者には異例の手術だったが回復し、15年12月2日に100歳の誕生日を迎えられた。

 三笠宮さまは1915年(大正4年)12月2日、昭和天皇、秩父宮、高松宮に続き、大正天皇と貞明皇后の第4皇子として誕生された。幼時の称号は澄宮(すみのみや)。32年(昭和7年)、学習院中等科4年を修了して陸軍士官学校、陸軍大学校に学び、先の大戦中は陸軍参謀などを務めた。

 戦後は大戦の反省に立ち、世の中を見つめ直すとの思いで中東などオリエント学者の道に進まれた。平和や自由を重んじ、大戦を「聖戦」と呼んだ軍部を批判。建国記念の日の制定に絡んだ「紀元節」復活の動きに学者の立場から反対されたこともあった。

 百合子さまとの間に寛仁さま、桂宮さま、高円宮さま、近衛寧子(やすこ)さん、千容子(まさこ)さんの3男2女をもうけられた。2002年11月に高円宮さま、12年6月に寛仁さま、14年6月には桂宮さまが亡くなり、3人の男子ともに先立たれた。

 三笠宮さまの逝去により、皇位継承権を持つ男性皇族は4人、皇族の方々は19人となった。昭和天皇の弟は3人とも亡くなられたことになる。

 天皇陛下は27日に予定していたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見を取りやめたほか、11月1日に予定していた園遊会も中止された。三笠宮妃殿下の百合子さまは27日から90日間、三笠宮、高円宮両家の他の皇族方は30日間、喪に服される。天皇陛下と、両家以外の皇族方も、同日から7日間喪に服されるという。

 宮内庁は28日午前9時から一般の記帳を受け付けると発表した。赤坂御用地内の三笠宮邸敷地内の仮設テントで午後7時まで。入退門は徒歩で南門から。


一般弔問記帳、28日から=三笠宮邸内で―宮内庁
時事通信 10/27(木) 19:59配信

 宮内庁は27日、亡くなられた三笠宮さまの一般からの弔問記帳を、28日以降、東京・元赤坂の三笠宮邸内仮設テントで受け付けると発表した。

 時間は28日から当分の間、午前9時から午後7時まで。徒歩で赤坂御用地の南門から入退場する。


<三笠宮さまご逝去>一般向け記帳所 28日から設置
毎日新聞 10/27(木) 19:45配信

 宮内庁は、28日から当面の間、赤坂御用地にある三笠宮邸内の仮設テントに一般向けの弔問記帳所を設けると発表した。希望者は午前9時から午後7時までの間に徒歩で御用地の南門から入る。


皇族や首相ら次々弔問=涙浮かべる記帳者も―三笠宮邸
時事通信 10/27(木) 19:09配信

 三笠宮さまが亡くなられた27日、住居のある赤坂御用地には、皇族や安倍晋三首相、閣僚らが次々と弔問に訪れ、慌ただしく人が出入りした。

 ゆかりの人なども記帳に駆け付け、周囲は悲しみに包まれた。

 天皇、皇后両陛下を乗せた車列は午後5時すぎに赤坂御用地に到着した。両陛下はともに喪服姿。天皇陛下はややうつむき加減で、口を真一文字に結び硬い表情だった。5時半ごろには、皇太子ご夫妻や秋篠宮ご一家も、車で御用地を後にした。

 その後、安倍首相や黒田東彦日銀総裁らも弔問に訪れた。

 逝去されたことを知り、タクシーなどで記帳に訪れる人も多かった。千葉県船橋市から記帳に来た女性(69)は「長らく入院されていて気掛かりでした。寂しいです」と話し、目に涙を浮かべた。「陸軍士官学校にいた父が約40年前に亡くなった時に、三笠宮さまから花とメッセージを頂いた。それが思い出です」とハンカチを握りしめ、悲しげに語った。


三笠宮さま薨去 両陛下、7日間ご服喪 秋の園遊会は中止、比大統領とのご会見も
産経新聞 10/27(木) 18:37配信

 宮内庁は27日、三笠宮さまが薨去(こうきょ)されたことを受け、天皇、皇后両陛下が同日から7日間、三笠宮妃百合子さまは90日間の喪に服されたと発表した。これに伴い、両陛下のご主催で11月1日に催される予定だった秋の園遊会を中止とした。

 また、天皇陛下が27日に予定していたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見は取りやめられた。秋元義孝式部官長を通じ、大統領に伝えられたという。


天皇陛下、比大統領にメッセージ=三笠宮さま逝去で会見中止
時事通信 10/27(木) 18:28配信

 天皇陛下は27日午後、予定されていたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見が三笠宮さま逝去のため中止になったことを受け、宮内庁の秋元義孝式部官長を通じて、大統領に「お会いすることがかなわず残念に思います」などとするメッセージを伝えられた。

 陛下は27日午後5時から、皇居・御所で大統領と会見する予定だった。秋元式部官長によると、メッセージは英文で、「大統領の日本での滞在が実り多いものであったことを希望します」などとする内容。今年1月に皇后さまとフィリピンを訪問した際の対応への感謝にも触れられていた。

 式部官長が午後4時ごろ、滞在先のホテルで直接メッセージを伝えると、大統領は真摯(しんし)な態度で聞き入り、「陛下の深い悲しみを共有するとともに、心から哀悼の意を表します。いつか陛下とお会いする機会があると確信しています」と応じたという。


