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2016年3月11日 (金)

東日本大震災・原発事故関連のニュース・2106

引き続き、2011年3月11日に発生した、東日本大震災ならびに東電福島第一原発事故に関連するニュース記事を伝達します。

今後も引き続き、随時追加します。

リンク:「寄り添う気持ち忘れない」=被災3県人会が追悼式―ブラジル - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年追悼式に遺族ら1090人 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 ばあちゃんみたいに強くなる 宮城県七ケ浜町 鈴木杏奈さん(23) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 復興に3つの「底力」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年追悼式典 天国で褒めてくれるかな - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年追悼式典 「悲しみ我慢の5年間」「もう戻れない」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 笑顔を常に 田野畑村・畠山香さん(48) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 笑顔を常に 山田町・織笠健太さん(37) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 笑顔を常に 釜石市・千葉陽一さん(81) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 鎮魂を力に 石巻市・佐藤美香さん(41) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 鎮魂を力に 塩釜市・田村勉さん(61) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 再会を胸に 浪江町・門馬芹香さん(16) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 再会を胸に 富岡町・豊田直助さん(86) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 再会を胸に 南相馬市・斎藤誠さん(45) - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 危機管理どう進化 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災5年 風評被害払拭へ…野党は原発対応批判 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:【被災地の2011と今】(6)宮城・石巻市、消えた女神像 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:故郷戻れぬまま仮設校舎で3人の卒業式、福島・双葉中 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ハワイへ6000キロ漂流の第2勝丸、石巻に帰る - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:被災地の消防団員2千人減 - 速報:@niftyニュース.
リンク:「絆」バリケードで勇気を=高校生デザイン、実用化―宮城 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:被災体験と「青葉城恋唄」語る…さとう宗幸さん - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:政府主催の大震災追悼式での天皇陛下のお言葉 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:政府主催と各地の追悼式での被災3県遺族の言葉 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:政府主催の東日本大震災追悼式での首相の式辞 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災5年 自民が民主政権の震災対応検証へ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:外国人宿泊者、3倍を目標…東北の観光復興に力 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災5年>3・11列島ドキュメント - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災5年 両陛下、終わりなき「ご慰問の旅」 16日から福島、宮城へ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:東日本大震災5年 政府、復興基本方針を閣議決定 事業費6.5兆円確保 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<大震災5年>遺構保存検討の校舎でサバイバルゲーム - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:神戸は寄り添い続ける - 速報:@niftyニュース.
リンク:<大震災5年>未来の命守るため…被災者願い「忘れないで」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:高浜3号機が冷温停止=運転差し止め仮処分で―関電 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

「寄り添う気持ち忘れない」=被災3県人会が追悼式―ブラジル
時事通信 3月12日(土)8時35分配信

 【サンパウロ時事】世界最大の日系社会を抱えるブラジルのサンパウロで11日、東日本大震災から5年に合わせ、岩手、宮城、福島の3県人会が被災地復興を祈る式典を開催した。
 参加した移住者や日系人ら約100人は「被災地に寄り添う気持ちを忘れない」と、故郷を支援する思いを新たにした。
 参加者は献花台に白い花を供えて犠牲者を追悼。ブラジル宮城県人会の中沢宏一会長(72)は「3月11日を災害について考える日にしたい」とあいさつし、震災の記憶を風化させないことの重要性を訴えた。
 式典では、綿栽培を通じて復興に取り組む福島県いわき市のNPOの活動や、宮城県石巻市の子供たちが復興の様子を取材して新聞を作成する取り組みも紹介された。


震災5年追悼式に遺族ら1090人
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 死者、行方不明者1万8455人、関連死3000人以上を出した東日本大震災は11日、発生から5年を迎えた。東京都千代田区の国立劇場では天皇、皇后両陛下をお迎えして、政府主催の五周年追悼式が開催された。被災各地でも追悼行事が催され、日本中が鎮魂の祈りに包まれた。

 追悼式には津波に襲われた岩手、宮城、福島3県の遺族ら約1090人が出席した。国歌斉唱後、震災発生の午後2時46分に1分間黙祷(もくとう)し、犠牲者の冥福を祈った。安倍晋三首相は式辞で「政府一丸となって災害に強い強靱(きょうじん)な国づくりを進めていく」と誓った。

 遺族代表も登壇し、岩手県の山本永都さん(22)、宮城県の木村正清さん(52)、福島県の佐久間国幸さん(66)が復興への決意を語った。一方、中国は台湾の駐日代表の招待に反発し、3年連続で欠席した。


震災5年 ばあちゃんみたいに強くなる 宮城県七ケ浜町 鈴木杏奈さん(23)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 「なぜあの時、ばあちゃんの手を離してしまったんだろう」。悔やみ、自分を責めてきた。東日本大震災でともに津波にのまれた祖母を失った鈴木杏奈さん(23)=宮城県多賀城市=にとって、この5年は自問の日々だった。11日に同県七ケ浜町の追悼式で祖母に語りかけたのは区切りをつけたかったから。「ごめんね。寒かったよね」。救われた命。これからは後悔ではなく感謝の思いで生きる。

 振り返ると濁流が目の高さに迫ってきた。「あっ!」。高校の卒業式を終えたばかりの平成23年3月11日。祖母のたけよさん=当時(82)=の手を引き高台へ逃げようとしていた鈴木さんは、とっさにつないでいた左手を離してしまった。ただただ恐怖だった。直後、正面からの衝撃で押し流された。「もう無理」「死にたくない」。気付くと木が足の間にはさまり奇跡的に助かっていた。

 「ばあちゃーん!」。いくら呼んでも返事がない。両親と2人の妹、祖母と暮らしていた家も流された。13日に父の雅浩さん(55)が同県利府町の安置所で祖母の遺体を確認。祖母の顔はこたつで昼寝をしているときと変わらなかった。

 罪悪感も押し寄せた。「私のせいだ」。とことん自分を責めた。「あの時に戻れたら、流されても最後まで手を離さなかったのに」。祖母は戻らないと分かっていても、何度も同じことを考えた。穏やかな笑顔、地震後に懸命に高台を目指す横顔…。23年5月に進んだ専門学校でも、授業中にふいに祖母を思い出しては涙がこぼれた。

 変化は24年秋。多賀城市の勤務先で家族を失った人々に出会った。「私だけじゃないんだ」と知った。「きっとばあちゃんが助けてくれたんだね」。親戚の言葉にも胸が軽くなった。

 あの日握っていた、祖母の大きくて柔らかな手の感覚は、今も左手に残っている。風で波立つ海はまだ苦手だ。ただ、5年の節目を「気持ちのリセットのきっかけにしたい」とも思う。

 病気で流動食生活になっても明るさを失わなかった祖母。鈴木さんの目標は「ばあちゃんみたいに強く生きること」。そして「七ケ浜の家のような笑いの絶えない家族を作ること」だ。追悼式で涙まじりに呼びかけた。「天国から見てくれているかな? これからも見守っていてね」。姿はなくてもずっと一緒だ。(滝口亜希)


震災5年 復興に3つの「底力」
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 「国難」ともいえる東日本大震災。被災地のこの5年間の道程は日本人が持つ底力を、東北の人々が実証的に示した過程であった。今こそ、東北に学ぶべきことは何かを考えたい。

 復興を進める東北の人々の底力の源泉は、3つあると思う。1つ目は「現実の受容」だ。

 幕末の会津藩士の子で、後に陸軍大将となる柴五郎の人生を記した名著「ある明治人の記録」(石光真人編著、中公新書)によると、会津が降伏後、下北半島の厳寒の地、斗南藩に移封された際、少年時代の柴は餓死寸前の厳しい生活の中で自らをこう鼓舞した。「いまになりて嘆き怒りても甲斐なし、ただひたすらに堪えぬくばかりなり」

 大切な人や家を失った現実を受け入れ、自らを鼓舞しながら前に進もうとしている被災者の姿は、柴の生き方と重なる。

 2つ目は「地域への愛情」だ。津波で18時間漂流して生還した男性が今、林業で被災地のまちおこしをしようと奮闘している。男性は言う。故郷は、そこにいる「人」そのものだと。故郷の土地、人への愛情の強さが、復興への大きな原動力となっているのだ。

 3つ目が「自立心」。宮城県南三陸町で先月、自らも震災で妻を失ったという男性に出会った。彼が言った言葉が忘れられない。「被災者も、援助されることに慣れてしまった面がある」。震災5年を機に「自立すべき時」と考える被災者も増えている。

 71年前も日本は焼け野原から再生へ歩み出し、世界有数の経済大国へと発展を遂げた。しかし、今の環境は戦後とは全く違う。日本の総人口は減少に転じ、国力の低下が懸念されている。人口減少が加速している被災地は将来の日本の姿そのものなのだ。

 人口減少が進む中で地域をいかに活性化していくかということは日本全体の課題だが、被災地の人たちが震災後、試行錯誤しながら取り組んできたことは、そのお手本となるはずだ。この5年間で育まれた東北の強さを日本人全体の糧としたい。(東北総局長 白浜正三)


震災5年追悼式典 天国で褒めてくれるかな
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 □宮城県遺族代表・木村正清さん(52)

 ■父が託した夢地域防災で博士号に挑戦

 「お父さん、自分の命も顧みずにお母さんを助けに行ってくれてありがとう」。宮城県代表として11日の政府主催の追悼式に出席した会社員の木村正清(まさきよ)さん(52)は壇上でこう述べた。「愛の深さと勇気を知り、あなたの偉大さを痛感しています」。父への思いも率直に話した。

