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2016年7月29日 (金)

ピアニストの中村紘子さんが死去

世界的ピアニスト、中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが7月26日に大腸がんのため死去した。29日の各紙で報じられた。72歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫で作家、庄司薫(しょうじ・かおる=本名・福田章二)氏。後日、お別れの会を行う予定。

中村紘子さんは山梨県生まれ。幼時からピアノを習い、全日本学生コンクールの小学生、中学生部門で続けて優勝して「天才少女」として知られた。1959年日本音楽コンクールで史上最年少で第1位特賞を受賞、翌年にはNHK交響楽団などと共演した。
その後、米ニューヨークのジュリアード音楽院へ留学。65年の第7回ショパンコンクール(マルタ・アルゲリッチ優勝)で、日本人としては10年ぶり二人目の入賞(4位)と最年少賞を受けた。
以降、日本の代表的トップピアニストとして国内外で演奏活動を展開。古典派からロマン派に至るレパートリーを軸に、華麗な技巧と豊かな感情表現で多くの聴衆を魅了した。

リンク:<お別れの会>中村紘子さん=9月12日、サントリーホール - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:9月12日にピアニスト中村紘子さんのお別れの会  - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:故中村紘子さん(ピアニスト)のお別れの会 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニスト、中村紘子さんの音色は永遠/芸能ショナイ業務話 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん 急逝前夜もともに過ごした夫が語った闘病2年半 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん 亡くなる前日に病院を抜け出して夫の庄司薫氏と過ごす - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さんのピアノ人生、盤歴からみる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「中村紘子」は唯一無二のピアニストだった - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子が逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニスト中村紘子さん死去 熊本地震にメッセージも - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニスト中村紘子が死去、5月8日のリサイタルが最後の公演に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:世界的ピアニスト・中村紘子さん死去 72歳、大腸がん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:華やぎと真摯、併せ持つ=逆境にうせぬ向日性―中村紘子さん死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さんが死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん、最後まで復帰に執念…夫に夢語る - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん死去 世界的ピアニストCMでもおなじみ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:世界的ピアニスト、中村紘子さん死去 数多くの国際コンクールで審査員 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん死去 前日まで新しい奏法に意欲も…72歳で - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん死去 前日まで新しい奏法に意欲も…72歳で - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去 大腸がんで72歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん死去 CMに、情報番組に…。気さくな人柄、クラシック広げる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子さん死去 「もう一度モーツァルト聞きたかった」夫の庄司薫さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:デビュー50周年記念の中村紘子さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:亡くなった中村紘子さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去=ショパンコンクール入賞―72歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:夫・庄司薫さん、中村紘子さん死去に「残念です」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>国際的ピアニストの中村紘子さん死去、72歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニスト・中村紘子さんが死去 72歳、大腸がん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:中村紘子、逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去 大腸がんで闘病も…72歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:人気ピアニスト、中村紘子さん死去…文筆活動も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ピアニストの中村紘子さん死去 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

<お別れの会>中村紘子さん=9月12日、サントリーホール
毎日新聞 8月19日(金)19時50分配信

 中村紘子さんのお別れの会=ピアニスト・7月26日死去=9月12日午後2時半、東京都港区赤坂1の13の1のサントリーホール・ブルーローズ。主催はジャパン・アーツ。


9月12日にピアニスト中村紘子さんのお別れの会 
産経新聞 8月19日(金)19時20分配信

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中村紘子さん(撮影日:2007年10月26日)(写真:産経新聞)

 故中村紘子さん(ピアニスト)のお別れの会 9月12日午後1時、東京都港区赤坂1の13の1、サントリーホールのブルーローズで。一般の入場は午後2時半から。主催はジャパン・アーツ。


故中村紘子さん(ピアニスト)のお別れの会
時事通信 8月19日(金)17時29分配信

 故中村紘子さん(ピアニスト、7月26日死去)のお別れの会 9月12日午後1時から東京都港区赤坂1の13の1のサントリーホール ブルーローズで。

 一般の入場は午後2時30分から。主催は音楽事務所ジャパン・アーツ。


ピアニスト、中村紘子さんの音色は永遠/芸能ショナイ業務話
サンケイスポーツ 8月12日(金)14時28分配信

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中村紘子さん(写真:サンケイスポーツ)

 7月26日、国民的人気ピアニスト、中村紘子さんの訃報を聞いて言葉を失った。

 がんと闘った中村さんは昨年8月から演奏活動を休止していたが、今年4月30日、川崎市内で開かれた「東京交響楽団 名曲全集 第116回」で仕事復帰。その取材で「私の生命線は長いから大丈夫!」と、右手を突き出して写真に応じてくれたことが走馬灯のように蘇った。

 同公演で8カ月ぶりに演奏し、30分を超える「モーツァルト ピアノ協奏曲第24番」を披露。多くの「ブラボー!」の掛け声と何度ものカーテンコール、3分以上の万雷の拍手を浴びた中村さんは、右手を胸に置き、丁寧に感慨深そうな表情を見せていた。

 終演後、ドレス姿のまま楽屋で取材に応じてくれ、「ここが私の場所なんだな、と思いました」と噛み締めるように語る姿が脳裏に焼き付いている。正真正銘のプロに対して「しびれました」と拙い感想を伝えると「元気なときは、ああだ、こうだ、と考えて、あがって。今は(演奏を)できるだけでいい、と変な欲がなく、楽しく行こう、と力が抜けた結果、音が響いたと思います。元気なときは今の3倍練習して、緊張もしたけど、きょうはリラックスして弾けました。長いキャリアで初めての経験。いい演奏をするのには病気をするのがいいのかな」とユーモアをまじえ、この日の演奏を振り返った姿はキュートでエレガントだった。

 民間療法を経て、医療に身を委ねた中村さん。大変な吐き気に見舞われても「この5年、日本のがんの治療水準は上がっているの」などと前向きに治療に向かっていた。

 この取材の冒頭、中村さんは「あなた、あのときの…」と声を掛けてくれた。あのとき、というのは2015年6月に都内で開かれた大腸がん治療の現状報告会のことだが、本当に覚えていてくれたかどうかは中村さんしか分からない。

 きっと一般紙の番記者に交じり、やや緊張気味だった記者の気持ちを和らげようとしてくれたのだと思う。1度しか会ったことのない記者を思いやってくれる人柄が、中村さんという人のように感じてならない。人間としての懐の大きさが、中村さんの音色そのものだった。ご冥福を心からお祈りいたします。(くのいち)


中村紘子さん 急逝前夜もともに過ごした夫が語った闘病2年半
女性自身 8月7日(日)6時0分配信

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「今日のモーツァルトの演奏はね、とても肩の力が抜けて、無欲でできました。かつてギャンギャンに練習していたころは、本番になるとコチコチになって指が動かないなんてことがあったのに。そう、私、『がんになってよかった』っていま、感じているんです」

 今年5月4日、本誌のインタビューに満面の笑みで応えていた世界的なピアニストの中村紘子さんが、このときから、およそ2カ月半後の7月26日22時25分、大腸がんでこの世を去った。享年72。それは、夫の芥川賞作家・庄司薫さん(79)と祝った彼女の誕生日の翌日だった。