両陛下、三笠宮邸を弔問
時事通信 10/27(木) 18:20配信

 天皇、皇后両陛下は27日午後、三笠宮さまの逝去を受け、弔問のため東京・元赤坂の赤坂御用地にある三笠宮邸を訪問された。

 皇太子ご夫妻ら皇族方も弔問に訪れた。

 三笠宮さまのご遺体は午前11時すぎ、聖路加国際病院を出て宮邸に戻った。両陛下を乗せた車は午後5時ごろ赤坂御用地に到着。両陛下は喪服姿で、硬い表情を浮かべたまま宮邸へ向かった。宮内庁によると、8分ほど滞在し、再び皇居に戻ったという。

 27日午後に定例記者会見を開いた宮内庁の山本信一郎長官によると、天皇陛下は同日朝、朝食を終えて皇后さまと新聞を読んでいた際に、名川弘一皇室医務主管から三笠宮さまの容体急変の報告を受けた。陛下はお見舞いができるかどうか尋ねたが、すぐに訃報が伝えられ、皇室の服喪期間や行事日程の変更を決めるなどの対応を取ったという。

 山本長官は「戦前から戦後の長きにわたって皇室活動やオリエント学の研究活動などにいそしまれ、大きな業績を挙げられて、長寿をされた殿下だった」と述べ、哀悼の意を表明した。


三笠宮さま薨去 衆参議長が謹話発表 「誠に痛惜の限り」「深い悲しみ」
産経新聞 10/27(木) 16:31配信

 大島理森衆院議長と伊達忠一参院議長は27日、三笠宮崇仁親王殿下が薨去(こうきょ)されたことを受け、それぞれ哀悼の意を表す謹話を発表した。

 大島氏は「学術の分野で大きな足跡を残されました。誠に痛惜の限りであります」とした上で「戦前戦後の苦難の時代を国民とともに歩まれた殿下の御意志を受け継ぎ、歴史の教訓を学び平和を希求する努力を続けていかなければならないと思います」とした。

 伊達氏は「言いようのない深い悲しみを覚えております」とした。


三笠宮さま 歴史ご探求 オリエントの宮さま 教壇に
産経新聞 10/27(木) 15:17配信

 大正天皇の第4皇男子で、27日に現皇室最高齢の100歳で薨去(こうきょ)された三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下。百合子妃殿下にみとられ、その生涯を閉じられた。戦前、戦中、戦後の混乱期と、激動の時代を生き抜き、高度経済成長やバブルの崩壊など、大きく移り変わるわが国の姿をつぶさに目撃してきた、まさに「歴史の生き証人」であられた。常に国民とともに歩む皇室であろうと願って公務に励まれた三笠宮さまの薨去を多くの国民が悼み、ご失意の百合子さまを気遣う天皇、皇后両陛下も深く悲しまれているという。

 三笠宮さまは、成人式の会場で若者たちにまじってダンスのステップを踏まれるなど、庶民的でフランクな人柄で知られた。旅行や登山、スケートなど趣味も幅広く、話題豊富な宮さまであられた。オリエント史の研究では皇族として初めて大学の教壇に立ち、テレビでも講義するなど「学者肌」の一面もあり、多彩な横顔をお持ちだった。

 幼少期についたニックネームは「童謡の宮さま」。

 〈月夜の空を雁飛びて 宮くん御殿でそれ見てる〉

 これは、6歳前後の頃に作詞した「月と雁」という童謡で、ほかにもいくつも作詞をされている。

 戦後は「学者皇族」の道を歩まれた。昭和22年に東京大学文学部の研究生となって歴史学の分野に進み、アジアの広い地域の歴史を学ぶオリエント史を研究され、「オリエントの宮さま」の名でも親しまれた。

 29年の日本オリエント学会創立を提唱し、会長にご就任。30年には皇族として初めて大学(東京女子大)の講師となり、東京芸術大、青山学院大などでも教壇に立ったほか、ラジオやテレビにもご出演。NHKの番組で古代史を講義するなど、学問を通じて若者を中心に多くの国民と交流を深められた。

 東京女子大への通勤はもっぱら国鉄(現JR)を利用された。学食では女子学生らと一緒に、しばしば1杯20円のきつねうどんを食べられ、メニューは「宮さまうどん」などと呼ばれるようになったという。

 公道で車の運転もされた。40年10月には東京・青山で、ブレーキを踏み外されてハイヤーに追突。3台の玉突き事故となり、警視庁赤坂署から道路交通法違反容疑などで書類送検されたこともある。これも皇族としては初のことだった。

 中近東文化センターと日本・トルコ協会では、ともに名誉総裁を務められてきた。同センターは54年、三笠宮さまのご発意により、古代中近東の研究機関として東京都三鷹市に創設され、トルコのカマン・カレホユック遺跡で発掘調査を進めてきた。

 三笠宮さまは、日本で開催される複数のトルコ関連の展覧会で総裁を務め、同国の奥の深い歴史を紹介するなど、両国の懸け橋となられてきた。数年前までは日本・トルコ協会の年次総会にも毎年のように姿を見せ、平成23年6月には懇親会での乾杯の発声で、「トルコと日本は、古くからたいへん友好関係を保持しておりまして、それは世界に誇っていいところじゃないかと思います」とあいさつされている。

 さまざまな学術団体や催しに関わるなどしてきた活動が評価され、国際平和と日本・トルコ間の国際親善に貢献した人物にトルコ政府から贈られる「アタチュルク国際平和賞」を元年にご受賞。受賞の際には「日本のトルコ関係者が一生懸命やっており、その代表者として賞をいただいたと解釈している」と喜びの気持ちを語られた。