 平成23年3月11日。宮城県女川(おながわ)町に住んでいた父親の一太郎(かずたろう)さん=当時(75)=は津波の兆候に気付き、自宅で伏せていた母親の信子さん=同(76)=を助けに向かった。信子さんは数時間前に病院を退院したばかりだった。「信子! 信子!」。自宅に向かう一太郎さんの叫び声を近所の住民は聞いていた。

 いまも両親は見つかっていない。「今後は誰が自分を褒めてくれるのか」。行方不明の報を聞いたとき、こう思って泣き崩れた。漁師だった一太郎さんの夢は息子に学業で身を立ててもらうことだった。「俺の最高で最良の息子だ」。照れもせず褒めてくれた。期待を背に慶応大学に進学し、民事訴訟法を学んだ。

 思い出の品も流されてしまった。見つかったのは、津波で流されて基礎部分だけとなった自宅に転がっていためおと茶碗(ぢゃわん)だけだ。大きめの一太郎さんの茶碗が、小さめの信子さんにかぶさるように転がっていた。「あんなふうに助けてくれたんだろうな」。茶碗は二度と離れないよう、布にくるんで自宅にある。

 木村さんは震災後、実践的な防災能力を身に付けるための研修の講師として、各地を走り回る。「父親は自分の命を捨てて母親を守った。自分は何ができるのか」。両親の葬儀を機に木村さんが出した結論だ。

 「イメージを持てなければ、避難もできない。1分後、3分後、1時間後に何が起きるか。それを踏まえた上で、さらに想定を超えることが起きると自覚する。それが大事なんです」

 昨年3月には東大の教授と地域防災に関する論文を執筆。博士号取得に向けて動き出した。

 「博士号、取れそうか」。かつて、そう聞いてきた一太郎さん。数十年の時を経て、また博士号を追いかける自分がいる。「天国で褒めてくれるかな?」

 「微力ながら地域防災に貢献できるよう全力を尽くしますので、天から見守っていてください」。追悼式での言葉は、両親との離別から5年を経た「最良の息子」の誓いの言葉だった。(荒船清太)


震災5年追悼式典 「悲しみ我慢の5年間」「もう戻れない」
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 政府主催の追悼式には、遺族らも次々に献花に訪れた。

 東京都台東区で単身赴任中の谷沢順二さん(48)は岩手県釜石市出身。震災では、津波で逃げ遅れた父=当時(73)=を失った。当時は隣町の住田町に住んでおり、「いつでも会える」と思っていたが、その年の正月に顔を見たきりになった。

 「仕事で帰りたくても帰れない。親孝行をしておけばよかったという思いが消えない。悲しみを我慢してきた5年間だった」

 宮城県気仙沼市出身の会社員、熊谷一樹さん(41)=東京都世田谷区=も津波の犠牲になった母=当時(64)=のために祈った。震災の2日前が母の誕生日。震災の年にメールを送り、「元気で頑張って」と返信が来たのが最後だった。5年たったが、「まだ実感が湧かない」という。

 東京電力福島第1原発事故で、70代の父母が福島県富岡町から同県郡山市に避難しているという30代の女性会社員の姿も。実家を取り壊すことになり、年末年始に片付けを手伝ったばかりだといい、「町の雰囲気は何も変わっていないのにもう戻れない」と話した。


震災5年 笑顔を常に 田野畑村・畠山香さん(48)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■父失い兄不明でも「私ばかり悲しんでいられない」

 いつも笑顔でいることが自分の役割だと思って過ごした5年間。それでも、この日だけはこみ上げてくるものを抑えられなかった。

 「愛する妻や子供、孫を残して、どれほど無念だったでしょう。苦しかったでしょう」。岩手県田野畑村で行われた11日の追悼式。遺族代表の言葉を述べた畠山香さん(48)は、津波で亡くなった父、義雄さん=当時(75)=と、今も行方不明の兄、誠さん=同(45)=を思い浮かべ、涙をぬぐった。

 高台にある民宿「ひらいが海荘」を営む畠山さんは、明るい声と笑顔がトレードマークの名物女将(おかみ)だ。

 あの日、民宿のロビーからは、白い波が迫ってくるのが見えた。津波は実家があった三陸鉄道北リアス線「島越駅」付近を襲い、義雄さんらをのみ込んだ。

 後に、義雄さんはいったん避難所まで逃げたものの、自宅に戻って犠牲になったこと、地元の消防団員だった誠さんは、水門を閉めに行ったまま波にのみ込まれたことを教えられた。

 それでも「私ばかり悲しい、悲しいなんて言っていられない」。震災で傷ついた田野畑村をもり立てようと、旅行客やボランティアらを笑顔で迎え入れた。

 平成26年12月、漁師の網に骨のようなものが引っかかった。調べた結果、義雄さんの骨盤の一部だった。

 遠洋イカ釣り漁船に乗っていた義雄さん。1年のうち、数カ月しか家にいない父だった。「嫁にいくのかよお」。畠山さんの結婚が決まり、船の上から泣きながら電話をかけてきた記憶がよみがえってきた。

 まだ見つからない誠さんには、写真を眺めて「まだ帰りたい気分じゃないのね。私が頑張るから、気が済むまでふらふらしていていいわよ」と語りかけるのが日課だ。でも、必ずどこかで見守ってくれていると信じている。

 昨年、実家があった場所には村のコミュニティーセンターが完成。最近は戻る場所がなくなったさみしさに加え、高台移転で住民同士の交流が少なくなったように感じている。

 震災直後は、住民みんなが同じ方向を向いていた。

 「絆や、お互いを思いやる優しさを大切にできれば、これからも前を向いて歩き続けられる」

 5年をきっかけに、もう一度あのころの気持ちを取り戻したい。そう願っている。(石井那納子)


震災5年 笑顔を常に 山田町・織笠健太さん(37)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■器の大きい父になる

 あの日の朝、「行ってきます」と声をかけると、「おう」といつものように返ってきた。それが父との最後の会話だった。

 「こんなにも守られていたのだと、人の親になった今、ひしひしと感じています。子供を両親に抱いてほしかったです」

 岩手県山田町の団体職員、織笠健太さん(37)は11日、同町の追悼式で追悼文を読み上げ、津波で亡くなった父、浩二さん=当時(58)=と母、敦子さん=当時(58)=への思いを語った。

 普段は寡黙だが、間違ったことをしたときは「それは違うんじゃねえの」と一喝する厳しさもあった浩二さん。毎年9月の町の例大祭「山田祭」が近くなると家に仲間を集め、酒を酌み交わし盛り上がった。

 にぎやかな笛と太鼓の囃子(はやし)に乗せ、みこしを担いで縦横無尽に動き、最後は大漁を祈願して海中へ入っていく勇壮な「海上渡御(とぎょ)」。高校生になって初めてみこしをかついだとき、浩二さんは何も言わなかったが、周囲から「本当は喜んでいる」と聞いた。そんな父子の姿を敦子さんは毎年、沿道から見守っていた。

 しかし、津波は海から100メートルの神社に保管されていたみこしも流し去った。

 見つかったのは、みこしについていた飾りの鳳凰(ほうおう)だけ。それでもあきらめるわけにはいかなかった。

 「祭りは町のみんなをつなげてきた。復活させなければ」。みこしの担ぎ手仲間と一緒に募金活動を始めた。寄付は計2千万円近く集まり、昨年9月、山田祭は4年ぶりに復活。その日、あえて墓前で報告はしなかった。「きっと父は見に来ている」。そう感じたからだ。

 震災後、志保子さん(37)と結婚し、瑠偉(るい)君(9カ月)も生まれた。普段、両親を意識することもめったになくなった。ただ、何かを決断するとき、「父さんだったらどうするかな」と考える。

 「別にあこがれとか、そういうのじゃないんです」と笑うが、目指す理想の父親像は「器の大きい人」。亡き父を自分に重ねつつ、今年もまた、みこしをかつぐ。(市岡豊大)


震災5年 笑顔を常に 釜石市・千葉陽一さん(81)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■「早く高く」孫へ教訓

 「ここまでまさか津波が襲ってくるとは、といった先入観があったかもしれない」

 災害関連死を含め東日本大震災で1062人が亡くなった岩手県釜石市。11日の追悼式で母、トモさん=当時(92)=を低体温症で失った千葉陽一さん(81)は、遺族代表の挨拶で悔悟の念をにじませた。

 「自分の判断が間違っていたせいで母親の命を奪われたようなもんだ」。千葉さんはこの5年間、自責の念に駆られて生きてきた。

 同市唐丹町(とうにちょう)の小白浜(こじらはま)地区で、祖父の代から衣料品や日用品を漁業関係者に売る雑貨店を営んできた。千葉さんが生まれる前年の昭和8年に地域を襲った三陸地震で当時、海抜0メートルにあった旧店舗は全壊。その教訓から海抜約20メートルの高さにある現在の高台に移転した。

 「この高さなら絶対安全だ」。5年前のあの日、そんな自信が妄想にすぎなかったことを思い知った。

 強い揺れに襲われた直後、千葉さんはトモさんと妻の妙子さん(75)の無事を一旦確認すると、周囲を確認するため、ほんのわずかだけ家を離れた。その間、濁流が店舗の入り口を破り、玄関脇の部屋にいたトモさんはがれきの下敷きに。引きずり出し、布団を何重にもかけて温めたが、同日夜に息を引き取った。

 「寒いよぉ、寒いよぉ」。トモさんのうめき声は今も千葉さんの耳に焼き付いている。「あの時、年老いた母親を即刻、手押し車でも、背中におぶってでも避難すべきだったと思う」

 千葉さんには内陸で暮らす4人の孫がいる。自宅に遊びに来るたび、こう諭している。

 「お前らも海の近くに来ることはあるだろ。地震が来たらな、1秒でも早く1メートルでも高いところに避難しなきゃだめなんだからな」

 孫たちに同じような思いをさせないために、生ある限り訴え続けるつもりだ。(五十嵐一)


震災5年 鎮魂を力に 石巻市・佐藤美香さん(41)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■6歳のままの愛娘に「守ってあげられずごめん」

 宮城県石巻市の佐藤美香さん(41)は11日、長女、愛梨ちゃん=当時(6)=が眠る市内の菩提(ぼだい)寺にいた。午後2時46分。発生時刻に黙祷(もくとう)をささげた。

 《今(いま)何(なに)をしてますか?