 世間に突然の訃報がもたらされたのは7月28日の深夜。夫の庄司薫さんは中村さんの所属事務所を通じて、次のようなコメントを寄せた。

《誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です》

 5月の公演後、中村さんが体調を崩し入院していたと語るのは所属事務所の関係者だ。

「25日の誕生日は、『病院はつまらないから』という中村さんのたっての希望で、庄司さんと愛犬のウリちゃんとでご自宅で過ごしました。そこで庄司さんが誕生日プレゼントとして、イヤリングを手渡したんです」

 72歳の誕生パーティを“家族水入らず”で過ごした中村さんは、痩せてはいるものの非常に元気で、復帰後の夢などを打ち明けていた。9月も東京でトーク&コンサート「少女の頃の夢」が予定されていたが、翌26日に容体が急変。夫らに見守られながら静かに息を引き取った。

「ご葬儀は、28日にご自宅で、近親者のみで行われました。小ぢんまりとしていましたが、とても温かいものでした。中村さんは本当に柔らかい表情で、眠っているかのようでしたね。夫の庄司さんは気丈にされていましたが、『まさかこんなに早く逝ってしまうとは。とても寂しくなるなぁ……』とおっしゃっていました」(同・事務所関係者)

 中村さんは生前、本誌にこう語っていた。

「今日、一生懸命練習すると、明日、必ずいいことがある。それがピアノです。がん闘病もそれと同じだと思う。今日より明日のほうが、きっといいことがあるって、私は信じて生きています!」

 きっと天国でも、毎日ピアノに向かうことだろう。中村さんとの「お別れ会」は9月に行われる予定だ。


ピアニストの中村紘子さん 亡くなる前日に病院を抜け出して夫の庄司薫氏と過ごす
週刊女性PRIME 8月3日(水)11時0分配信

 ピアニストの中村紘子さんが大腸がんで亡くなった。72歳だった。

「今から40年以上前、高校生のときです。学校に公演に来てくれた中村さんの演奏を聴き、なぜかとても幸せな気分になったことを覚えています」と話すのは本誌ベテラン記者。

 それまでクラシック音楽をピアノの生演奏で聴く経験などなかった少年時代、中村さんが奏でる音色に魅了されたのだという。

 かつて、彼女は雑誌のインタビューでこう答えている。

《いちばん大切なのは、たとえどこであっても、自分の言葉で語りかける演奏ができて、その私の演奏を聴いて元気になったり、幸せになったりしてくれる人がひとりでもいるということなんです》

 20歳のときに『ショパン国際ピアノコンクール』で入賞と最年少受賞の栄冠に輝き、

「入賞は日本人としては2人目でしたが、10年ぶり、しかも最年少でもあったので話題になり、一躍注目されるようになりました」(全国紙記者)

 日本を代表するピアニストとなった彼女は、テレビ、ラジオ、CMなどにも次々と出演。番組で共演したことのある南こうせつをゲストに呼んだコンサートでは、「音楽にジャンルや国境はない」と熱く語ることもあった。

 私生活では、’74年に芥川賞作家の庄司薫氏と結婚。ふたりのなれ初めはユニークだった。

「庄司氏の受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』の中に中村さんの名前が出てきて、それがきっかけとなったようですが、庄司氏はもっと若いころから彼女に憧れていたみたいですよ」(文芸誌編集者)

 前出のインタビューではそのときの様子も語っていて、

《本の中に私の名前が出ていると友人が教えてくれたんです。カバーに載った作者の写真を見た瞬間、あっ、私この人と結婚する! ってなぜか思ってしまったんですね(笑)。で、彼がカンヅメになっているホテルを突き止めて電話したんです》

 結局、結婚するまで交際は5年間続いたが、

《その付き合いで、私は自分がいかに音楽バカで、いわゆる大学に行っていたら身についたであろう幅広い視野や教養が欠けていたか、学んでいったのは確かです》(前出のインタビュー)

 夫はよき伴侶であると同時に、よき師匠だったようだ。海外演奏会には必ず夫婦そろって出かけるほど"おしどり夫婦"として知られていたが、そんな彼女に大腸がんが見つかったのが’14年のこと。

 翌年には復帰したが、再び活動休止に。病魔と闘いながらも今年の4月に復帰して、8か月ぶりに演奏を披露したが、その後、体調が悪化して再入院。

「"病院はつまらない"といって、亡くなる前日、彼女の誕生日の7月25日に自宅に戻り、夫と愛犬と過ごしたようです」(前出・全国紙記者)

 みんなに愛された"天才ピアニスト"は、最愛の夫と愛犬に見送られて、天国へ旅立っていった。


中村紘子さんのピアノ人生、盤歴からみる
NIKKEI STYLE 8月3日(水)7時0分配信

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2016年4月30日、ミューザ川崎コンサートホールで聴衆の歓声にこたえる中村紘子さん(中央)撮影=青柳聡(提供=東京交響楽団)