 16年3月には、東京都豊島区の学習院創立百周年記念会館で「古代アナトリア文明について」と題した特別講演を行い、青銅器の生産によってアナトリア(現在のトルコ)の文化が発展した歴史を語られた。翌月にも、NHKのラジオ番組に出演し、歴史を語られている。

 イラクやトルコの古代遺跡をはじめ、エジプト、メキシコなど文明発祥の地を訪ね、研究資料も精力的に収集された。研究成果は本や論文にまとめ、発表をされている。


三笠宮さま薨去 気さくなお人柄悼む 関西ゆかりの地
産経新聞 10/27(木) 15:16配信

 高い教養と、気さくなお人柄で、誰からも愛されていた三笠宮さまを多くが悼んだ。

 古代オリエント史に詳しい三笠宮さまは昭和35年から平成2年まで天理大(奈良県天理市)で教壇に立ち学生らに宗教史などを教えられた。飯田照明名誉教授(87)は「講義が終わると学生に『よく聞いてくれてありがとう』と必ず声をかけられていたのが印象に残っています」と語る。

 三笠宮さまが平成16年に名誉顧問に就任された岡山市立オリエント美術館(岡山市北区)。元館長の植田心壮さん(87)は美術館の開館直後に三笠宮さまからお手紙を受け取った。《ますますの発展を願う》。そう記されていたという。「手が震えたのと同時に活動の励みになりました」と振り返る。

 学習院初等科で天皇陛下のご学友だった臨済宗相国寺派の有馬頼底(らいてい)管長も、三笠宮さまのご提唱により設立された日本オリエント学会などでお会いしたことがあるという。「立派な方で偉ぶるということがありませんでした」

 三笠宮さまは平成14年3月、兵庫県芦屋市で開かれたトルコでの発掘品収納・展示施設建設を支援する講演会に出席された。実行委員長を務めた森房子さん(70)は歴史的資料の保存の重要性を熱く語られていたのを覚えている。「当時はすでに80歳を超えておられたが、元気に話されていたのを思いだします」と語る。

 日本スクエアダンス協会の総裁も務められていた三笠宮さま。大津市で昭和55年に開催された「全日本スクエアダンスコンベンション」では、会員らとのダンスにも参加されたという。

 当時小学校5年生だった水野千尋さん(47)は「笑顔で『今日はよろしく』と話しかけられたのを覚えています。母や姉が一緒に踊らせていただき楽しそうでした」と話した。

 香淳皇后の実弟・故東伏見慈洽(じごう)師の息子で、三笠宮さまの遠縁にあたる青蓮院(しょうれんいん)門跡(京都市東山区)の東伏見慈晃(じこう)門主は「親しみを感じる方だった。戦後の皇室の未来を一番に考えられた方だったように思う。気さくで高い教養のある方だった」と語る。

 皇室とのゆかりが深い泉涌寺(同区)では、昭和41年に寺の維持のために「御寺泉涌寺を護(まも)る会」が結成された際、三笠宮さまが初代総裁に就任された。平成8年に退任するまで毎年必ず、京都で開かれる総会に出席されていたという。藤田浩哉寺務長は「護持にご尽力賜り感謝の念に堪えません」とコメントした。


三笠宮さま ご子息3方に先立たれ
産経新聞 10/27(木) 15:15配信

 三笠宮さまは5人のお子さまにお恵まれになった。3人の親王方はいずれも独立してそれぞれの道を歩み、精力的に公務に取り組まれた。しかし、平成14年11月に三男の高円宮さまが室内球技のスカッシュ中に突然倒れ、心室細動のため47歳の若さで薨去(こうきょ)された。約10年後の24年6月には、度重なるがんの手術を乗り越えてきた長男の寛仁(ともひと)親王殿下も薨去された。

 三笠宮さまは、寛仁さまの本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」に車いすでご参列。非常に悲しみ、涙を流されていたという。

 次男の桂宮さまは昭和63年5月に宮邸の寝室で倒れ、右半身まひなどの障害が残り、長年、車いすでご生活。平成20年9月に敗血症を発症してからは懸命の闘病生活を送っていたが、26年6月に薨去されている。三笠宮さまは不幸にも、ご子息3方全員に先立たれる結果となられた。


「生前退位」ご提案 皇室典範 三笠宮さま私案
産経新聞 10/27(木) 15:14配信

 三笠宮さまは昭和21年、現行の皇室典範の審議にあたって、天皇が自らの意思で「退位」できるよう求める「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」という私案をまとめられている。

 崩御のみを譲位の条件とするのではなく、まさに天皇陛下が意向を示されている「生前退位」を提案された内容だ。

 皇室典範は天皇や皇太子の成年を18歳とするなどとする一方で、結婚には「皇室会議の議を経ること」などの制限を課している。結局、当時の政府は典範改正案が昭和天皇の裁可をすでに得ていたことを根拠に、三笠宮さまの私案を改正典範に反映させることを見送ったが、三笠宮さまが戦後間もない段階で、問題意識をお持ちだったことがよく分かる。


三笠宮さま逝去で謹話=衆参議長
時事通信 10/27(木) 14:59配信

 大島理森衆院議長は27日、三笠宮さまの逝去について「誠に痛惜の限りであります。戦前戦後の苦難の時代を国民とともに歩まれた殿下のご意志を受け継ぎ、歴史の教訓を学び、平和を希求する努力を続けていかなければならないと思います」との謹話を発表した。

 伊達忠一参院議長は謹話で「この訃音に接し、言いようのない深い悲しみを覚えております。殿下のみ霊の安らけく静まりますことを心より祈念するものでございます」と述べた。