 どんなことが出来(でき)るよう になりましたか?

 5年分(ねんぶん)のいろいろなこと が聞(き)きたいです》

 前日に愛梨ちゃん宛ての手紙を書いた。すべて漢字にルビを振った手紙は、おたきあげで釜にくべられた。

 5年前、愛梨ちゃんを乗せた日和幼稚園のバスが津波にのまれた。炎上し、園児5人が死亡した。遺体は黒焦げで見つかった。学級で後ろから2番目だったのに、赤ちゃんより小さくなっていた。

 「あの日から時が止まっている」

 美香さんにとって、天真爛漫(らんまん)で一家のアイドルだった愛梨ちゃんは6歳のまま。命日を重ねる度、仏前で「もう2年生だね」「4年生になったね」と話しかけるが、成長した姿はイメージできない。

 三つ下で当時3歳の次女は新年度、4年生になる。学年も身長もその頃の長女をとうに超えた。次女の成長を喜ぶ一方で、妹に追い越された長女の内心を気遣う複雑な感情が交錯する。

 昨年、宮城県利府町の梨畑に愛梨ちゃんの記念樹が植えられた。今年も花を付け、果実を実らせる。

 <佐藤愛梨 五年○組> 自宅の仏壇に、愛梨ちゃんが進む予定だった地元小学校の名札を置く。美香さんが毎年、新年度の初めに買って、名と学年を書き込む。学年は1年ずつ進級する。組の欄はどの組になるか分からないから、空欄のままだ。

 法要を終え、美香さんは愛梨ちゃんが津波に巻き込まれた現場に足を運んだ。復興のかさ上げ工事が行われ、立ち入り禁止のバリケードが立っている。

 「守ってあげられずごめんね」

 美香さんは、遠くから手を合わせた。(伊藤寿行)


震災5年 鎮魂を力に 塩釜市・田村勉さん(61)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■天国の息子と2人で小料理屋

 この5年間、最愛の息子を失い、生きる気力をなくした時期もあった。それでも今は、息子と話した「一緒に小料理屋を開く」という夢のため、前を向く。宮城県塩釜市で11日、東日本大震災の追悼式が行われ、遺族代表として田村勉さん(61)は、「思いに応えるため、一生懸命生きていく」と決意を述べた。

 長男の龍太(りょうた)さん=当時(22)=は、勤務先の中華料理屋に車で向かう途中、多賀城市内で津波にのまれた。遺体安置所で遺体を見るまでは、死を信じられなかった。遺体にすがりついて何度も「起きろ」と呼びかけたが、龍太さんが応えることはなかった。

 長年、調理師として働いてきた田村さん。龍太さんが調理の道に進んだとき、自身が使ってきた1本の包丁を譲った。「これが使いこなせるようになったら、新しいのを買ってあげる」。龍太さんがしっかりした目で見つめ返してきたのを覚えている。

 譲った包丁は、龍太さんの車内から遺品として発見された。「店で練習するつもりで持っていったのかな」。塩水に漬かり、いくら研いでも再び使えるようにはならなかった。龍太さんには内緒で、新品の包丁一式はすでに用意してあったが、渡すことがないままに仏壇の前に置いてある。

 震災からしばらくは、心の支えを失って何もする気力が起きなかった。

 調理の仕事を辞め、昼は行く当てもなく出歩き、夜は仏壇の前で遺影に語りかけながら晩酌をする毎日。龍太さんの遺体が発見された場所に通って花束を供えては、復興していく町並みに、置いていかれるような気持ちになった。

 1年ほど過ぎたある日、龍太さんから「おやじが定年退職したら、一緒に小料理屋をやろう」と持ちかけられていたことを、ふと思い出した。震災の2カ月前、近所の居酒屋で酒を飲みながら、最初で最後となった男同士の話し合い。落ち着いてくると、とても良いアイデアのように感じた。

 現在は開店資金をためるため、多賀城駅の食堂で調理師の仕事を再開している。店で働く若い子たちに龍太さんを重ねることもある。休みの日には不動産物件を見て回り、着々と開業準備は進んでいる。「今はそれが生きがい。私の気持ちは、息子を失って時計が止まったままだけれど、生きていかなくちゃならない」。開店した暁には、龍太さんのために用意した包丁を使うつもりだ。(三宅令)


震災5年 再会を胸に 浪江町・門馬芹香さん(16)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■立ち会えなかった火葬、「ばばちゃん、高校生になったよ」

 震災から5年を迎えた11日、福島県二本松市では同県浪江町の追悼式が開かれ、津波で祖母、安斉正子さん=当時(65)=を亡くした高校生、門馬芹香さん(16)が遺族代表として追悼の辞を述べた。

 「5年がたった今でも、ばばちゃんが亡くなったこと、津波で昔のような浪江の景色がもうないことを受け入れられない自分がいるのです」。緊張した面持ちながら、今の素直な気持ちを口にした。

 当初は遺族代表として参列することに気乗りがしなかった。だが祖父に促され、正子さんに伝えていないことがたくさんあることに気づき、引き受けた。

 「まだ、どこかで生きているんじゃないかなと思っている」

 おばあちゃん子だった。同県南相馬市の自宅から祖母宅までは車で30分ほど。小学校までは、母の七重さん(45)と毎日のように遊びに行った。正子さんは、いつも「芹香ちゃん、いらっしゃい」と、ぎゅっと抱きしめてくれた。

 震災が襲ったのは小学5年生のときだった。津波が町をのみこみ、福島第1原発事故が起こった。

 一家は正子さんの安否が分からないまま、親戚のいる埼玉県入間市や、同級生が避難した新潟県聖籠(せいろう)町を転々とした。しかし、正子さんのことが気がかりな芹香さんは、新しい場所になじめなかった。通っていた小学校が再開すると知り、被災から2カ月後には南相馬の自宅へ戻った。

 正子さんを確認できたのはその1カ月後の6月。4月に発見されていたが、DNA型鑑定に時間がかかった。「遺体はすぐ見つかっていたのに…」。家族は火葬に立ち会うことができなかったことを今も悔やむ。

 あの時、140センチ程度だった身長は160センチになった。「ばばちゃん、私はもう高校生になったんだよ」-。今も正子さんに話したいことがたくさんある。

 今年、浪江町に正子さんの墓ができた。震災以降、浪江町に足を運んだことはなかった芹香さんは追悼式でこう誓った。

 「気持ちの整理をつけ、もう一度浪江に行こうと思います」(石野哲郎)


震災5年 再会を胸に 富岡町・豊田直助さん(86)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■大学生と交流 “孫”の成長見届ける

 「避難による根無し草のような生活の中で、病に倒れた私の妻は家に帰りたいと連日叫びながら、寂しく黄泉路(よみじ)へと旅立ちました」

 360人が犠牲となった福島県富岡町の追悼式では11日、遺族代表の畜産業、豊田直助さん(86)の声が切々と響いた。

 自宅は東京電力福島第1原発から約8キロの位置にあった。10頭の牛を育てる毎日。しかし、原発事故が発生。手塩にかけた牛を残し、いわき市への避難を余儀なくされた。

 「子牛が生まれて喜んだ次の日だったんだ」。毎夜、置き去りにした牛たちの鳴き声で目が覚めた。「空耳だったが、続くうちに『もういつ死んでもいい』と自暴自棄になった」

 苦難は続いた。平成22年3月に脳出血で倒れ、自宅近くの養老施設に入居していた妻、トミエさんは郡山市へ移動。いくつかの病院を転々とするうちに認知症が進行した。いわき市から郡山市の病院まで約100キロ。「バスを乗り継ぎ、しゃべらなくなった妻の見舞いは楽じゃなかった」

 トミエさんは会う度に「オラ家さ帰りてぇ」と騒いだ。「いま少し良くなったら、必ず連れて帰ってやっからな」。励まし続けたが願いはかなわず、25年5月、郡山市の病院で死去。79歳だった。震災関連死に認定された。「避難がなければもう少し長生きし、家で楽に死なせてやれたかと思うと残念でならねえ」

 それでも絶望に支配されることはなかった。親族に誘われるまま聞きに行った津軽三味線の演奏会で出会った筑波大の津軽三味線サークルの学生らとの交流があったからだ。

 今年2月には、学生が誕生日を祝うパーティーを開いてくれた。「俺にはこんな多くの“孫”がいるんだなって涙が出た。みんなが立派になるの見届けねえと死ねねえな」(小野田雄一)


震災5年 再会を胸に 南相馬市・斎藤誠さん(45)
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■新しい命 次男の生まれ変わり

 「あの日もこうやって雪が降ってきたな…」

 福島県会津若松市の中学校で11日に開かれた長男、拓人(ひろと)さん(15)の卒業式。斎藤誠さん(45)は舞い始めた雪に、青空と雪雲の入り交じった空を見上げた。

 あの日、家族で暮らしていた南相馬市で津波を受け、次男の翔太君=当時(5)=を亡くした。5年が過ぎ、拓人さんの卒業式のため、初めて翔太君が眠る地元の追悼式を欠席した。「翔太もお兄ちゃんをお祝いしてくれてるのかな」