 日本を代表する音楽家、ピアニストの中村紘子さんが7月26日に亡くなった。72歳の誕生日を夫で作家の庄司薫さんと、自宅で祝った翌日だった。転機は1960年代初頭。留学先の米ニューヨークのジュリアード音楽院でロシア人女性教師、ロジーナ・レヴィーンさんに「卵をつかむように手を丸め、指を立てる日本独特の『ハイフィンガー奏法』」の誤りを指摘されたときに訪れた。以来、小柄な体と小さな手の持ち主は少しでも美しく、輝かしく、豊かな音を生み出すための合理的な奏法を究め続けた。亡くなる前日も「モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試す」と庄司さんに、興奮の面持ちで語っていたという。国際コンクールの審査や文筆などを通じ、後に続く世代を教える側に回っても「あしき日本奏法の撲滅と、グローバルスタンダードへの接近」をつねに標榜し、日本のピアノ界全体の水準向上に全身全霊をささげた。
 日本政府の外資規制緩和を受けた1968年、ソニーは米CBSと共同出資のレコード会社「CBSソニー」を発足させ、バリトン歌手出身の大賀典雄さんが社長に就いた。大賀社長は自身の体験も踏まえ、日本人演奏家の録音を積極的に手掛ける方針を打ち出し、当時24歳の中村さんと第1号の専属契約を結んだ。中村さんには、レコーディングアーティストとしても半世紀に及ぶキャリアがある。故人の足跡、芸風、偉業をしのぶにふさわしい5点を選んでみた。
矢代秋雄「ピアノ協奏曲」岩城宏之指揮NHK交響楽団 今年は早世した作曲家、矢代秋雄さん(1929~76年)の没後40年。中村さんは矢代さんの代表作「ピアノ協奏曲」(67年)の世界初演者である。放送録音での初演は若杉弘さん、NHK交響楽団臨時演奏会での初演は森正さんの指揮。日本コロムビアは翌年に改めてセッションを組み、岩城宏之さんとN響の名コンビで万全を期した。岩城さんも今年は没後10年。ここに列挙した演奏家たちが素晴らしかったのは初演後も矢代作品を繰り返し演奏し、古典名曲に匹敵する定番の地位まで導いたこと。中村さんはバブル経済のころ、ある地方都市でスーパーをスポンサーに開催された「ニューイヤーコンサート」でもショパンやチャイコフスキーではなく、矢代さんの協奏曲を平然と奏で、なおかつ客席を魅了し尽くした。超絶技巧を求め、弾くだけでも大変な曲なのに、中村さんは持ち前の華やかなピアニズム、エレガントなたたずまいで、価値を高めたのだった。(コロムビア)
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」ほか渡邉暁雄指揮東京都交響楽団 ラフマニノフらと直接親交のあったレヴィーンさんの薫陶を受けて以来、ロシア音楽は中村さんの重要なレパートリーとなった。その後の旧ソ連への演奏旅行、チャイコフスキー国際音楽コンクールの審査員……という展開は大宅壮一ノンフィクション賞を受けた文筆活動での出世作、「チャイコフスキー・コンクール」(89年)に結実した。ロシア音楽を奏でる際に求められる息の長いフレーズ、感情の波動に応じて自在に揺れるテンポの妙を中村さんが比較的早い時期に体得していた実態は、渡邉さんが音楽監督を務め、日の出の勢いにあった時代の都響との76年録音でもはっきり確認できる。渡邉さんも日本の作曲家の守護神であり、自ら創立した日本フィルハーモニー交響楽団のために多くの新作を委嘱初演した。中村さんとは矢代さんのピアノ協奏曲でも共演したことがある。(ソニー)
ショパン「ピアノ協奏曲第1番&第2番」アナトール・フィストゥラーリ指揮ロンドン交響楽団 中村さんは65年、ワルシャワの第7回ショパン国際ピアノコンクールで第4位と最年少者賞を得て以降、ショパンのスペシャリストと目される機会が増えた。2曲の協奏曲はそれぞれ2度の録音を残したが、84年7月にロンドンのアビー・ロード・スタジオで制作したこのディスクは第1番の再録音、第2番の初録音に当たる。フィストゥラーリさん(1907~95年)はウクライナ生まれ、英国に帰化した指揮者で作曲家マーラーの次女と結婚していた。ロシア・東欧の作品、特にバレエ音楽を得意とし、オーケストラを少し古風な響きに整え、旋律をたっぷり歌わせ、情感を自然に盛り上げていく。78年に読売日本交響楽団を客演指揮した際のソリストだった中村さんに強い印象を受け、ロンドン響との共演とレコーディングに発展した。中村さんはマエストロ(巨匠)の敷いたぜいたくな音のじゅうたんに乗って、ショパン特有のテンポの微妙な変化を自在に操りながら、美しいタッチの限りを尽くす。(ソニー)
チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」/ラフマニノフ「同第2番」エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団 ソニーは88年にCBSレコードを買収、クラシック音楽のレーベル名を国際規模で「ソニー・クラシカル」に統一した。ソニー本体の社長となった大賀さんが久しぶりにプロデューサーを買って出たのが、この日本でのライブ盤で、世界発売された。ともに中村さんにとって2度目の録音。モスクワ出身のカリスマ指揮者、スヴェトラーノフさん(1928~2002年)は65年に旧ソ連国立響のシェフに抜てきされ、連邦解体後にロシア国立響と改名した後も2000年まで音楽監督に君臨した。中村さんは83年にこの2曲を独奏して以来、87、90、92、95、97年まで計6度にわたり、スヴェトラーノフさんとロシア(ソビエト)国立響の日本公演のソリストであり続けた(97年にはスヴェトラーノフさんのN響客演でも共演)。雄大で、おおらかなロシア管弦楽の洪水に立ち向かうというよりは、自らもその一員として、独特の音の世界に浸りきる風情に指揮者との相性の良さ、ピアニストとしての円熟を実感させる。(ソニー)
モーツァルト「ピアノ協奏曲第24番&第26番『戴冠式』」/ショパン「マズルカ集」山田和樹指揮横浜シンフォニエッタ 2014年、古希(70歳)とデビュー55周年を記念して企画した最新盤。残念ながら、長い盤歴のラストレコーディングとなった。中村さんはかねがね「私のキャリアを通じ、日本の指揮者の協奏曲伴奏能力は飛躍的に向上した」といい、若い世代と積極的に共演した。現在、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務める山田さん(1979年生まれ)が東京芸術大学在学中に結成した「トマト・フィル」の流れをくむのが、横浜シンフォニエッタ。実演では長く弾きこんできたモーツァルトの協奏曲だが、セッションを組んでの正規録音は、意外にもこれが初めてだった。協奏曲で管弦楽が静まり、独奏楽器のソロだけになる部分を「カデンツァ」と呼ぶ。モーツァルトのピアノ協奏曲には作曲者自身のカデンツァが残っていないものも多く、後世の作曲家や演奏家が腕を競ってきた。第24番の場合、中村さんはN響との共演で自作を弾いた時代もあったが、このCDでは恩師の一人でハンガリー出身の名ピアニスト、リリー・クラウスさん(1903~86年)のカデンツァを採用した。「戴冠式」の方はレコード会社が話題性を狙ったのか、「ゴーストライター騒動」の果てに作曲家としての能力を再評価された新垣隆さんが新たなカデンツァを書き下ろした。(ドリーミュージック)
 ◇   ◇
 2016年4月30日。ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川県)の飯森範親さん指揮東京交響楽団の演奏会で、中村さんは大腸がん闘病のための療養期間を終えての「現場復帰」を宣言した。選んだのはモーツァルトの第24番。第1楽章のカデンツァは自作でも、クラウス作でもない耳慣れないものだった。庄司さんに促されて楽屋を訪ね、「最初はモーツァルトに近かった音の世界が次第にロマン派の色彩を帯びていく。かなり変わったカデンツァでしたけど、いったいどなたの作曲ですか?」と聞いた。中村さんは「わが意を得たり」といった風情で「ふふふ、おもしろいでしょ。実はブラームスなのよ」と、タネを明かした。この作品が生涯最後に弾いた協奏曲になろうとは中村さんも、庄司さんも、私たちも思っていなかった。だが最後の最後まで好奇心を失わず、進歩し続けた名ピアニストの到達した境地として、不思議なほど、すがすがしさを覚える時間の記憶である。
(池田卓夫)


「中村紘子」は唯一無二のピアニストだった
東洋経済オンライン 8月3日(水)6時0分配信

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音楽の伝道師は、作家や教育者としても超一流だった(写真:読売新聞/アフロ)

 ピアニスト、中村紘子が亡くなった。これはまさに、日本クラシック界、特にピアノ界の1つの時代が終わりを告げたに等しい出来事だ。その栄光に満ちた人生は、戦後急速に繁栄し広がりを見せた日本クラシック界と共にあり、つねにその先頭に立つシンボル的存在が、中村紘子だったのだ。

 第二次世界大戦終結の前年にあたる1944年、山梨県に生まれた中村紘子は、3歳からピアノを始め、桐朋学園「子供のための音楽教室」の第1回生として、名ピアニスト井口愛子の下で本格的にピアノを学び始める。その時の同期生には、小澤征爾(指揮者)、堤剛(チェリスト/サントリーホール館長)、江戸京子(ピアニスト)など、後の日本クラシック界を支える逸材が顔をそろえていたのだから興味深い。

 1954年の学生音楽コンクール小学生の部で全国1位となったのを皮切りに、中村紘子伝説の幕が開く。日本国内のコンクールを総なめにした中村紘子は、当時在籍していた桐朋女子高等学校を中退し、アメリカの名門ジュリアード音楽院に日本人初の全額奨学生として留学。名教師ロジーナ・レヴィンの下で研鑽を積む。

■ 忘れられないリサイタルの感動

 そして迎えた1965年の第7回ショパン国際ピアノコンクールに第4位入賞、併せて最年少者賞受賞を果たすなど、世界の注目を集める存在となったのだ。時に中村紘子19歳。この時の優勝者がマルタ・アルゲリッチであったことからも、このコンクールのレベルの高さが伺える。そしてこの後、日本を代表するピアニストとして華々しい演奏活動が展開される。