三笠宮さま薨去 安倍晋三首相「哀惜の意を表します」
産経新聞 10/27(木) 14:22配信

 安倍晋三首相は27日の衆院環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)特別委員会で、三笠宮崇仁親王殿下が薨去(こうきょ)されたことについて「国民は殿下の一層のご長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去されましたことは、誠に哀惜に堪えません。国民とともに謹んで心から哀悼の意を表します」と述べた。

 自民党の宮川典子氏への答弁。


三笠宮さま薨去 宮内庁会見(下)両陛下に「心停止」「薨去」をご報告
産経新聞 10/27(木) 13:50配信

 --息を引き取られたときは、百合子さまとお二方ということか。その後に駆け付けられた皇族方は

 加地氏「承知してないのでお話しできない状況です」

 --亡くなるまでは百合子さましか間に合われていない

 加地氏「百合子妃殿下が付き添われて薨去されたということでございます」

 --宮内庁関係者は

 加地氏「それはちょっと今は…。薨去あそばされたときに宮内庁関係者が誰がいたか正確に申し上げられないので控えたいと思います」

 --斂葬の儀などの今後の流れは

 加地氏「具体的なご日程を詰めています。そういったことが固まりましたら改めて皆さまにお知らせします。できるだけ早く決めなければいけないので、決まり次第ということに」

 --両陛下のお耳にはもう届いている

 加地氏「それはそうです」

 --何時ぐらいに報告された

 名川氏「8時の心停止が起こってすぐに第一報を入れまして、8時34分に薨去された後もすぐに連絡をいれてございます」

 --そのときのご様子は

 名川氏「侍従を通じて伝えたので、どういうご様子だったかは承知していません」

 --2回とも侍従を通じて

 名川氏「はいそうです」

 --最近は容体が安定してたということだが、お過ごしようを教えてほしい

 名川氏「そのときどきによって、お眠りになっていたり、お声かけにうなずかれたりというような状況がございました。血圧についても安定していて、そのときの状況が許すようであれば、少し手足を動かしていただいたりとか。そういったお過ごしようでした」

 --最後の会話の相手はどなた。内容は

 名川氏「7時40分ごろということですか?」

 --それ以前でも意味のあるやり取りは

 名川氏「多分、前日には百合子さまとお話されているんではないかなと。意思の疎通ができていました」

 --最後は、安らかに静かに亡くなられたのか

 名川氏「苦しまれたという話は担当医から入っていません」

 --8時前後に心停止ということだが、それをもって死亡確認とせず、8時34分に確認というのは34分までの間の時間は生命反応があるのか

 名川氏「死亡確認を行ったのが34分」

 --実質的に亡くなったのは8時?

 名川氏「実質とか形式ということではなく、死亡の定義は医師が三兆候を確認したときをもって死亡なので、心臓が停止したから死というわけではありません」

 --その30分間はどんな時間だったのか

 名川氏「百合子さまが病室にいらっしゃるようなお時間が主でした」

 --百合子さまが、三笠宮さまのお部屋に入られたのは何時

 名川氏「推測ですが8時30分前ではないでしょうか。死亡確認が行われたのが34分ですから」

 --急変の連絡を受けて病室に

 名川氏「そうですね」

 --百合子さまのご入院は

 名川氏「百合子さまの件はずれるので、お許しいただければ」

 --百合子さまのご様子は

 「それは存じ上げておりません」

 --殿下は100歳。これだけの長寿を保たれていた理由は

 名川氏「肉体的に、通常の方という言い方は失礼だが、通常の健康な方より上回って、ご健康な状況を保てるだけの体力がもともと若い頃からおありだったのだろうと思います」

 --日常生活で気を配られていたことは

 名川氏「毎日ご運動を欠かしませんでした。宮邸にいるときは毎日されていました」

 --散歩とか、筋力トレーニングとか

 名川氏「両方ですね」

 --6月ごろ、リハビリをされているという説明があった。足腰のリハビリはいつまでやられていたのか

 名川氏「リハビリにも幅がございます。手足を動かされるということなら、つい最近までおやりになっていました」

 --昨日も?

 名川氏「それは分かりません。三笠宮さまがどういうご状況かというイメージでいうと、ベッド上で絶対安静で、少し動いたらまずい、ということではありませんでした」

 --7時40分ごろまでは、いつも通りに過ごされていたのか

 名川氏「通常通り」

 --朝食も召し上がったのか

 名川氏「通常通りでございます」

 --時間は

 名川氏「そこは承知していません」

 --起床された時間は

 名川氏「承知しておりません」


秋の園遊会中止、宮内庁発表…三笠宮さま逝去で
読売新聞 10/27(木) 13:37配信

 宮内庁は27日、三笠宮さまの逝去に伴い、11月1日に予定されていた秋の園遊会を中止すると発表した。

 また、妃殿下の百合子さまは27日から90日間、三笠宮、高円宮両家の他の皇族方は30日間、喪に服される。天皇陛下と、両家以外の皇族方も、同日から7日間、喪に服されるという。


三笠宮さま薨去 両陛下は7日間ご服喪 秋の園遊会はお取りやめ
産経新聞 10/27(木) 13:31配信

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宮内庁外に掲げられた弔旗=27日、宮内庁(伴龍二撮影)(写真:産経新聞)

 宮内庁は27日、三笠宮崇仁親王殿下の薨去を受け、天皇、皇后両陛下が同日から7日間の喪に服されたと発表した。これに伴い、両陛下が主催されて11月1日に催される予定だった秋の園遊会も取りやめる。