 現在は、東京電力福島第1原発から約100キロ離れた会津若松市に一時避難している大熊町立熊町小学校で教員を務める。翔太君は、自転車で走り回るのが大好きで、生傷が絶えない子供だった。生きていれば4年生。「先生!」と走り寄ってくる同い年の教え子たちが「翔太の姿と重なってみえる」。

 震災当日、翔太君は南相馬市の自宅で、曽祖母らと津波に襲われた。斎藤さんは勤務先の小学校で児童の対応に追われ、自宅に戻ろうとしたときは浸水で近づけなかった。翌日には原発事故で警戒区域に指定され、翔太君を捜すことすらままならなかった。

 遺体が確認されたのは約1カ月後。妻の真紀さん(39)が服の襟にペンで書いた「しょうた」の文字が決め手だった。曽祖母らも同じ時期に遺体で見つかった。

 「翔太のそばにいてやれず、かわいそうだった。子供を守る学校の教員という立場でなかったらすぐに捜しに行ったのに…」。消えない自責の念。家族の中で翔太君の話題が出ることは一切なくなった。

 止まっていた時計の針がゆっくりと動き始めたのは2年後。家族に新しい命が誕生した。震災後に一度流産し、諦めかけていた子供。「この世に生きたいと強く願う翔太の生まれ変わりだ」と確信した。

 平成25年3月7日に生まれた弟は「優太」と名付けた。翔太君の一文字を引き継ぎ、優しい人間に育ってほしいとの願いを込めた。

 3歳になった優太君は、翔太君譲りの生傷が絶えない少年になった。5年の節目を迎え、ようやく家族内で翔太君の話ができるようになったという。ただ、心の中には複雑さも残る。

 「生きている限りうれしいことが起こる半面、翔太を忘れるわけにはいかない。でも新たな出来事に生きがいを見つけていくことは大事なこと。翔太もそれは分かってくれるよな」

 時計の針は、ほんの少し回る速度を速めている。(福田涼太郎)


震災5年 危機管理どう進化
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 ■自治体要請待たず援助/自衛隊1時間めど派遣

 東日本大震災は国の危機管理のあり方に大きな課題を残した。発生から5年を経て、首相官邸の司令塔機能強化や法制見直し、自衛隊では部隊運用改善などが進められ、教訓が実際の災害で生かされる場面もあった。今後、発生が想定される首都直下型地震や南海トラフ巨大地震に備え、不断の取り組みが続けられている。(千葉倫之、石鍋圭)

                  ◇

 菅義偉(すが・よしひで)官房長官は11日の記者会見で、政府の危機管理について「官邸を司令塔として、関係機関が一体となって取り組むことが大事だ」と指摘した。24時間態勢での情報集約や、関係省庁の局長級による緊急参集チームなどを挙げ「発生した瞬間に対応できる態勢を整えてきた」と強調した。

 政府は震災後、災害対策基本法を3度改正。被災自治体の要請を待たずに国や都道府県が物資を支援できるようにするなど、多くの教訓を反映させた。緊急車両の通行を阻む放置車両の強制撤去も可能になり、平成26年に起きた西日本の大雪で初適用された。

 防災基本計画も改定が重ねられ、津波や原子力災害対策を強化した。事前に復興の手順を定める大規模災害復興法も整備された。

 現場を担う自衛隊でも運用改善が進む。25年9月には、救援の初動部隊の名称を「ファスト・フォース」に改め態勢を強化。約3千人の陸自隊員を全国158駐屯地に配置し、海自艦艇や空自の航空機も常時待機させる態勢を敷く。

 発災から1時間をメドに派遣し、本隊到着までの初動を行うファスト・フォースは、26年8月の広島市の土砂災害など多くの現場に出動。防衛省幹部は「震災を機に隊員の意識も態勢も強化された。初動対応のレベルは確実に上がった」と強調する。

 震災で課題となった陸海空3自衛隊の一体的な運用も強化。演習内容を震災を踏まえたリアルな状況設定に一新した。25年10月の伊豆大島の台風被害では、東日本大震災以来、2度目となる3自衛隊の統合任務部隊が救援活動を展開、編成要領の事前整備などが奏功し、スムーズな活動につながった。


震災5年 風評被害払拭へ…野党は原発対応批判
産経新聞 3月12日(土)7時55分配信

 東日本大震災から5年を迎えた11日、永田町も「追悼」の一日となった。政府・与党は犠牲者を悼むとともに、「被災地の農林水産業が一日も早く復興するよう全力で取り組む」(森山裕農林水産相)と、復興への誓いを新たにした。

 国土強靱(きょうじん)化担当の加藤勝信1億総活躍担当相は記者会見で「災害に対して強さとしなやかさを備えた国づくりを進める」と表明。岸田文雄外相は「(東京電力福島第1原発事故を受けた)各国の輸入規制措置の緩和や撤廃に向けた働き掛けを継続する。風評被害の払拭に努める」と述べた。

 自民党の谷垣禎一幹事長は11日の役員連絡会で「復興は着実に進みつつあるが、政府・与党が結束して被災地に寄り添いながら復興を加速していきたい」と訴えた。公明党の井上義久幹事長も「復興を前に進めたい」と決意を語った。

 遠藤利明五輪相は2020年東京五輪・パラリンピックを「復興五輪として被災地に貢献できるよう努めていく」とする一方、「復興はまだまだ進んでいない」と語った。石破茂地方創生担当相も「復興に向けた法律策定や復興資金の調達に、もう少しスピード感があればよかった」と振り返った。

 一方、野党は復興の遅れや原発の再稼働をめぐる政府対応を批判した。民主党の岡田克也代表は談話で「原発の廃炉工程の遅れ、止まらない汚染水流出、風評被害など、福島再生にはいまなお困難な課題がある」と強調した。

 社民党も談話で「多くの被災者が生活再建の途上にあり、将来への希望を見いだし得ない現実は政治の怠慢」と批判。共産党の小池晃政策委員長は「(原発の)再稼働中止と廃炉を進めることが(原発事故から)学ぶべき最大の教訓だ」と指摘した。


【被災地の2011と今】(6)宮城・石巻市、消えた女神像
スポーツ報知 3月12日(土)7時38分配信

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石巻市の自由の女神像 2011年(上)と2016年

 スポーツ報知では「被災地の2011と今」と題し、震災当時、東北支局長だった関口俊明カメラマン(52)が、震災直後に撮影した各被災現場を再訪し、5年後を定点観測した写真を連載します。

 津波で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市で、左足を失いながらも生き残った中瀬マリンパークの「自由の女神像」は、2010年に建てられた。太平洋を眺める高さ約10メートルの女神像は津波に耐えた復興のシンボルとして残す計画もあったが、震災後の劣化で倒壊する恐れもあり、14年に撤去。現在は台座だけとなった。


故郷戻れぬまま仮設校舎で3人の卒業式、福島・双葉中
スポーツ報知 3月12日(土)7時6分配信

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福島県いわき市の双葉中では3人の卒業式が行われた。(左から)荒木和人君、小谷野潤人君、木幡薫乃さん

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から5年となった11日、被災地では夜明けから遺族らが亡き人へ思いを馳せ手を合わせた。福島県内の公立中学では一斉に卒業式が行われ、第1原発が立地し今もなお全町避難が続く福島県双葉町の双葉中はいわき市内にある仮設校舎で3人の卒業生を送る式を開いた。各地では追悼式が開かれ、「3・11」に復興への決意を新たにしていた。

 卒業生3人と在校生7人で行われた卒業式。小さな体育館に、荒木和人君(15)の答辞が響き渡った。

 「東日本大震災から、今日でちょうど5年がたちます。震災当時は、双葉中学校で学校生活を送ることはできないだろうと思っていました。双葉中学校に来たからこそできた経験や出会いの一つひとつが、自分たちを成長させてくれたのだということを、今、深く実感しています」

 「3・11」に福島県内の公立高校で卒業式が行われるのは、大震災が起きた11年以来。5年前、式の直後に激しい揺れが校舎を襲った。当時の双葉中の卒業生は74人いたが、今年はわずか3人。震災後、福島第1原発5、6号機がある双葉町民は避難を余儀なくされた。放射線量が高まり、町全域が原則立ち入り禁止の「帰還困難区域」とされ、今も町民約6200人は故郷に戻ることができず、38都道府県に散り散りになったままだ。震災と事故がなければ、5年前と同じように多くの仲間と卒業を迎えたはずだった。

 荒木君は当時、10歳で小学4年生。原発が何なのかもよく分からない中で、5年生から神奈川県湯河原町の小学校に転入した。中学から福島県いわき市に転入。同じ福島県内に戻ってきたが、入学先はいわゆるマンモス校で、「人間関係がうまく作れなかった」という。そんな「つらい状態」を救ったのが、2年前の双葉中再開の一報だった。荒木君は「もう一度、双葉町の人たちに会いたい」とすがる思いで、中学2年生の14年5月から転入を決意した。

 双葉中では、同じ幼稚園に通っていた仲間と再会。小谷野潤人(おやの・ひろと)君(15)と、小学校でも同級生だった木幡薫乃(こわた・ゆきの)さん(15)だ。荒木君は、1か月前に転入していた幼なじみ2人にすぐにとけ込んだ。当初は、いわき市内の銀行の支店だった建物内で、パネルで仕切られた教室だったが、「久しぶりに心から笑えるような、楽しいクラスになった」。転入前の中学で着ていた詰め襟、ブレザーなど三者三様の制服姿。避難のため見知らぬ地を転々とすることの苦しさ、悩みを知る3人は励まし合い、絆は深まった。