 初めて中村紘子のステージを体験したのは、忘れもしない1976年5月11日、横須賀市文化会館で行われたリサイタルだった。なぜ正確な日時まで覚えているのかといえば、今も大切に保管してある当時のプログラムには、中村紘子のサインが入っているから。ご丁寧に公演チラシと当日のチケットまでが添えられていることからも、当時の自分の感激ぶりが想像できる。

 中村紘子体験は、自分にとって初の“本物のピアニスト体験”であり、初めて楽屋まででかけてサインをもらった体験でもあった。リサイタルの感動もそのままに、目の前で観る当時32歳の中村紘子の美しさと存在感は圧倒的。優しい笑顔で握手をしてもらったその手に残る香水の香りは今も忘れ難く、当時は「もう一生手を洗わない・・・」などと思う純情な19歳であった。アーティストの影響力の大きさを改めて感じる瞬間だ。

 1968年に、ソニー・レコードの専属第1号アーティストになったことも彼女の人気に拍車をかけた。日本人アーティストに着目した「J-クラシック」なる言葉が生まれるのは、もっとずっと後の話。当時のクラシック界、特にレコード業界は完全に外国人演奏家中心の世界だったことを思えば、専属アーティストとなって50枚にも及ぶアルバムを世に送り出した事実は驚異的だ。

 20世紀を代表する音楽評論家の1人、ハロルド・ショーンバーグが著書『ピアノ音楽の巨匠たち』の中で中村紘子を紹介したのもその頃の話。本の中に登場する唯一のアジア人ピアニストであることからも、その評価の高さが伺える。曰く「西欧の音楽家に感銘を与えた数少ないアジア人ピアニストの1人中村紘子は、見事なテクニックと溢れる情感があり、ロマン派音楽を好んで演奏する」と記載されているのだから素晴らしい。

■ クラシック音楽の大衆化に貢献

 お茶の間への浸透という意味で、テレビCM出演の影響も見逃せない。ネスカフェ「ゴールドブレンド」のほか、ハウス食品「ザ・カリー」のCMに出演。特に「ザ・カリー」のCMで描かれた中村紘子の“料理が得意なピアニスト”としての側面は、“高尚なクラシックのピアニスト”を“親しみやすい身近なピアニスト”へと変化させ、狭いクラシックの世界を超越した“誰もが知っているピアニスト中村紘子”へと昇華させた。その結果として、日本全国津々浦々で行われるコンサートは大人気となり、レコードの売り上げも桁外れという人気ピアニスト中村紘子が誕生した。

 その意味では、クラシック音楽普及のために一役買ったテレビ番組「オーケストラがやってきた」(1972年~1983年放送)の山本直純(指揮者・作曲家、1932年~2002年)と並んで、クラシックの大衆化に大きく貢献した最初のアーティストだとも言えそうだ。当時、中村紘子のピアノをきっかけにクラシックに親しんだ人の数はどれほどいるのだろう。子どもにピアノを習わせようと思い立った母親の数もきっと半端ではないはずだ。私自身、1976年のリサイタル体験は、熱烈なピアノファンとして今に至る過程の中で、忘れられない想い出の一つとなっている。

 中村紘子を語る上で忘れてならないキーワードが「執筆活動」だ。1974年に芥川賞作家、庄司薫と結婚した影響もあるのだろうか、自らも執筆活動を開始したその腕前はピアノと同じように素晴らしく、著書『チャイコフスキー・コンクール』は1989年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、第2作『ピアニストという蛮族がいる』も文芸春秋読者賞を受賞するなど、ノンフィクション作家・エッセイストとして高く評価されている。

 知性と教養、そして豊富な経験を背景にしたチャーミングな文章は、一般の人々をクラシックの世界へと誘う大きな道標となったに違いない。『アルゼンチンまでもぐりたい』『どこか古典派(クラシック)』『コンクールでお会いしましょう・・・名演に飽きた時代の原点』など、ウィットの効いた文章は、今読んでも新鮮そのものだ。

■ 国内外の若手ピアニストを育成

 そして、中村紘子を語る最後のキーワードは「教育」だ。1980年代以降、世界各地のコンクールの審査員を務めるとともに、広く国内外の若手ピアニストの育成・紹介に力を注いだ中村紘子は、文字通りピアノ界の頂点に立つ存在となる。審査員としては、1982年の「チャイコフスキー国際コンクール」の審査員を務めて以来、「ショパン国際ピアノコンクール」「ロン=ティボー国際コンクール」「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」「リーズ国際ピアノコンクール」など、世界有数のコンクールの審査員を歴任した。

 その貴重な経験は、国内コンクールの発展にも生かされ、1994年の第3回から15年間にわたって審査委員長を務めた「浜松国際ピアノコンクール」は、創立10年足らずで「国際コンクール連盟」に加盟。毎回優秀な若手ピアニストを世に送り出す実績によって、今や世界有数のコンクールのひとつに数えられるまでに成長している。さらには、個人的にレッスンや指導を受けたピアニストの数は、数え切れないほどだろう。

 1959年のデビュー以来、これまでに国内外で3800回以上のコンサートに出演してきた中村紘子。病と闘いながら、死の直前までピアニストとしての活動にこだわり続けたというその人生は、まさに“音楽の伝道師”と呼ぶにふさわしい。中村紘子の死によって、輝かしい1つの時代が幕を閉じたことは否めない。しかし、彼女が切り開いた道の先には、今や確実に新たな光が灯り始めている。


ピアニストの中村紘子が逝去
CDジャーナル 7月29日(金)16時22分配信

 ピアニストの中村紘子(本名: 福田紘子)が、2016年7月26日午後(22:25)大腸がんのため自宅で逝去しました。享年72。中村紘子は2015年に大腸がんの診断を受けたことを公表、治療と演奏活動とを行なっていました。葬儀は、7月28日に近親者のみで執り行なわれました。

 中村紘子は早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢されデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に〈第7回ショパン・コンクール〉で入賞し、以後日本のピアニストの代名詞に。国内外のオーケストラとの共演、世界各国でのリサイタルなど、3,800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了しました。レコーディングも活発に行ない、1968年にソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来、50点余りの録音を残しました。文筆家としても知られ、著書「チャイコフスキー・コンクール - ピアニストが聴く現代」で〈大宅壮一ノンフィクション賞〉を受賞。2008年に紫綬褒章を受章したほか、翌年には日本芸術院賞・恩賜賞に選ばれました。

 1982年からは〈チャイコフスキー・コンクール〉〈ショパン・コンクール〉など数多くの国際コンクールの審査員、1994年から15年間にわたって〈浜松国際ピアノコンクール〉の審査委員長も歴任。“難民を助ける会”や日本赤十字などを通じてのボランティア活動にも積極的な役割を果たしました。デビュー50周年を迎えた2009 / 10年シーズンは80回を超える〈デビュー50周年記念コンサート〉を実施。2015年には東京交響楽団と36年連続37回目となる〈ニューイヤーコンサート〉に出演しました。病気と闘いながら、2016年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第24番を共演。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行なったリサイタルが最後の公の場での演奏でした。