 皇太子ご一家、秋篠宮ご一家、常陸宮ご夫妻も7日間の喪に服される。三笠宮妃百合子さまは90日間、寛仁親王妃信子さま、三笠宮家の彬子さま、瑶子さま、高円宮ご一家は30日間それぞれ服喪される。


秋の園遊会取りやめ=両陛下ら服喪―三笠宮さま逝去
時事通信 10/27(木) 13:12配信

 宮内庁は27日、三笠宮さまの逝去を受け、11月1日に東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれる予定だった天皇、皇后両陛下主催の秋の園遊会を取りやめると発表した。

 両陛下と皇族方はいずれも27日から喪に服されるという。同日午後予定されていた天皇陛下とフィリピンのドゥテルテ大統領との会見は中止になった。

 同庁によると、服喪の期間は両陛下と皇太子ご一家、秋篠宮ご一家、常陸宮ご夫妻が7日間、三笠宮妃百合子さまが90日間、寛仁親王妃信子さまと三笠宮家の彬子さま、瑶子さま、高円宮妃久子さま、長女承子さま、三女絢子さまがそれぞれ30日間。

 秋の園遊会には、各界の功績者や自治体関係者ら約2200人が招かれていた。招待者にはレスリング女子で五輪4連覇を達成し、国民栄誉賞を受賞した伊調馨選手をはじめとするリオデジャネイロ五輪の金メダリストや、俳優の北大路欣也さんらが含まれていた。


<三笠宮さまご逝去>秋の園遊会を中止 宮内庁発表
毎日新聞 10/27(木) 13:11配信

 宮内庁は27日、三笠宮崇仁さまの逝去を受け、11月1日に東京都港区の赤坂御苑で予定していた秋の園遊会を中止すると発表した。


<三笠宮さまご逝去>九州・山口に足跡 宮崎神宮でお手植え
毎日新聞 10/27(木) 13:04配信

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市制100周年記念事業で訪れた山口県下関市の火の山を散策する三笠宮ご夫妻=山口県下関市で1989年4月17日

 三笠宮崇仁さまは、九州・山口でも各地に足跡を残され、1945年3月と55年11月に宮崎市の宮崎神宮を参拝。55年には境内に杉の木を「お手植え」した。

 69年には、現在、世界遺産登録を目指している福岡県宗像市の沖ノ島(宗像大社沖津宮)の第3次学術調査を視察。宗像大社によると、その時に島の本殿横に槙(まき)の木を植えた。

 75年の歌会始では、「沖ノ島 森のしげみの 岩かげに 千歳ふりにし 神祭りのあと」と詠み、同年10月、百合子さまと共に宗像大社辺津宮(へつみや)を参拝。歌の直筆の石碑が、今も境内の神宝館付近に建てられており、宗像大社は毎年、宮中に献上するワカメを三笠宮家にも届けるなどした。

 74年11月に佐賀県唐津市で開かれた全国レクリエーション大会には、日本レクリエーション協会総裁として出席。その際、市内の唐津神社を参拝し、同神社の秋季例大祭「唐津くんち」も見学した。その時の情景を百合子さまは翌年の歌会始で詠み、77年には神社近くに歌碑も建立された。

 中近東文化センター総裁を務めていた89年4月には山口県下関市の美術館で市制100周年を記念して開催中のトルコ展を鑑賞。市内の景勝地、火の山も散策した。92年5月には長崎県佐世保市の「ハウステンボス」開業式典に出席し、テープカットした。【青木絵美、山下俊輔】


<三笠宮さまご逝去>冗談とユーモアで周囲なごませ
毎日新聞 10/27(木) 12:58配信

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天理大付属天理参考館を訪れた際の三笠宮さま(手前左)=奈良県天理市で2001年10月29日、最上聡撮影

 歴史の講義や公務で関西を訪れていた三笠宮崇仁さま。冗談とユーモアで周囲をなごませていたという。温かな人柄に接した関係者は思い出を振り返り、悼んだ。

 三笠宮さまは1960~90年、奈良県天理市の天理大で、集中講義「世界宗教史」の非常勤講師として十数回教壇に立った。2001年10月には、考古資料などを集めた天理大付属天理参考館の移築披露式典にも出席された。三笠宮さまが設立に尽力した日本オリエント学会理事の巽善信・同館学芸員(57)は「講演で三笠宮さまは『日本が敗戦した時、なぜこんな国になったのか、見つめ直したいと思った。中国について学ぶうち、オリエントにたどり着いた』と話していた。学会後の懇親会で自己紹介すると、若い私に『おお』と親しげに話しかけてくれた。威張った感じのない気さくな人だった」と振り返った。

 関西オリエント協会会長の打間(だま)奈津子さん(71)=神戸市中央区=は30年来、三笠宮さまと親交を結んできた。打間さんは「『動物園を見たことがない』と言うので、今はない阪神パークにお連れした。園内で非常に喜ばれていたことを覚えている」と振り返る。冗談が好きで、会う人の緊張をほぐそうと気を使われていた三笠宮さま。打間さんは「神戸を愛する三笠宮さまと、イスラム教やユダヤ教の寺院や教会を巡り、生田神社にも行った。思い出は尽きず、とてもつらい」としのんだ。

 三笠宮さまは2012年、96歳で心臓手術を受けられたが、執刀医を務めた関西医科大総合医療センター(大阪府守口市)の川副浩平特命教授は手術の翌年、13年に東京都内の宮邸で食事会に招かれた。その際、三笠宮さまが戦争中の話をされていたのが印象に残っているという。川副さんは「中国で上官に叱られた話や『フォークダンスを広めたのは自分だ』という話をされていた。食事後に宮邸を散歩したり、最後も立って見送ってくださったりしたので、術後の経過も問題ないと思っていた。100歳を超え、もっと長生きしてほしかった」と悼んだ。【矢追健介、栗田亨、米山淳】