 少人数だから自然と責任が大きい役割もこなすようになった。3年生で生徒会長になった荒木君は「以前の中学にいたら、会長なんてやらなかったと思うし、できなかった。でも、気持ちを分かり合える友達に出会えたから…」とかけがえのない出会いに感謝した。

 来年度の新入生は1人で、全校生徒は8人に減る。それでも荒木君は「踏ん張って、さらに良い双葉中にしてほしい」と後輩たちに期待する。2年生の澤上美羽(さわがみ・みう)さん(14)は送辞で「学年を超えて協力しあえるよき校風を受け継ぎ、新たな伝統を創っていきたい」と述べた。

 3人はそれぞれ希望通り、県内の高校、高専へ進学を決めた。だが、いわき市から約60キロ離れた故郷・双葉町に戻れる見通しはたっていない。それでも、荒木君は前を向く。「この学校に来て夢を持つことができた。高校で得意な機械整備を専門的に学び、将来、町のために役立てたらうれしい」(江畑 康二郎)

 卒業式の後、教室でホームルームが行われた。卒業生3人を2年間担任として見守った三瓶(さんぺい)ゆき先生(42)が、「先生は想像つかないけど、みんなは10歳で大変な思いをしてきた」と切り出し、「転入してきた時の不安そうな顔、それでも必死に強がる顔を思い出します」と振り返ると、生徒からすすり泣く声が漏れた。「あれから、みんな本当に成長しました」と目を細めた。

 三瓶先生は、荒木君の答辞の中に自らの思いを書き足したことを告白。「『穏やかに優しく時が流れるこの学校』という部分。ゆったりした2年間でした」と振り返った。


ハワイへ6000キロ漂流の第2勝丸、石巻に帰る
スポーツ報知 3月12日(土)7時6分配信

 太平洋の波にもまれ、船体を傷めながらも4年の時を経て約6000キロも離れたハワイにたどり着いた全長6メートル、重さ500キロの小舟が、震災から5度目の「3・11」に、東北の海に帰って来た。

 「第2勝丸」の元持ち主は、石巻市雄勝町に住み、2003年に病気のため65歳で亡くなった伊藤恭一さん。恭一さんの死後の所有者は現在も判明しないが、震災まで雄勝町内に係留されていた可能性が高い。昨年4月22日、オアフ島東部のサンディー・ビーチに流れ着いていたのを米国人の女性が発見。「日本の文字が書いてある」と現地在住の日本人の知人に連絡し、存在が明らかになった。

 その後、引き渡しの手続きを経て今年2月、宮城水産高の生徒らが乗った実習船「宮城丸」がホノルル港に入港した際に積み込み。この日正午過ぎに石巻工業港に到着。予定通りの航海で、震災発生日となったのは偶然だという。

 恭一さんの次女・早苗さん(44)は発見当時を振り返り「4年が過ぎ、あまり震災のことが言われなくなった時の出来事。父が『震災を忘れるな』とメッセージを送っているかのような感覚がありました」。恭一さんは船員を定年退職後に「第2勝丸」を購入。雄勝町の波板地区で釣り客を乗せて海に出ていた。「仕事で船に乗り、辞めた後も趣味で船に乗り、本当に海が好きだった。その父の船が戻って、感謝の気持ちでいっぱいです」。父の愛船が「宮城丸」から降ろされると「よく帰ってきたね」とばかりに、船体をなでた。

 恭一さんの妻・たけのさん(当時68歳)は東日本大震災当時、独り暮らし。津波で行方不明となり、現在も手掛かりはない。たけのさんは釣り好きで、恭一さんの生前は夫婦で船に乗ることもあったという。早苗さんは「花が好きで、家の跡で植木鉢が幾つか見付かったほかは、震災の数日前に私の家に忘れていった帽子くらいしか母の物は残されていない。母の命日に、父が帰って来てくれた気がする」と笑みを浮かべた。

 今後「第2勝丸」は、地元の有志で作った「未来へのキオク 第2勝丸保存会」の所有となり、波板地区の海岸沿いに設置される。保存会の会長で恭一さんのいとこでもある伊藤武一さん(68)によると、来年の3月11日までに慰霊碑なども併設する予定。武一さんは「雄勝には現在、震災の遺構が一つもない。第2勝丸を太平洋に臨む地元に展示することで、津波の教訓を後世に伝えたい」と言葉に力を込めた。(高柳 哲人)


被災地の消防団員2千人減
2016年3月12日(土)5時28分配信 共同通信

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島の3県の沿岸部にある計37市町村で、消防団員の数が震災前の約8・4%に当たる2020人減少していることが、各県への取材で12日、分かった。消防庁の統計では、全国での減少率は約2・7%で、落ち込みが際立つ。団員が津波で犠牲になったほか、被災地域からの移住や原発事故による避難の影響があるとみられる。

 震災前の2010年4月時点では計2万3909人だったが、昨年4月の集計では計2万1889人だった。

 県別では、岩手が約6・7%、宮城が約12・5%、福島は約5%減少した。


「絆」バリケードで勇気を=高校生デザイン、実用化―宮城
時事通信 3月12日(土)4時49分配信

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自分たちでデザインした建設用バリケードのレプリカを見る石巻工業高校の(左から)相沢圭さん、今野翔登さん、村上雄紀さん=2月23日午後、宮城県石巻市

 「石巻に勇気と元気を」。
 宮城県石巻市の県立石巻工業高校の生徒4人が、東日本大震災からの復興への思いを込めてデザインした建設現場のバリケードが商品化され、6月にも実際に復興工事現場で使われることになった。生徒らは「これからも地域の役に立ちたい」と話している。
 土木技術者を養成する土木システム科を3月卒業した相沢圭さん、今野翔登さん、村上雄紀さん、山川大貴さん=いずれも(18)=の4人が手掛けた。昨年夏から、石巻のイメージについて全校生徒にアンケートし、市内の建設会社に必要な機能などを教えてもらうなど作業を進めた。
 4人は、各自のデザインを建設会社などにプレゼン。相沢さんの案をベースに、銘板会社が他の生徒の意匠も採り入れて製造した。
 出来上がったのは、中央に「絆」と書かれ、人が手を握り合うデザイン。「震災で生まれたたくさんの人の絆を前面に出した」と相沢さん。「4人で取り組んだバリケードが復興のシンボルになることを願っている」と話した。


被災体験と「青葉城恋唄」語る…さとう宗幸さん
読売新聞 3月11日(金)23時44分配信

 歌手のさとう宗幸さんが11日、BS日テレの「深層NEWS」に出演し、東日本大震災の被災体験や、ヒット曲「青葉城恋唄」に込めた思いを語った。

 地元・仙台市でスタジオに向かう車内で自身も被災し、不自由な暮らしを強いられた。11日後に地元テレビのレギュラー番組でこの曲を歌った際、「あのひとはもういない」という歌詞を心配したスタッフもいたが、視聴者からは「日常を取り戻すことができた」との反響があったという。風化の懸念については「皆さんが東日本に向けてくれた目が、離れていくとは思っていない」と述べた。

          ◇

 14日のテーマは「検証 広岡浅子と激動の時代」で、ゲストは歴史小説家の小前亮氏と秀明大の小林延人講師。


政府主催の大震災追悼式での天皇陛下のお言葉
読売新聞 3月11日(金)22時35分配信

 ◆天皇陛下のお言葉(全文)

 東日本大震災から5年が経(た)ちました。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

 5年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者、行方不明者が生じました。仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は、決して忘れることができないものでした。このような津波に対してどのような避難の道が確保できるのか暗澹(あんたん)たる気持ちになったことが思い起こされます。また、何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。

 このような中で、自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者、さらには、一般市民が、厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。

 地震、津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。

 こうした苦難の中で、政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。

 あれから5年、皆が協力して幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。この結果、防災施設の整備、安全な居住地域の造成、産業の再建など進展が見られました。しかし、被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に、年々高齢化していく被災者を始めとし、私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。

 困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。

 日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。

 今なお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


政府主催と各地の追悼式での被災3県遺族の言葉
読売新聞 3月11日(金)22時35分配信

 ◆政府主催の追悼式での言葉(全文)

 5年前の今日、高校生だった私は、いつものように玄関先で祖父に見送られ、通学のため父に駅まで送ってもらいました。家族の優しさに包まれていたあの日の朝、「行ってきます」のあいさつが、2人と交わした最後の言葉でした。

 避難途中だった祖父は、数日後遺体で見つかりました。遺体安置所で変わり果てた姿に母と泣き崩れ、祖父を守れなかったことを悔やむ日々が続きました。

 大好きだった父はいまだに家族の元に帰らぬままです。震災直後は、なぜ危険な状況にも関わらず、父は防潮堤の水門を閉めに行かなければならなかったのか、と母を問い詰めてしまうこともありました。今では、あの日消防団員として住民の命を守ろうとした父を、とても誇りに思い尊敬しています。

 私は今、関東で大学生として生活をしています。

 入学後は、震災のことや不明の父のことが気になり、新しい生活にもなじめず、何度も大学を辞めようかと思い悩みました。1年の休学を経て、悲しみやつらさを抱えながらも夢をあきらめず、ゆっくりでもいいから前に進む勇気を持つことの大切さを知りました。

 家族や友人、そしてたくさんの方からの励ましの言葉を胸に、私は再び、看護という学業に専念しています。大震災で受けた世界中からのたくさんの温かい支援にいつか恩返しができるよう日々精進しながら、毎日を大切に、父や祖父の分まで精いっぱい生きていこうと思っています。大震災で失うものも辛いこともたくさんありましたが、この5年は私を随分と成長させてくれました。住民の命を守った父の背中を胸に、いつか私も人の役に立てる人となり、努力を惜しまず前を向いて進んでいくことが、亡き父への親孝行だと思えるようになりました。