 夫で芥川賞作家の庄司 薫は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とコメントしています。

 後日、お別れの会が執り行なわれる予定です。


ピアニスト中村紘子さん死去 熊本地震にメッセージも
J-CASTニュース 7月29日(金)11時49分配信

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世界で活躍した中村紘子さん(画像は、中村紘子さんの公式HPのスクリーンショット)

 国際的に活躍したピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが2016年7月26日、大腸がんのため死去した。72歳だった。夫は芥川賞作家の庄司薫氏。

 さまざまなコンクールの審査員、審査委員長なども務めて後進の育成にも尽力。大宅ノンフィクション賞を受賞するなど文筆も達者で、テレビや雑誌などメディアにも数多く登場した。一ピアニストにとどまらない人気と知名度を誇った人だった。晩年はがんとの闘病生活が続き、再起を期していたが、かなわなかった。

■天才少女として知られる

 1944年、疎開先の山梨県で生まれ、3歳からピアノを始め天才少女と評判になる。59年、慶應中等部3年在学中に「音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)で史上最年少の第1位特賞となり、早くも楽壇デビュー。翌年には、NHK交響楽団の世界一周演奏旅行のソリストに。63年から米国ジュリアード音楽院で学び、65年にショパン国際ピアノコンクールで日本人初の第4位に入賞。世界的に注目されるようになった。

 その後もN響の海外公演や、国際的な音楽祭への出演など海外で活躍した。音楽評論家の中河原理氏は「朝日人物事典」で、「演奏はわかりやすく多くの人に親しまれ、魅力ある容貌ともども大衆的な人気を誇った」と評している。

 母親は著名な銀座の画廊「月光荘」経営に関わり、文化サロンを主宰。政界、経済界、文壇などに幅広い有名人のネットワークがあった。中村さんはその娘ということでも知られ、内外の著名人との交遊も深かった。

9月にはトーク&コンサート予定していた
 74年に作家の庄司薫氏(69年に『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞)と結婚。才人同士のカップルとして話題になった。中村さんはエッセイなどにも才を見せ、著書『チャイコフスキー・コンクール』(88年)は、音楽家としては珍しく大宅ノンフィクション賞を受賞した。

 近年はがんとの闘病が続いたが、最後まで演奏活動への復帰に執念を見せた。オフィシャルサイトによると、9月24日には「中村紘子トーク&コンサート ~少女の頃の夢」が予定されていた。

 サイトの最後の更新となった6月14日には、「ご挨拶」と題し、熊本地震について、「発生から、早くも2ヵ月が経ちました。震災により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆さまに対しまして心よりお見舞い申し上げます」と、被災地の一日も早い復旧・復興を祈る文章が掲載され、そこでは、「私も、音楽を通して、被災地の皆さまへの一助となれるように、日々励んで参ります」とつづられていた。


ピアニスト中村紘子が死去、5月8日のリサイタルが最後の公演に
Billboard Japan 7月29日(金)11時30分配信

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ピアニスト中村紘子が死去、5月8日のリサイタルが最後の公演に

 ピアニストの中村紘子(本名:福田紘子)が、2016年7月26日午後(22時25分)に72歳で大腸がんのため自宅で逝去した。

 夫の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です。」とコメントを出している。葬儀は、7月28日に近親者のみで既に執り行われており、後日、お別れの会が予定されている。

 中村紘子は早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に第7回ショパン・コンクールで入賞。以後、日本のピアニストの代名詞となり、国内外のオーケストラとの共演、世界各国でのリサイタルなど3800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了し続けた。レコーディングも活発に行い1968年にソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来、50点余りの録音を残した。1982年からはチャイコフスキー・コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員、1994年から15年間にわたって浜松国際ピアノコンクールの審査委員長も歴任。「難民を助ける会」や日本赤十字などを通じてのボランティア活動にも積極的な役割を果たした。デビュー50周年を迎えた2009/2010年シーズンには80回を超える「デビュー50周年記念コンサート」を実施。2015年には東京交響楽団と36年連続37回目となるニューイヤーコンサートに出演。病気と闘いながら、2016年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第24番を共演。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏となった。photo by Hiroshi Takaoka


中村紘子さん
時事通信 7月29日(金)10時28分配信

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インタビューに答えるピアニストの中村紘子さん=東京都港区

(時事通信社)


中村紘子さん
時事通信 7月29日(金)10時28分配信

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ピアニストの中村紘子さん=東京都港区

(時事通信社)


世界的ピアニスト・中村紘子さん死去 72歳、大腸がん
オリコン 7月29日(金)10時14分配信

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死去した中村紘子さん (C)Hiroshi Takaoka

 世界的に活躍したピアニストの中村紘子(本名・福田紘子)さんが、26日午後10時25分に大腸がんのため自宅で死去した。享年72。葬儀、告別式は近親者で執り行われ、喪主は夫で作家の庄司薫氏。後日お別れの会を開催予定としている。

 庄司氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とコメントを発表した。

 中村さんは1994年7月25日、東京都生まれ。早くから天才ピアニストとして注目され、60年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜てきされデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に第7回ショパン・コンクールで入賞し、日本を代表するピアニストとして、世界各国で活躍してきた。

 2014年2月に大腸がんを患い、翌15年1月から活動休止を発表。同年6月に活動再開の会見を行い、治療と平行してコンサート活動を続けてきたが、8月より再び休止。今年4月に復帰したが、5月8日の兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏となった。


華やぎと真摯、併せ持つ=逆境にうせぬ向日性―中村紘子さん死去
時事通信 7月29日(金)9時54分配信

 演奏にも、振る舞いにも、大輪の花を思わせる華やぎと向日性があった。

 それが戦後を脱し、経済発展の道を進む時期の日本で、豊かさの象徴としてのクラシック音楽の在りようと、ある意味で重なり、ジャンルの枠を超えた人気を博した。

 自身、デビュー50年を祝った7年前、「高度成長にちゃっかり乗るように自分も成長し、国際社会へ出て行った。時代の幸運なしにはあり得なかった」と振り返った。

 その結果が1965年のショパンコンクール4位の栄誉だが、決して幸運のみによるものではない。「聴衆の耳と心に演奏をさらすことで鍛えられ、支えられてきた」の言葉通り、常に自身を客観視し、真摯(しんし)に音楽と向き合う姿勢がもたらした果実だ。

 亡くなる数日前まで、「このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって興奮していた」と夫の庄司薫氏が語るように、その姿勢を生涯持ち続けた。

 昨年1月に大腸がんを公表した。一時休養を宣言し、その後は復活と休止を繰り返したが、今年4月「体がむずむずして、弾きたくてしょうがない」と再復帰。「楽しく、のんびり、無理をしないように演奏を続けていけたら」と笑顔を浮かべた。

 死に直面する中でも失わなかった向日性と華やぎ。それが「聞く者の心を激しく揺さぶる情熱的な躍動感と繊細な叙情性の両面を併せ持つ演奏」(2008年紫綬褒章の受章理由)を生んだ。


ピアニストの中村紘子さんが死去
デイリースポーツ 7月29日(金)9時51分配信

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亡くなった中村紘子さん

 ピアニストの中村紘子(本名・福田紘子)さんが26日に大腸がんのため死去していた。72歳だった。所属事務所が28日深夜にマスコミ各社宛てのFAXで発表した。葬儀・告別式は28日に近親者だけで行われた。後日にお別れの会を行うという。

 所属事務所によれば、早くから天才少女ピアニストとして注目されてきた中村さんは、1965年にショパン・コンクールで入賞。世界各国のリサイタルなど3800回を超える演奏会に出演し、50点以上のレコーディングも行ってきた。