 ◇「日本の行く末を見てほしかった」

 福井地震から50年の1998年6月28日、福井市で開かれた世界震災都市会議に合わせ、開催された犠牲者追悼式に、三笠宮さまも臨席され、福井市長だった酒井哲夫さん(82)が応対した。復興した震災当時の姿を残す市中心部の三井住友信託銀行福井支店を案内したが、震災直後に被災地を訪れ、市民を激励していた三笠宮さまは「よく復興した。立派な都市になった。よく頑張ってこられました」と当時を懐かしんだという。酒井さんは「いつも国民を思いやり、激動の時代だった日本を案じる方だった。もっと長生きされて、日本の行く末を見てほしかった。ご冥福をお祈りしたい」と話した。


三笠宮さま薨去 宮内庁会見(上)午前7時40分ごろにご容体急変 百合子さまが病室で看取られ
産経新聞 10/27(木) 12:44配信

 宮内庁は27日午前10時半すぎ、加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまが薨去されたことを正式に発表した。主なやり取りは以下の通り。

 加地氏「崇仁親王殿下には本日、午前8時34分、聖路加国際病院において薨去されました。謹んで哀悼の意を表する次第であります」

 名川氏「崇仁親王殿下におかれましては、急性肺炎のために5月16日に、ご入院となったわけでございますが、急性肺炎が一つの契機となりまして、ご年齢による心機能の低下が進行した状況になった状況であります」

 「聖路加国際病院の循環器内科、感染症科の医師を中心に懸命の治療が行われた結果、ここしばらくは安定されたご状況でしたけども、やはりご年齢からくる心機能の低下の進行に対してはいかんともしがたく、崇仁親王殿下におかれましては、本日午前8時34分に薨去されました」

 --三笠宮さまはいつごろまで会話ができ、意識はいつまでおありだったのか。容体急変までの経緯を教えてほしい

 名川氏「親王殿下におかれましては今朝の午前7時40分ごろまでは安定されたご状況にありました。7時40分すぎから心臓の拍動が徐々に遅くなるという、医学用語では『徐脈』という状況になり、8時前後ごろに心停止のご状況となられた。7時40分から徐々にということですが、これまでの経緯を見ますと急変と言えるかと存じます」

 --7時40分すぎに何かきっかけはあったのか

 名川氏「聞いていません」

 --意識はいつごろまでおありに

 名川氏「7時40分まで」

 --死因は

 名川氏「心不全でございます」

 --立ち会われていた方は

 名川氏「百合子妃殿下が薨去あそばされたときにおられたということでございます」

 --ご夫婦での最後の時間は

 名川氏「詳細なことは承知していません」

 --百合子さまは検査入院されていたと思うが、どういう形で伝わったのか

 名川氏「病院にいらっしゃったと認識しています。たまたまですけど、ご検査のためにご入院されていたという状況のときに、今回のことが起きて、百合子妃殿下にはすぐに状況が伝えられて、崇仁親王殿下がいらっしゃる病室にいらしたという風に認識しています」

 --最近は集中治療室にいらっしゃったのか

 「部屋の詳細は申し上げられないが、基本的にはどういうことでも対応できるようなお部屋に入院されていました」

 --百合子さまは昨日検査入院され、知らせがあったときはお休みになっていたのか

 名川氏「お休みかは存じ上げません」

 --心停止の後に蘇生措置は取られたのか

 名川氏「蘇生措置が取られたとは聞いておりません」

 --ご遺体はどれぐらいのお時間で宮邸に

 加地氏「その点についても詰めているというか、正式には決定に至っておりません」

 --薨去まで時間があったが、皇族方が駆けつけられたのか

 加地氏「それは承知していません」

 --5月に入院されてからのおおまかな流れを

 名川氏「5月16日から4週間ほどは、呼吸器の感染症ですので、急性肺炎に対して抗生物質を中心に治療が行われました。急性肺炎が徐々に軽快するに従って、ご年齢からくる心臓の働きの低下が明らかになり、治療の主体が呼吸器感染症から心機能の低下をいかにしたら元に戻せるかという心臓の治療に。その後、6月中旬から今日まで心機能低下に対しての治療が中心でした」

 --心機能の低下は病名とかがあったのか

 名川氏「基本的には慢性的な心不全ですから、病名を付けるとしたら慢性心不全ということになるのでしょうけど、今回発表になっているのは担当医が話している言葉としては『心不全』ということです。慢性的な心不全の状況ではおありになりました」

 --死亡診断書では慢性心不全

 名川氏「心不全」

 --ペースメーカーの治療もされていたと思うが、時期はいつから

 名川氏「一つ一つの処置、点滴はいつとか、ペースメーカーを入れたのはいつかとか、呼吸器のサポートはいつかとか、一つ一つの処置についてはたくさんございますし、医学的な詳細な事項になることもあるので…」

=(下)に続く


三笠宮さま薨去 激動の時代を生き抜かれ 歴史ご探求「学者肌」の一面も
産経新聞 10/27(木) 12:39配信

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三笠宮殿下(写真:産経新聞)

 大正天皇の第4皇男子で、27日に現皇室最高齢の100歳で薨去(こうきょ)された三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下。百合子妃殿下にみとられ、その生涯を閉じられた。戦前、戦中、戦後の混乱期と、激動の時代を生き抜き、高度経済成長やバブルの崩壊など、大きく移り変わるわが国の姿をつぶさに目撃してきた、まさに「歴史の生き証人」であられた。常に国民とともに歩む皇室であろうと願って公務に励まれた三笠宮さまの薨去を多くの国民が悼み、ご失意の百合子さまを気遣われる天皇、皇后両陛下も深く悲しまれている。