 最後に、東日本大震災で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、追悼の言葉と致します。

 岩手県代表 山本永都

          ◇

 人口の8・26%に当たる827名もの尊い命が奪われ、郷里女川が壊滅的な被害を受けてから早5年を経過しようとしています。

 お父さん、あの日、何度も電話しましたが、出てくれませんでしたね。

 「逃げ遅れてしまったのか、いや、そんなはずはない」と自答しては、2日前の地震でも、「津波が来たら、体一つで逃げるから大丈夫」、力強く言ってくれたその言葉を信じていました。

 一方で、町立病院に入院していた母の退院が間近であることも伝えてくれましたね。実はこのとき、不安がよぎっていました。母が逃げ遅れてしまうのではないかと。

 図らずもその不安が現実のものとなりました。震災直後の実家の光景を今も忘れることができません。基礎を残し跡形もなくなった土の上に、生前の両親の姿を映し出すかのように、折り重なるようにして見つかった夫婦茶碗(めおとぢゃわん)。家内が見つけてくれたこの夫婦茶碗が唯一の形見になってしまいました。

 最後にお父さんの姿を見た方が、「お父さん(は)、お母さんの名前を大きな声で呼びながら家に入っていったよ」と証言してくれました。お母さんに対する計り知れない愛の深さと勇気を知り、私は改めてあなたの偉大さを痛感しています。

 「お父さん、自分の命も顧みずにお母さんを助けに行ってくれてありがとう」

 私は今、地域防災リーダーの養成や防災分野の調査・研究に携わっています。

 お父さん、お母さんの死を決して無駄にすることなく、これからも防災分野で、微力ながら地域防災に貢献できるよう全力を尽くしますので、天から見守っていてください。

 最後に、東日本大震災に際し、被災地を支援して下さった全世界の方々に衷心より御礼を申し上げます。

 亡くなられた多くの御霊(みたま)の安らかならんことを祈念すると共に、ご遺族の心の復興が一日も早くならんことを祈念し、追悼の言葉とさせていただきます。

 宮城県代表 木村正清

          ◇

 私のふるさと大熊町は、春には三ツ森山に桜が咲き誇り、夏は日隠山ヘの登山で汗を流し、秋には坂下ダムで紅葉狩りを楽しみ、冬は熊川に白鳥が飛来する、四季折々の豊かな自然に囲まれた、人々のほがらかさがあふれる穏やかな町でした。

 ところが、5年前に発生した東日本大震災に伴う原子力発電所の事故により、私たちはふるさとからの避難を余儀なくされ、家族が離ればなれの生活を送ることになりました。

 私の父は、長期にわたる避難生活の末に、ふるさとから遠く離れた雪国でその生涯を閉じました。

 避難生活の中ずっと、「大熊の自宅に帰るまでは死ねない」と言っていただけに、雪の降りしきる会津の仮設住宅で最期を迎えたことは、さぞ無念であったろうと思います。

 そして、残された私たちは、生まれたふるさとを離れ、家族がバラバラの生活が長くなるにつれ、ふるさとにはいつ帰れるのだろうか、再び家族が一緒に生活できる日は来るのだろうかと、言いしれぬ不安におそわれます。

 しかし、私たち遺族にできることは何かと改めて考えた時、再びこのような悲しい事が起こらないように、そして、この大震災を風化させないために、私たちの経験を、これから先も、子々孫々、そして世界中に伝えていくことが重要なのではないかと思います。

 最後に、被災地には、放射能の問題など、まだまだ乗り越えなければならない多くの問題がありますが、みんなで力を出し合って復興を進めていくことを、大震災の犠牲となられた御霊(みたま)に改めてお誓い申し上げ、遣族代表のことばといたします。

 福島県代表 佐久間国幸

 ◆被災3県で行われた追悼式での言葉(全文)

 佳苗ちゃん、今どこにいますか。いつ帰ってくるのですか。あなたがいなくなってから、今日で5年がたちました。

 お父さんとお母さんは、あなたを捜しに5日後の3月16日に三陸町の越喜来(おきらい)地区に入りました。あの時見た光景は、生涯忘れることはないでしょう。昨日のことのように覚えています。

 あれから毎月、越喜来に足を運び、あなたを捜しました。数か月たった頃、ある民宿のお母さんから帰り際に、「また来月来ますね」と言うと、お母さんは「大事な娘さんを預かっていますから、いつでも来てくださいね」と言われました。私たちは、つらかった気持ちが、何だかすーっと楽になりました。それから私たちは、毎月娘に会いにこの三陸に通いました。

 会いに行くたびに娘の思い出の品物が、奇跡的にいくつも見つかり、まるで「ほら、私はここにいるよ。だからまた来てね」。そう言われた気がしました。悲しんでいると、「メソメソしてんじゃねえよ」。そう言われている気がします。

 東京から来た見ず知らずの私たちに、越喜来の方たちは、とても優しく、温かく親切に接してくれました。娘が東京に帰って来ても、「すぐに三陸に戻りたい」という訳が分かったように思います。

 私たち家族は、5年間通い、娘の愛した三陸が大好きになりました。第二の故郷ができたと思っています。

 娘がたくさんの方たちと結びつけてくれた絆です。その絆を大切に、佳苗の分まで、しっかり前を向いて生きていこうと思います。復興には、まだまだ時間がかかりそうですが、私たち家族は大震災を風化させないために、語っていくことが与えられた使命だと思っています。

 最後に、1万5890人の亡くなられた方々、いまだ行方不明の2574人の方々のご冥福をお祈りし、追悼の言葉とさせていただきます。

 岩手・瀬尾真治さん(61)

 瀬尾さんは東京都練馬区在住。岩手県大船渡市三陸町越喜来にキャンパスがあった北里大学海洋生命科学部に通っていた長女の佳苗さん(当時20歳)が津波で行方不明になった。(3月10日現在の死者は1万5894人、行方不明者は2561人)

          ◇

 ある晴れた日の朝に、幼い私はおじいさんと手をつないでお散歩に出た。少し冷たい空気と潮の香り、朝日に照らされて海面がきらきら輝く。そのまぶしさに私とおじいさんは目を細めた。辺りはまだ静かで港には大きな漁船が入り、うみねこたちがその船を追いかけて飛び回っている。今でも色鮮やかに記憶に残る、大好きな女川の朝だ。

 幼い頃から、私は女川の素晴らしい自然のエネルギーを全身で感じながら育ちました。震災後、初めての春が来て、更地になった土地には草が生い茂り、たくさんの花が咲いていました。女川は花や草木の優しいエネルギーで満ちあふれ、それはまるで再生を思わせるような風景でした。私にとって彼らの存在は「愛」そのものです。彼らは全てを癒やし、浄化し、震災前の女川にあった、あの鮮やかな空を取り戻してくれることでしょう。彼らの力が今この被災地にとても必要だと感じます。女川は新しい町へと生まれ変わろうとしていますが、女川の良さを残しつつ、すてきな町になることを願っています。

 震災当時、15歳の私が描いた「生きる」という絵があります。復興はがきとなった絵で、スコップを背負い、ヘルメットをかぶった子供たちが手をつないで、遠くに広がるがれきを見ている絵です。本当は頑張りたくない、向き合いたくない、そんな子供たちが現実と向き合わざるを得ない状況で、自分を奮い立たせるために手をつないでいます。そんな子供たちがいることを忘れないでほしいという思いを込めました。当時の私自身を表した絵でもありますが、きっと同じ思いをしている方々は年齢に関係なく、たくさんいらっしゃったのではないでしょうか。今、同じ絵を描くとして、背負わされたスコップやヘルメットを置き、笑顔でこちらを向いている子供たちを描くことができるでしょうか。それはまだまだ時間のかかることです。私が被災地で絵を描き続けてきたのは、私よりもつらい思いをしている方々に寄り添いたい、ただそれだけでした。そして、そう思わせてくれたのは自分の命も省みず、体の不自由なお年寄りに声をかけにいって、津波にのまれたおじいさんの「最後の意思」でした。

 今の世の中、相手が分かるように愛を表し、寄り添うことはとても必要なことだと思います。そのお手伝いを私はアートを通してやっていければと考えています。

 私たちが天国へ行ってしまった方々を思うように、天国にいる方々も同じように私たちのことを思い、何よりも私たちが幸せになることを強く望んでくれているのではないでしょうか。震災から私たちは本当に、本当に頑張りました。よくここまで歩んで来られたと思います。

 これからはたくさん、たくさん、幸せになりましょう。被災地・女川から愛を込めて。

 宮城・神田瑞季さん(20)

 神田さんは、女川町の中学3年生の時に津波で祖父の明夫さん(当時77歳)を亡くした。現在は、東北芸術工科大学(山形市)の2年生。

          ◇

 あの大震災から5年たちましたが、当時の津波や凄惨(せいさん)な光景が、つい最近のことのように感じられます。

 私は、震災前同居していた家族全員、妻、息子、娘、母、そして多くの親類知人を津波により亡くし、母と息子はまだ行方不明のままです。家族を失ってから、いまだにいい知れぬ寂しさに襲われることがあります。

 私は、約40年間、家族をはじめ多くの皆様の協力を得て相馬野馬追(のまおい)に参加してきました。私の人生は野馬追とともにあるといっても過言ではなく、家族との思い出には何らかの形で野馬追が関わっていました。