 ほかに数多くの国際コンクールの審査員を務め、94年からは浜松国際ピアノコンクールの審査委員長を歴任。音楽活動とともに難民救済などのボランティア活動にも携わってきた。

 今年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲24番を共演。5月8日に兵庫・淡路島で行ったリサイタルが公の場での演奏だったという。


中村紘子さん、最後まで復帰に執念…夫に夢語る
読売新聞 7月29日(金)9時50分配信

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都内の自宅で、愛犬とくつろぐ中村さん(2011年)

 26日に亡くなったピアニストの中村紘子さんは晩年はがんとの闘病が続いたが、最後まで演奏活動への復帰に執念を見せた。

 最後は夫の作家・庄司薫さん(79)に見送られた。

 「何より本人があまりにも早い死にびっくりしているでしょう。紘子は最期まで美しく賢いピアニストでした」

 28日に密葬を終えた庄司さんは、グランドピアノのある東京都内の自宅に戻った妻の遺骨を前に悲しみをこらえていた。

 「病院はつまらない」との中村さんの希望で、2人は25日の中村さんの誕生日から、愛犬のミニチュアダックスフントが待つ自宅で一緒の時を過ごした。中村さんは夫からイヤリングを贈られ、「モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試したい」と語っていたが、翌日、夫らにみとられて旅立った。28日の出棺に際し、庄司さんは何度も妻の顔を見つめ、棺(ひつぎ)に2人の著作や写真を納め、最後のお別れをした。


ピアニストの中村紘子さん死去
時事通信 7月29日(金)9時2分配信

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ショパン国際ピアノコンクールに入賞し、日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子さんが26日午後10時25分、大腸がんのため東京都港区の自宅で死去した。72歳だった=4月撮影


中村紘子さん死去 世界的ピアニストCMでもおなじみ
スポーツ報知 7月29日(金)7時5分配信

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26日に72歳で亡くなった中村紘子さん

 日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため都内の自宅で死去したことが28日、分かった。72歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫で作家、庄司薫(しょうじ・かおる=本名・福田章二)氏。後日、お別れの会を行う予定。

 中村さんは山梨県で生まれ東京・世田谷で育った。指揮者の小澤征爾さんらを輩出した桐朋学園「子供のための音楽教室」で幼児期から学び、1959年、「音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)で史上最年少で第1位特賞を受賞。米国留学後、65年にショパン国際ピアノコンクールで入賞し、名声を得た。チャイコフスキー国際音楽コンクール、ショパン国際ピアノコンクールなど世界的なコンクールの審査員も歴任。著書「チャイコフスキー・コンクール」は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど、文筆家としても活躍。紫綬褒章、日本芸術院賞・恩賜賞を受けた。ハウス食品やネスカフェのCMに出演、お茶の間でも親しまれた。

 中村さんは、2014年2月に腸閉塞の手術で大腸がんが見つかり、15年1月に初期の大腸がんと診断された。同年2月から音楽活動を休止したが、3月には復帰。闘病生活を送りながら、公演に励んだ。今年5月8日の兵庫県洲本市でのステージが最後になった。亡くなる前日の25日は72歳の誕生日。ホームページによると、9月24日に都内で公演の予定が入っていた。

 夫の庄司氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、モーツァルトやラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。残念です」とコメントした。


世界的ピアニスト、中村紘子さん死去 数多くの国際コンクールで審査員
サンケイスポーツ 7月29日(金)7時0分配信

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中村紘子さん(写真:サンケイスポーツ)

 日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日に大腸がんのため死去していたことが28日、分かった。72歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫で作家、庄司薫(しょうじ・かおる)氏。後日、お別れの会を開く。

 山梨県生まれ、東京・世田谷育ち。指揮者の小澤征爾さんらを輩出した桐朋学園「子供のための音楽教室」で幼児期から学んだ。慶応義塾中等部在学中の1959年に日本音楽コンクールで史上最年少で第1位特賞を受賞し、翌年にはNHK交響楽団初の演奏旅行のソリストに起用された。その後、米ニューヨークのジュリアード音楽院に留学。1965年の第7回ショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞した。

 チャイコフスキー国際音楽コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員も歴任。その体験に基づく著書「チャイコフスキー・コンクール」は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。ハウス食品のカレーのCMにも出演し、お茶の間でも親しまれた。

 大腸がんの治療のために、2015年2月から音楽活動を休止したが、同年3月にはステージに復帰。16年5月の兵庫県でのリサイタルが、最後の公の場での演奏となった。

 庄司氏は「誕生日(25日)を迎える日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とのコメントを発表した。


中村紘子さん死去 前日まで新しい奏法に意欲も…72歳で
スポニチアネックス 7月29日(金)5時37分配信

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死去した中村紘子さん

 世界的に活躍したピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため都内の自宅で死去した。72歳。山梨県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日お別れの会を開く。喪主は夫で作家の庄司薫(しょうじ・かおる)氏。

 関係者によると、中村さんは庄司氏(79)にみとられ息を引き取った。2、3日前から体調を崩していたが、26日夜に急変したという。最近は病院で抗がん剤治療を受けながら、自宅と行き来する生活を続けていた。

(誕生日翌日26日に/) 14年2月、腸閉塞(へいそく)の手術をした際に大腸がんが見つかった。手術はせずに治療を続け、昨年3月に復帰したが、その後、治療に専念するため、同8月から再び活動を休止。今年4月に神奈川県川崎市内で行われた演奏会で復帰し「やっぱりここが私の生きている世界だなと思った」と笑顔で感想を語っていた。5月8日に兵庫・淡路島で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏になった。

 亡くなる前日が誕生日で、庄司氏は「誕生日を迎える日も、このところ見つけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだと言って、興奮していました。僕も、それを聴きたいと熱望していました」と、最期までピアノに情熱を燃やしていたことを明かした。

 中村さんは65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞を果たした。チャイコフスキー国際コンクールなど、世界のピアノコンクールの審査員を歴任したほか、ハウス食品の「ハウス ザ・カリー」、ネッスル(現ネスレ)の「ネスカフェ」のCMでも親しまれた。

 ◆中村 紘子(なかむら・ひろこ)本名福田紘子(ふくだ・ひろこ)。1944年(昭19)7月25日、山梨県生まれ。59年、慶応中3年で日本音楽コンクール1位入賞。翌60年、東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でデビューし、同年にNHK交響楽団初の世界一周公演のソリスト抜てき。65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞するなど海外で活躍。08年紫綬褒章、09年日本芸術院賞恩賜賞を受ける。


中村紘子さん死去 前日まで新しい奏法に意欲も…72歳で
スポニチアネックス 7月29日(金)5時1分配信

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死去した中村紘子さん

 世界的に活躍したピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため都内の自宅で死去した。72歳。山梨県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日お別れの会を開く。喪主は夫で作家の庄司薫(しょうじ・かおる)氏。

 関係者によると、中村さんは庄司氏(79)にみとられ息を引き取った。2、3日前から体調を崩していたが、26日夜に急変したという。最近は病院で抗がん剤治療を受けながら、自宅と行き来する生活を続けていた。