 三笠宮さまは、成人式の会場で若者たちにまじってダンスのステップを踏まれるなど、庶民的でフランクな人柄で知られた。旅行や登山、スケートなど趣味も幅広く、話題豊富な宮さまであられた。オリエント史の研究では皇族として初めて大学の教壇に立ち、テレビでも講義するなど「学者肌」の一面もあり、多彩な横顔をお持ちだった。

 幼少期についたニックネームは「童謡の宮さま」。

 〈月夜の空を雁飛びて 宮くん御殿でそれ見てる〉

 これは、6歳前後の頃に作詞した「月と雁」という童謡で、ほかにもいくつも作詞をされている。

 戦後は「学者皇族」の道を歩まれた。昭和22年に東京大学文学部の研究生となって歴史学の分野に進み、アジアの広い地域の歴史を学ぶオリエント史を研究され、「オリエントの宮さま」の名でも親しまれた。

 29年の日本オリエント学会創立を提唱し、会長にご就任。30年には皇族として初めて大学(東京女子大)の講師となり、東京芸術大、青山学院大などでも教壇に立ったほか、ラジオやテレビにもご出演。NHKの番組で古代史を講義するなど、学問を通じて若者を中心に多くの国民と交流を深められた。

 東京女子大への通勤はもっぱら国鉄(現JR)を利用された。学食では女子学生らと一緒に、しばしば1杯20円のきつねうどんを食べられ、メニューは「宮さまうどん」などと呼ばれるようになったという。

 公道で車の運転もされた。40年10月には東京・青山で、ブレーキを踏み外されてハイヤーに追突。3台の玉突き事故となり、警視庁赤坂署から道路交通法違反容疑などで書類送検されたこともある。これも皇族としては初のことだった。

 中近東文化センターと日本・トルコ協会では、ともに名誉総裁を務められてきた。同センターは54年、三笠宮さまのご発意により、古代中近東の研究機関として東京都三鷹市に創設され、トルコのカマン・カレホユック遺跡で発掘調査を進めてきた。

 三笠宮さまは、日本で開催される複数のトルコ関連の展覧会で総裁を務め、同国の奥の深い歴史を紹介するなど、両国の架け橋となられてきた。数年前までは日本・トルコ協会の年次総会にも毎年のように姿を見せ、平成23年6月には懇親会での乾杯の発声で、「トルコと日本は、古くからたいへん友好関係を保持しておりまして、それは世界に誇っていいところじゃないかと思います」とあいさつされている。

 さまざまな学術団体や催しに関わるなどしてきた活動が評価され、国際平和と日本・トルコ間の国際親善に貢献した人物にトルコ政府から贈られる「アタチュルク国際平和賞」を元年にご受賞。授賞の際には「日本のトルコ関係者が一生懸命やっており、その代表者として賞をいただいたと解釈している」と喜びの気持ちを語られた。

 16年3月には、東京都豊島区の学習院創立百周年記念会館で「古代アナトリア文明について」と題した特別講演を行い、青銅器の生産によってアナトリア(現在のトルコ)の文化が発展した歴史を語られた。翌月にも、NHKのラジオ番組に出演し、歴史を語られている。

 イラクやトルコの古代遺跡をはじめ、エジプト、メキシコなど文明発祥の地を訪ね、研究資料も精力的に収集された。研究成果は本や論文にまとめ、発表をされている。


「穏やかな方、残念」=青い車で自宅へ―入院先病院・三笠宮さま逝去
時事通信 10/27(木) 12:38配信

 三笠宮さまが亡くなられた27日、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院には多くの報道陣が詰め掛け、通院患者らも「とても穏やかな方。残念です」などと、その死を悼んだ。

 三笠宮さまのご遺体を乗せた青い霊きゅう車は午前11時すぎ、同病院を出発。白バイに先導され、前後を黒塗りの車に挟まれて自宅のある赤坂御用地に向かった。病院で最期をみとった同妃百合子さまも、その約30分前に、硬い表情で車に乗り、病院を離れた。

 病院近くに住む上利子さん(61)は「ここに入院されているとは聞いていたが、亡くなられたのは残念です。テレビでお姿を拝見し、とても穏やかな方と感じていました」と悲しげ。同病院に通院する蛭川悦子さん(85)は「長生きされたとは思いますが、寂しいです。戦争を語れる方がだんだん少なくなってきて、昭和が歴史になってしまう気がします」と、しみじみと語った。

 赤坂御用地には弔問に訪れる人や車が次々と出入りし、慌ただしい雰囲気に包まれた。弔問を済ませたとみられる寛仁親王妃信子さまは、午後0時半ごろ、車で御用地を後に。窓を開け報道陣に黙礼したが、硬い表情は崩さなかった。


<三笠宮さまご逝去>ダンススポーツ発展に尽力
毎日新聞 10/27(木) 12:14配信

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スクエアダンス・パーティーに参加された三笠宮さま=1950年ごろ撮影

 三笠宮崇仁さまはダンスに明るく、1980年から日本アマチュアダンス協会(現・日本ダンススポーツ連盟)の総裁を務めた。81年に三笠宮杯10カップダンス選手権として創設された三笠宮杯全日本ダンススポーツ選手権(毎日新聞社特別後援)は国内最高峰の競技会として知られ、現在も大会名誉総裁を務めていた。