 大震災により、野馬追に参加すべきか否か迷ったこともありましたが、野馬追に参加することが私の心の支えであり、家族の供養になると思いましたし、また、多くの知人・友人の皆様から応援をいただき、大震災後も毎年、野馬追に参加させていただいております。

 今、改めて、人の心の温かさ、人と人とのつながりの大切さを実感し、感謝しております。

 そして、今生きている私たちは何をすべきかと考えた時、再びこのような悲惨なことが起こらないように、さらに、この大震災を風化させないように、私たちの経験を、未来に向けて、絶えず世界に伝えていくことが大切なのではないかと思います。

 終わりに、私たちの将来には、放射線の問題や住宅の問題を始めとして、たくさんの課題が山積しておりますが、住民みんなで力を出し合いながら復興に取り組んでいくことを、大震災の犠牲となられた御霊(みたま)に改めてお誓い申し上げまして、遺族代表のことばといたします。

 福島・菅野長八さん(64)

 菅野さんは南相馬市在住。母ハルヨさん(当時85歳)、妻まち子さん(同58歳)、次男武身(たけみ)さん(同34歳)、長女あゆみさん(同31歳)を失った。


政府主催の東日本大震災追悼式での首相の式辞
読売新聞 3月11日(金)22時35分配信

 ◆首相の式辞(全文)

 本日ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、「東日本大震災五周年追悼式」を挙行するに当たり、政府を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

 かけがえのない多くの命が失われ、そして、多くの方の人生を一変させた東日本大震災の発生から、早くも5年が過ぎました。

 最愛のご家族やご親族、ご友人を亡くされた方々のお気持ちを思うと、今なお哀惜の念に堪えません。ここに改めて、衷心より哀悼の意をささげます。また、被災された全ての方々に、心からお見舞いを申し上げます。

 被災地では、いまだに多くの方々が不自由な生活を送られています。原発事故のために、住み慣れた土地に戻れない方々も数多くおられます。被災地に足を運ぶ度、「まだ災害は続いている」、そのことを実感いたします。その中で、一歩ずつではありますが、復興は確実に前進しています。住まいとともに、なりわいの再生も本格化しています。

 被災者の方々お一人お一人が置かれた状況に寄り添いながら、今後とも、心と体のケアや新たな地域社会の形成、被災地の産業の振興への支援などに力を注ぎ、魅力ある地方の創生につながるような復興を実現していく所存です。

 同時に、多くの犠牲の下に得られた貴重な教訓を、決して風化させることなく、常に最新の英知を取り入れながら、防災対策を不断に見直してまいります。政府一丸となって、災害に強い、強靱(きょうじん)な国づくりを進めていくことを、改めて、ここに固くお誓いいたします。

 震災の発生以来、地元の方々や関係する全ての方々の大変なご努力に支えられながら、今日に至っております。日本各地のみならず、本日ここにご列席の世界各国・各地域の皆様からも、多くの温かく心強いご支援を頂きました。改めて、心より感謝と敬意を表したいと存じます。

 我が国は、今後とも、世界の皆様に向け、東日本大震災の教訓と被災地の復興の様子をお伝えし続けるとともに、我が国の知見と技術を少しでも役立てていただけるよう、防災分野における国際貢献を一層強力に進めてまいります。

 我が国は、幾度となく、国難と言えるような災害に見舞われてきましたが、その度に勇気と希望をもって乗り越えてまいりました。今を生きる私たちも、先人たちに倣い、手を携えて、前を向いて歩んでいくことを改めてお誓いいたします。

 御霊(みたま)の永遠(とわ)に安らかならんことを改めてお祈り申し上げるとともに、ご遺族の皆様のご平安を心から祈念し、私の式辞といたします。


東日本大震災5年 自民が民主政権の震災対応検証へ
産経新聞 3月11日(金)22時15分配信

 自民党は11日、東日本大震災発生時の政府の初動対応を検証する新組織を設置する方針を決めた。民主党の菅直人政権だった当時の対応への根強い不満が背景にある。谷垣禎一幹事長が同日の党役員連絡会で設置方針を報告した。

 谷垣氏はその後の記者会見で「5年たつと冷静になり、行政関係者らの発言も出てきている。経験を蓄積しておくことが必要だ」と意義を述べた。新組織は東京電力福島第1原発事故や津波被害などについて、官僚らからの聞き取りを想定。松本純政調会長代理らを中心に作業を進める。


外国人宿泊者、3倍を目標…東北の観光復興に力
読売新聞 3月11日(金)22時13分配信

 政府は11日に閣議決定した復興の基本方針で、2016年を「東北観光復興元年」と位置づけ、東北の本格的な観光振興に向けて取り組むことを明記した。

 ただ、東北6県の外国人宿泊者数は、東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う風評被害の影響もあって伸び悩んでいる。海外の懸念を払拭できるかどうかがカギになりそうだ。

 安倍首相は10日の記者会見で、東北6県の年間外国人宿泊者数について、昨年の約50万人から、20年に3倍の150万人にまで増やす目標を掲げた。政府は16年度の東北観光の復興関連予算を、15年度の10倍にあたる50億円と大幅に増やす方針だ。「東北観光復興対策交付金」を創設して、東北各県による独自の観光振興の取り組みを後押しする。


<大震災5年>3・11列島ドキュメント
毎日新聞 3月11日(金)22時8分配信

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東日本大震災発生時刻に合わせて商業施設の鐘が打ち鳴らされ、路上で黙とうする女性=東京・銀座で2016年3月11日午後2時46分、丸山博撮影

 多くの被害をもたらした東日本大震災の発生から5年。「3・11」を迎えた各地の表情を追った。

 ◇6時00分

 岩手県宮古市が津波避難訓練。防災行政無線のサイレンが鳴り、宮古小学校に避難した米穀販売業、中村善市さん(81)と妻豊子さん(80)は「津波は来ないと高をくくっていたので慌てて逃げた。とにかく避難が大事」と5年前を振り返った。

 ◇6時35分

 海抜12メートルの指定避難場所で50人以上が犠牲になった宮城県気仙沼市の杉ノ下高台で、慰霊碑に手を合わせた船舶修理業、平田季右衛門さん(82)は「これが妹夫婦、これは同級生」と裏面に刻まれた氏名を確認していた。

 ◇8時00分

 元町長を含む職員40人が犠牲になった岩手県大槌町の旧役場庁舎前で、平野公三町長(59)が献花。「つらい5年だった。自ら命を絶ったり、辞めたりした職員もいたが、応援職員とともによくここまで来られた」

 ◇9時35分

 コンビニ大手ローソンは東京都品川区の本社で、首都直下地震が起きたとの想定で社員の安否や備蓄品などを確認する訓練を実施。担当の郷内正勝取締役は社員らに「訓練を通じ、(災害時も)まちにとってなくてはならない存在になろう」と呼び掛けた。

 ◇10時01分

 参院本会議の冒頭に山崎正昭議長が哀悼の意。「ご遺族に衷心よりお悔やみを申し上げ、被災された全ての方々にお見舞いを申し上げます」

 ◇10時30分

 約500人が犠牲になった宮城県東松島市野蒜(のびる)地区にある長音寺で追悼法要。兄を亡くした住職の秋山公純さん(49)は約200人を前に「震災後の3月11日で初めて日が差したのではないか。皆さんの苦労も晴れてほしい」と言って青空を見上げた。

 41人の行方が分かっていない岩手県宮古市田老地区の海岸で県警が捜索。津波で同県釜石市の自宅が半壊した盛岡西署の松下友香巡査(19)は「被災者と警察官、両方の気持ちが分かる。なんとか手掛かりを見つけたい」。

 都内の原子力規制庁では、田中俊一・原子力規制委員会委員長が訓示。「5年たった今だからこそ、被災地の現状を知らなければならない。私たちにできることは福島第1原発の廃止措置に全力を尽くすことだ」

 ◇10時46分

 福島県いわき市小浜町の追悼式。地震で倒れた家屋から住人を救助中、押し寄せた津波から逃げた漁師、熊谷泰夫さん(68)が「助けられず、ごめんな」と涙。

 ◇11時00分

 名古屋市中区で岩手日報号外が配られた。受け取った愛知県常滑市の福祉施設職員、赤崎倫夫さん(65)は「被災地の情報に接することは大切。復興事業が生活再建につながっているか心配だ」。

 ◇11時30分

 原発事故による全町避難が続く福島県富岡町の住民が入居する同県いわき市の仮設住宅の団地で慰霊式。参列した女性(85)は「仮設を出たら独りぼっちになるので不安」とぽつり。

 ◇11時36分

 丸川珠代環境相は環境省内で「政府を挙げて復興は最優先課題。とりわけ(除染などを担当する)環境省は、我々が最前線にいるのだとの思いを共有したい」と幹部職員に訓示した。

 ◇14時40分

 岐阜市のサラマンカホールでコンサート中に震度6弱の地震発生との想定で約600人が避難訓練。長谷川茉愛さん(17)は「ホールは階段が多い。お年寄りの手を引いてあげられれば良かった」。

 ◇12時00分

 大阪市北区の関西電力本店前で、原発再稼働に反対する市民グループが抗議行動。「関電は(運転を差し止めた)大津地裁決定を認め、原発から撤退を」などと訴えた。

 ◇13時00分

 津波で漂流しハワイで発見された宮城県石巻市の遊漁船「第2勝丸」が県の実習船に乗せられ帰還。保存会の伊藤武一会長(68)は「震災をくぐり抜け、無事に帰郷したことは奇跡だ」と感慨深げ。