(誕生日翌日26日に/) 14年2月、腸閉塞(へいそく)の手術をした際に大腸がんが見つかった。手術はせずに治療を続け、昨年3月に復帰したが、その後、治療に専念するため、同8月から再び活動を休止。今年4月に神奈川県川崎市内で行われた演奏会で復帰し「やっぱりここが私の生きている世界だなと思った」と笑顔で感想を語っていた。5月8日に兵庫・淡路島で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏になった。

 亡くなる前日が誕生日で、庄司氏は「誕生日を迎える日も、このところ見つけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだと言って、興奮していました。僕も、それを聴きたいと熱望していました」と、最期までピアノに情熱を燃やしていたことを明かした。

 中村さんは65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞を果たした。チャイコフスキー国際コンクールなど、世界のピアノコンクールの審査員を歴任したほか、ハウス食品の「ハウス ザ・カリー」、ネッスル(現ネスレ)の「ネスカフェ」のCMでも親しまれた。

 ◆中村 紘子(なかむら・ひろこ)本名福田紘子(ふくだ・ひろこ)。1944年(昭19)7月25日、山梨県生まれ。59年、慶応中3年で日本音楽コンクール1位入賞。翌60年、東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でデビューし、同年にNHK交響楽団初の世界一周公演のソリスト抜てき。65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞するなど海外で活躍。08年紫綬褒章、09年日本芸術院賞恩賜賞を受ける。


ピアニストの中村紘子さん死去 大腸がんで72歳
東スポWeb 7月29日(金)2時4分配信

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中村紘子さん

 日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子さん(本名・福田紘子)が26日午後10時25分、大腸がんのため東京都内の自宅で死去した。72歳だった。所属事務所が29日、発表した。

 葬儀・告別式は28日、近親者で執り行われた。後日お別れの会を開く。

 中村さんは2015年に大腸がんの診断を受けたことを公表。闘病中も演奏活動を続けていた。

 夫で作家の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」と文書でコメントした。

 中村さんは天才少女ピアニストとして注目され、1960年にNHK交響楽団初の世界一周公演ソリストに抜てきされ、デビュー。65年にショパン国際ピアノコンクールで日本人初の入賞を果たし、国内外での演奏活動で評価を確立した。

 チャイコフスキー国際コンクールなど、世界のピアノコンクールの審査員を歴任したほか、著書「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど文筆家としても活躍。CMでも親しまれた。

 大腸がんと闘いながらも今年4月に東京交響楽団と共演。5月8日に兵庫県洲本市で開催されたリサイタルが最後の演奏となった。


中村紘子さん死去 CMに、情報番組に…。気さくな人柄、クラシック広げる
産経新聞 7月29日(金)1時29分配信

 世界的なピアニストでありながら、おしゃべりで気さくな一面を持つ、希有な人だった。NHK教育(現Eテレ)のクラシック音楽番組「N響アワー」で司会を務めたほか、教育・教養から社会情報番組までテレビにも出演。カレーのCMにも出演し、お茶の間でも親しまれた。

 華のある人だった。平成27年に大腸がんの治療で活動休止し、復帰後も、その華やかさでクラシックの魅力を伝え続けた。

 休養明け、昨年6月の東京公演は「ロシアの六月」と題した約2時間のトーク&コンサートだった。ロシアの作曲家、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」の解説をし、ピアノでも演奏。無心に鍵盤をたたく姿は舞台復帰を、この上なく喜んでいるように見えた。

 そして、チャイコフスキー国際音楽コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員を歴任した経験を生かしたトーク、アンコールではショパン作曲「子犬のワルツ」「別れのワルツ」「英雄ポロネーズ」の3曲を披露。自身の原点はチャイコフスキー・コンクールと、1965年の第7回で4位に入賞したショパン・コンクールだと印象づけた。

 国内外の後進の育成にも精力的に取り組んだ。今年4月、ポーランドの作曲家でピアニスト、パデレフスキの名を冠した「日本パデレフスキ協会」の副会長に就任。記者会見で「日本の若手にチャンスを与えるのが役目の一つ」とアピールしていた。日本のクラシックを大きく広げた人だった。(竹中文)


中村紘子さん死去 「もう一度モーツァルト聞きたかった」夫の庄司薫さん
産経新聞 7月29日(金)1時27分配信

 ◆夫で作家の庄司薫氏

 「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」


デビュー50周年記念の中村紘子さん
時事通信 7月29日(金)1時1分配信

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デビュー50周年記念記者会見で撮影に応じる中村紘子さん=2009年4月、東京都港区


亡くなった中村紘子さん
時事通信 7月29日(金)0時57分配信

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26日に大腸がんで亡くなったピアニストの中村紘子さん。2016年4月撮影


ピアニストの中村紘子さん死去=ショパンコンクール入賞―72歳
時事通信 7月29日(金)0時49分配信

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ショパン国際ピアノコンクールに入賞し、日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子さんが26日午後10時25分、大腸がんのため東京都港区の自宅で死去した。72歳だった=4月撮影

 ショパン国際ピアノコンクールに入賞し、日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子(なかむら・ひろこ=本名福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため東京都港区の自宅で死去した。

 72歳だった。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を行う予定。喪主は夫で作家の庄司薫(しょうじ・かおる、本名福田章二=ふくだ・しょうじ)氏。

 山梨県生まれ。幼時からピアノを習い、小澤征爾さん、堤剛さんらと共に桐朋学園「子供のための音楽教室」第1期生となった。

 全日本学生コンクールの小学生、中学生部門で続けて優勝、「天才少女」として知られるように。1959年日本音楽コンクールで1位特賞。翌年にはNHK交響楽団などと共演した。

 その後、米ジュリアード音楽院へ留学。65年の第7回ショパンコンクール(マルタ・アルゲリッチ優勝)で、日本人としては10年ぶり二人目の入賞(4位)と最年少賞を受けた。

 以降、トップピアニストとして国内外で演奏活動を展開。古典派からロマン派に至るレパートリーを軸に、華麗な技巧と豊かな感情表現で多くの聴衆を魅了した。

 チャイコフスキー、ショパンなど国際的コンクールの審査員として後進の指導にも尽力。浜松国際ピアノコンクールの審査委員長を務め、短期間で世界レベルの競技会にレベルアップさせた。

 自身の体験を基に執筆活動も行い、89年「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。華やかな容姿と親しみやすい語り口で、音楽番組の司会やテレビCMでも人気を博した。


夫・庄司薫さん、中村紘子さん死去に「残念です」
スポーツ報知 7月29日(金)0時45分配信

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中村紘子さん

 ピアニストの中村紘子さんが26日午後10時25分、都内の自宅で死去した。72歳だった。

 中村さんは2015年に大腸がんの診断を受けたことを公表。その後も治療と演奏活動を並行して行ってきた。葬儀は28日、近親者のみで営まれた。後日、お別れの会を行うという。

 中村さんの夫で「赤頭巾ちゃん気をつけて」などで知られる芥川賞作家・庄司薫さん(79)は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とコメントを発表した。


<訃報>国際的ピアニストの中村紘子さん死去、72歳
毎日新聞 7月29日(金)0時44分配信

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ピアニストの中村紘子さん=2007年3月、米田堅持撮影

 ◇「天才少女」 ショパン国際コンクールで最年少者賞も

 軽妙なエッセーやCM出演でも親しまれた国際的ピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため死去した。72歳。葬儀は近親者で営んだ。お別れの会を後日開く。喪主は夫で小説家の庄司薫(しょうじ・かおる、本名・福田章二=ふくだ・しょうじ)さん。