 日本ダンススポーツ連盟の内山雅允(まさみつ)事務局長は「三笠宮さまはフォークダンスなどダンス全般に造詣が深く、ダンスがお好きだった」といい、数年前まで大会の途中に会場を訪れて競技の様子に見入る姿があった。今月9日に開かれた第36回全日本選手権のセレモニーでは、三笠宮さまが妻の百合子さま(93)とともに散歩する最近の映像や、かつて大会に出席された際の写真などを会場に映し出したという。

 内山事務局長は「長年にわたり、ダンススポーツの発展にお力添えをいただいたことに感謝申し上げたい」と語った。【大谷津統一】


<三笠宮さまご逝去>飾らぬ素顔 カラオケやドラマ楽しむ
毎日新聞 10/27(木) 12:09配信

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3人のお孫さまに囲まれる三笠宮さま=長野県軽井沢町で2014年8月(宮内庁提供)

 三笠宮崇仁さまと40年以上の交流のある歴史学者の小林登志子さん(67)は「迎合せず、ご自身で確かめ、判断する方だった」と声を震わせていた。

 三笠宮さまは戦後、歴史学を研究し、紀元節を「建国記念日」として復活させようとする動きに反対の立場を取った。「皇族らしくない」と批判を受けたこともあるが、小林さんは「客観的に歴史的事実ではないという立場で反対されていたのであって、批判は的外れ」と話す。小林さんは三笠宮さまが神社の前を通りかかる時、鳥居の前で拝礼していた姿を思い出す。「皇室の祭祀(さいし)を大切にされていた」と話す。

 小林さんは三笠宮さまが会長を務めた日本オリエント学会の事務局に勤め、三笠宮さまの著書の校正を担当した。たびたび宮邸を訪れるなど「素顔」を知る一人だ。小林さんによると、三笠宮さまは演歌が好きで、石川さゆりさんのファンだったという。親しい仲間が集まった時のカラオケで、村田英雄さんの「王将」を歌ったこともあったという。

 百合子さまとの仲むつまじい姿もよく見かけた。2015年春に宮邸を訪ねた際、好きなテレビ番組を尋ねると、ご夫妻が刑事ドラマの「相棒」と答えたという。

 小林さんは、今年3月にも宮邸を訪れた。兄である昭和天皇から戦時中に贈られた馬のことが話題になると、三笠宮さまは「陛下からいただいた馬だから大切に乗っていた」と話していたという。【高島博之】


三笠宮さま薨去 自民・小此木八郎国対委員長代理「ご冥福をお祈りする」
産経新聞 10/27(木) 12:06配信

 自民党の小此木八郎国対委員長代理は27日午前の記者会見で、三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)されたことに関し「急な知らせだった。ご冥福をお祈りする」と述べた。

 同日朝の党国対幹部会議では出席者全員で黙祷(もくとう)をささげ、弔意を表した。


<三笠宮さまご逝去>平和願い歴史探究 最後の皇族将校
毎日新聞 10/27(木) 12:05配信

 昭和天皇の末弟、三笠宮崇仁(たかひと)さまが27日、100歳の生涯を閉じられた。日本軍将校として太平洋戦争に関わったことのある最後の皇族だった。その体験をもとに、戦後は折に触れて平和の存続を願う思いを表現した。学問を通じて若者と交流したり、テレビやラジオに出演したりして親しまれた。【高島博之】

 「若杉参謀」。1943(昭和18)年1月から1年間、中国・南京の派遣軍総司令部に勤務した頃の三笠宮さまの呼び名だ。皇族であることを隠すために「お印」の若杉から付けられた偽名だった。当時、軍内部で聞いた話として、捕虜を銃剣で突くことや、毒ガスを使った生体実験を日本軍がしていたことを著書に記している。「『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあった」とショックを覚えたことをつづっていた。

 また、終戦を迎えた時の気持ちを、著書の中で「わたくしは、それまでの不自然きわまる皇室制度--もしも率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄(ろうごく)』--から解放されたのである」と記した。

 戦後、歴史研究の道に進んだ理由については「過去のあらゆるものに失望し、信頼をなくしていたわたくしは、すべてを新しいもののなかから探しもとめねばならなかった」「わたくしは、当時心に抱いていた疑問を、歴史の研究によって解こうといちずに思いつめたのである」と明かしていた。

 天皇の神格化に関係する祝日として48年に廃止された2月11日の祝日「紀元節」を復活させることに反対した。57年に建国記念日として復活させる法案が議員立法で国会に提出されたが、同年11月13日付の毎日新聞は、三笠宮さまが紀元節復活について「この問題は純粋科学に属することであり、右翼、左翼のイデオロギーとは別である」と歴史学者の立場で発言したことを伝えている。「建国記念の日」を設ける改正祝日法は66年に国会で成立し、67年から適用された。

 飾らない人柄が人々から親しまれた。東京女子大で講師を務めた際には、食堂で学生らと一緒に食事をしたり、フォークダンスを楽しんだりした。テレビやラジオの番組で、専門の古代オリエント史について語ったこともあった。

 歴史研究や公務を支え続けたのは41年に結婚した百合子さま(93)だった。東大の研究生となった三笠宮さまが公務で授業に出られなかった際には、友人のノートを百合子さまが写したという。

 2015年12月2日に100歳となられた感想を「これまでと何ら変わることはありません。世界中の人々の幸せを願い、また、70年以上にもわたり私を支えてくれている妻百合子に感謝しつつ、楽しく穏やかな日々を過ごしていきたいと思います」と公表した。

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