 ◇13時05分

 死者・行方不明者が1277人の岩手県大槌町にあるショッピングセンターの花屋に行列。店員の中村照美さん(50)は「まだまだ復興はこれから。何度も胸が締め付けられる思いで、お花を包みます」。

 ◇14時20分

 兵庫県西宮市の関西学院大のランバス記念礼拝堂で「大震災5年記念礼拝」。仙台市で被災したジェフリー・メンセンディーク宗教センター宗教主事が「多くの人が負った大きな痛みは5年たってもなくならない」と語り、学生ら約60人が黙とうした。

 ◇14時23分

 福島県の原発事故避難者らが暮らす東京都江東区の国家公務員住宅で追悼式。同県富岡町から避難した菅野洋子さん(74)は住民代表あいさつで「笑うことも増えたが、今も先は見えない」。

 ◇14時46分

 東京電力の広瀬直己社長が福島第1原発で黙とう。約80人の社員を前に「月日がどんなにたっても、福島の責任を決して忘れることはない。風化はあり得ない」と述べた。

 ◇15時15分

 福島県主催の追悼式で、津波で家族4人を亡くした南相馬市の菅野長八さん(64)が遺族代表として「私たちの将来には放射線の問題など課題が山積しているが、力を合わせ復興に取り組む」と誓った。

 ◇15時50分(日本時間)

 インドのモディ首相がツイッターに日本語で「インドは被災者の方々に対し、深い共感の意を示します。私たちは日本人のレジリエンス(回復力)を称賛します」と投稿した。


東日本大震災5年 両陛下、終わりなき「ご慰問の旅」 16日から福島、宮城へ
産経新聞 3月11日(金)21時57分配信

 11日の東日本大震災五周年追悼式に臨席した天皇、皇后両陛下は、震災の発生から5年を経てもなお、変わらず被災者に思いを寄せ続けられている。16日からは5度目となる福島、宮城両県の被災地訪問が予定され、秋には岩手県への3度目の被災地訪問が予定されており、「ご慰問の旅」に終わりはない。

 「ご苦労も多かったでしょう」。両陛下は昨年7月、福島県を2年ぶりに再訪し、福島市の復興公営住宅で同県の飯舘村や浪江町などから避難生活を送る住民らを励まされた。東京電力福島第1原発事故後の除染の進み具合について何度も質問される両陛下の姿に、被災者からは「故郷を本当に心配してくださっていると感じた」との声も上がった。

 今月16~18日の日程で、福島県を再訪するほか宮城県も再び訪問される。福島では、三春町に設けられた葛尾(かつらお)村役場の出張所で避難生活を送る村民と懇談される。宮城では、甚大な被害が出た女川町を震災後初めてご訪問。津波で駅舎などが流失したため内陸部に移設され、復興の象徴ともいわれるJR石巻線女川駅もご覧になる。皇后さまは昨年、石巻線の全線復旧を受けて女川駅を御歌(和歌)に詠まれていた。側近は「両陛下はこの5年間、片時も被災者のことを忘れられたことはなかったはず。女川のこともずっと気にかけておられた。追悼式のお言葉には、そういった被災地への思いが込められている」としている。


東日本大震災5年 政府、復興基本方針を閣議決定 事業費6.5兆円確保
産経新聞 3月11日(金)21時52分配信

 政府は11日、東日本大震災の復興に関する平成28~32年度までの基本方針を閣議決定した。5年間の復興事業費として6兆5千億円を確保し、29年度までに災害公営住宅建設や高台移転の9割完成を目指す。東京電力福島第1原発事故の影響が残る福島県の復興については、33年度以降も国が主導すると明記した。

 基本方針には、被災者の心のケアや地域経済を支える産業再生などの支援策を盛り込み、原発事故対応でも29年3月までに帰還困難区域を除く区域の避難指示を解除できるよう除染など環境整備を進めるとした。


<大震災5年>遺構保存検討の校舎でサバイバルゲーム
毎日新聞 3月11日(金)21時43分配信

 10日午後8時40分ごろ、東日本大震災で被災し、震災遺構として保存が検討されている宮城県山元町の旧中浜小に「不審な車が止まっている」と県警亘理署に通報があった。署員が駆けつけると、校舎内で若い男9人がエアガンを撃ち合っていた。同署は許可なく立ち入ったとして9人を軽犯罪法違反容疑で書類送検する方針。

 亘理署によると、9人は福島県相馬市と宮城県丸森町に住む10代後半~20代前半の会社員ら。「サバイバルゲームをしたかった」と話しているという。

 旧中浜小は2階天井まで津波で浸水し、児童ら約90人が屋上に逃れて助かった。窓や玄関のガラスは割れたままになっている。町の担当者は「信じられない行為で残念。巡回など管理を強化したい」と話している。【伊藤直孝】


神戸は寄り添い続ける
2016年3月11日(金)21時38分配信 共同通信

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 東日本大震災の追悼行事で「3・11」の形に並べられたろうそく=11日午後、神戸市中央区の東遊園地

 神戸市のNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」(HANDS)は11日、同市中央区の東遊園地で東日本大震災の追悼行事を開き、藤本真一代表理事(31)が「神戸は寄り添い続ける。未来に向かって一緒に歩んでいきましょう」と東北にエールを送った。

 ガラスの器に入った約300本の白いろうそくが「3・11」の形に並べられ、参加者が阪神大震災の犠牲者の鎮魂を願ってともされているガス灯「1・17希望の灯り」から分灯した火を付けた。

 HANDSが支援を続ける岩手県陸前高田市の被災者らとインターネット中継を結んで交流、発生時刻に合わせ黙とうした。


<大震災5年>未来の命守るため…被災者願い「忘れないで」
毎日新聞 3月11日(金)21時34分配信

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東日本大震災発生時刻に合わせて商業施設の鐘が打ち鳴らされ、路上で黙とうする人たち=東京・銀座で2016年3月11日午後2時46分、丸山博撮影

 東日本大震災の発生から5年を迎えた11日午後2時46分、各地で犠牲者を悼み黙とうをささげる人々の姿があった。被災体験の風化が懸念される中、大切な人を亡くした遺族たちは多くの命が奪われた場所や追悼式の壇上に立ち、「震災を忘れないで」と訴えた。

 児童・教職員84人の命が奪われた宮城県石巻市の大川小学校で法要が営まれた。津波の痕跡をさらす校舎1階の教室に祭壇が設けられ、集まった遺族や地区住民、学校関係者は300人以上。午後2時46分、静寂に包まれる中、亡き児童らに祈りをささげた。この中に、当時5年生で奇跡的に助かった只野哲也さん(16)の姿があった。津波で多くの友人を失い、母、妹、祖父も亡くなった。自宅は流され、父英昭さん(44)と祖母の3人で石巻市内陸部に暮らす。現在、高1で勉強と柔道部の練習に明け暮れる。

 地震発生後、約50分間校庭に待機し、津波に押され意識を失った。山の斜面に上がった同級生に引っぱられ、命をつないだ。あの日は母しろえさんの41回目の誕生日。「優しかった声が、なかなか思い出せない。一生忘れないと思ったのに、新しい記憶が入るとどんどん下に沈んでいく」

 午後2時46分には、校舎2階の教室で亡き友を思い、津波到達時刻にも黙とうをささげた。震災遺構として被災校舎の保存を求める活動をしている。思い悩んだ時は校舎に足を運び、「やるしかねえ」と自らを奮い立たせる。「未来の命を守るため、これからも大川小のことを伝えていく」と話した。

 約80人が犠牲になった宮城県七ケ浜町の追悼式。津波で祖母たけよさん(当時82歳)を失った鈴木杏奈さん(23)が遺族代表として登壇し、約500人を前に被災体験を語った。

 5年前。鈴木さんは祖母と自宅裏の約10メートルの高台に避難したが、津波にのまれた。恐怖で祖母とつないでいた手を離してしまった。「たけばあちゃん、ごめんね。寒かったよね」。自身は木に引っ掛かり、助かった。5年間、公の場で語ることはなかった。「心のもやもやは一生消えることはありません」。時折、涙ぐみながら話した。

 被災地で復旧・復興工事が進むと震災の爪痕も消えていく。記憶も自然と薄れていくことに危機感を持った。遺族代表を引き受けた理由は「一人でも多くの方に震災を忘れないでほしいから」。

 岩手県宮古市田老地区の巨大防潮堤の上には、地震発生時刻に地元住民ら約300人が立ち、手をつないで黙とうをした。その一人、堀子朝子さん(76)は東日本大震災の津波で、夫の活朗さん(当時75歳)を亡くした。あの日、激しい揺れに襲われた後、活朗さんは海の様子を見るため堤に上って流された。

 明治、昭和の大津波で市街地が壊滅的な被害を受けた田老地区。高台移転を避けるために建設された防潮堤は、東日本大震災当時も国内最大級の高さで「万里の長城」とも呼ばれた。しかし、津波は堤を越え、住民ら約180人が犠牲になった。

 地元のNPOの呼び掛けで2012年から、この時刻に手をつなぎ合い犠牲者を悼む。集まった人々は自然の脅威を忘れないことを誓う。「夫が波にのまれた防潮堤の上に立つのは正直つらい」と堀子さん。友人と一緒に上り「防潮堤があっても高台に逃げるよう孫たちに伝えていきたい」と話した。【百武信幸、渡辺豊、安藤いく子】


高浜3号機が冷温停止=運転差し止め仮処分で―関電
時事通信 3月11日(金)21時23分配信

 運転差し止めを命じた大津地裁の仮処分決定を受け、運転を停止した関西電力高浜3号機(福井県高浜町)は11日夜、1次冷却水が80度に保たれ、原子炉が安定的な状態となる冷温停止に移行した。

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