 山梨県生まれ、東京都育ち。桐朋学園の前身「子供のための音楽教室」の1期生として、井口愛子に師事。全日本学生音楽コンクールの小・中学校両部を制して「天才少女」と呼ばれた。1959年、史上最年少の15歳で現・日本音楽コンクールの1位・特賞に。全額奨学生として米ジュリアード音楽院で学び、65年にはショパン国際コンクールで4位と最年少者賞を受けた。当時の演奏ぶりを毎日新聞は「その音色は新鮮で、若さに輝く」と報じている。

 以来、日本を代表するピアニストとして活躍し、チャイコフスキー国際コンクールなどの審査員も歴任。経験をつづったエッセー集「チャイコフスキー・コンクール」で89年の大宅壮一ノンフィクション賞を受けるなど、文筆家としても名をはせた。

 華やかな美貌とユーモアあふれる人柄で人気を博し、カレールーのCMなどにも長年出演。クラシック音楽界とお茶の間の距離を縮めた。近年は後進の育成にも尽力。2008年に紫綬褒章を受けた。

 09年にはデビュー50周年を記念し、全国ツアーを敢行。演奏活動への意欲は衰えなかったが、14年に大腸がんが見つかり、「一病息災で生き抜きたい」と闘病を続けていた。

 庄司薫さんの話 誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。僕もそれを聞きたいと熱望していました。残念です。


ピアニスト・中村紘子さんが死去 72歳、大腸がん
スポーツ報知 7月29日(金)0時35分配信

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中村紘子さん(15年6月)

 ピアニストの中村紘子(本名・福田紘子)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため都内の自宅で死去した。72歳だった。

 中村さんは2014年2月、腸閉塞の手術で大腸がんが見つかった。その後は治療と演奏活動を並行して行ってきた。葬儀は28日、近親者のみで営まれた。喪主は夫で芥川賞作家の庄司薫氏(79)。後日、お別れの会を行うという。

 ◆中村紘子(なかむら・ひろこ)1944年7月25日、東京都生まれ。3歳でピアノを始め、慶応中の3年時に日本音楽コンクールで史上最年少の1位特賞を獲得し天才少女として話題に。60年にNHK交響楽団の世界一周公演にソリストとして抜てきされ華々しくデビュー、日本を代表するピアニストとして活躍。90年代にはハウス食品の「ハウス ザ・カリー」のCMにも出演。


中村紘子、逝去
BARKS 7月29日(金)0時34分配信

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中村紘子、逝去

ピアニストの中村紘子(本名:福田紘子)が、2016年7月26日午後(22時25分)大腸がんのため自宅で逝去した。享年72歳だった。葬儀は、7月28日に近親者のみで執り行われた。

中村紘子は早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビューを飾った。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に第7回ショパン・コンクールで入賞し、以後、日本のピアニストの代名詞となり、国内外のオーケストラとの共演、世界各国でのリサイタルなど3800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了し続けた。レコーディングも活発に行い、1968年にソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来50点余りの録音を残している。

1982年からはチャイコフスキー・コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員、1994年から15年間にわたって浜松国際ピアノコンクールの審査委員長も歴任し、「難民を助ける会」や日本赤十字などを通じてのボランティア活動にも積極的な役割を果たした。デビュー50周年を迎えた2009/2010年シーズンには80回を超える「デビュー50周年記念コンサート」を実施し、2015年には東京交響楽団と36年連続37回目となるニューイヤーコンサートに出演、病気と闘いながら、2016年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第24番を共演している。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏となった。

夫の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です。」とコメントを出している。

2015年に大腸がんの診断を受けたことを公表、治療と演奏活動を行ってきたところだった。後日、お別れの会が執り行われる予定となっている。ご冥福をお祈りいたします。


ピアニストの中村紘子さん死去 大腸がんで闘病も…72歳
スポニチアネックス 7月29日(金)0時18分配信

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死去した中村紘子さん

 ピアニストの中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため東京都内の自宅で死去した。72歳だった。

 葬儀は28日、近親者のみで執り行われた。後日、お別れの会を開く。喪主は作家の夫庄司薫(しょうじ・かおる)氏。

 中村さんは早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜てきされデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年ショパン国際ピアノコンクールで日本人初の入賞を果たし、世界各国で3800回を超えるリサイタルを開催してきた。チャイコフスキー国際コンクールなど、世界のピアノコンクールの審査員を歴任。著書「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受けるなど文筆家として知られたほか、CMでも親しまれた。紫綬褒章、日本芸術院賞・恩賜賞。若手ピアニストの育成にも意欲的に取り組んだ。

 しかし、2014年2月、腸閉そくの手術をした際に大腸がんが発覚。その後、昨年1月に大腸がんを公表し一部公演を休演。その後、演奏を再開したが同年8月、治療に専念するためとして活動休止を発表。今年の5月には川崎市内で行われた演奏会に出演し、約8カ月ぶりに演奏活動を再開。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公演となった。

 で夫の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだと言って、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です」とコメントを発表している。


人気ピアニスト、中村紘子さん死去…文筆活動も
読売新聞 7月29日(金)0時17分配信

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中村紘子さん

 国民的な人気のピアニストとして活躍し、機知に富んだ文筆活動でも知られた中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため死去した。

 72歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は、夫で芥川賞作家の庄司薫氏。

 山梨県生まれ。3歳で斎藤秀雄らが主宰した「子供のための音楽教室」に入り、後にチェロ奏者となった堤剛さんらと学んだ。天才少女と評判になり、1959年、「音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)で史上最年少で第1位特賞となり、楽壇デビュー。60年には、NHK交響楽団が初めて行った世界一周演奏旅行のソリストに抜てきされた。米国留学の後、65年にショパン国際ピアノコンクールで日本人初の第4位に入賞し、名声を確立した。


ピアニストの中村紘子さん死去
産経新聞 7月29日(金)0時16分配信

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中村紘子さん(写真:産経新聞)

 ショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞し、世界各国のピアノコンクールの審査員も歴任した世界的ピアニスト、中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日に大腸がんのため死去していたことが28日、分かった。72歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は夫で作家、庄司薫(しょうじ・かおる=本名・福田章二)氏。

 山梨県生まれ、東京・世田谷育ち。指揮者の小澤征爾さんらを輩出した桐朋学園「子供のための音楽教室」で幼児期から学んだ。慶応義塾中等部在学中の昭和34年に日本音楽コンクールで史上最年少で第1位特賞を受賞し、翌35年にはNHK交響楽団初の演奏旅行のソリストに起用された。その後、米ニューヨークのジュリアード音楽院に留学。1965年の第7回ショパンショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞した。

 チャイコフスキー国際音楽コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員も歴任。その体験に基づく著書「チャイコフスキー・コンクール」は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

 後進の指導にも情熱を注ぎ、平成8年から「浜松国際ピアノアカデミー」を開催。一方、大腸がんの治療のために、平成27年2月から音楽活動を休止したが、同年3月にはステージに復帰。その後は闘病生活を送り、活動休止と復帰を繰り返しながら公演にも励んだ。

 今年4月には「日本パデレフスキ協会」の副会長の就任会見で元気な姿を見せていた。

 20年に紫綬褒章を受章したほか、国内外での受賞多数。著書に文芸春秋読者賞を受賞した「ピアニストという蛮族がいる」「コンクールでお会いしましょう~名演に飽きた時代の原点~」など。

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