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2015年1月18日 (日)

宮城沖地震に関するニュース・1879,2015年1月18日

引き続き、2011年3月11日に発生した、東北関東大震災に関するニュース記事を伝達します。

今後も引き続き、随時追加します。

リンク:<阪神大震災20年>鎮魂 灯に託す・福島 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<阪神大震災20年>再生願い「ハート」の灯・郡山 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<阪神大震災20年>キャンドルで「祈 忘れない」・石巻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<阪神大震災20年>「必ず元気になれる」神戸から東北へ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<阪神大震災20年>追悼式典 東北と神戸「痛み分かち合う」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「負けたら息子の死無駄になる」…震災津波訴訟、遺族はなぜ「和解」選んだのか - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:3月11日「東日本大震災の日」に…法案提出へ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:阪神大震災20年 復興の街、歩み次代へ 「悪い状況でも温かい出会いがある」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:阪神大震災 神戸市民44%経験せず 「共助」の精神どうつなぐ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:震災教訓に東北支援 両陛下、若者らご激励 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:阪神大震災20年 鎮魂の祈り - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:阪神大震災20年 東北からも「希望の灯り」 - 速報:Yahoo!ニュース.

以下、参考のために同記事を引用

<阪神大震災20年>鎮魂 灯に託す・福島
河北新報 1月18日(日)9時35分配信

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「1.17 KOBE」とかたどったキャンドルに灯をともす福島市民

  阪神大震災から20年の節目を迎えた17日、東北各地では「被災地神戸」とつながってきた人々の手による追悼と鎮魂の行事が行われた。未曽有の大震災から立ち上がる思いは東北も同じ。人々は地域や世代を超えて、祈りをささげた。

  福島市では市民でつくる「追悼の灯火(ともしび)実行委員会」が、同市のスーパー駐車場で、160本のキャンドルに灯をともし、犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。

  市民ら約50人が参加。雪が降りしきる中、風を遮りながらキャンドルに点火し、「1.17 KOBE」と文字を浮かび上がらせた。阪神大震災があった時刻から12時間後の午後5時46分、黙とうした。

  被災地をつなぐ活動をする山形県の団体「キャンドルリンクネットワーク」と連携し、福島第1原発事故が起きた被災地として鎮魂した。12日にはキャンドル360個を手作りし、うち200個を神戸市に送った。

  実行委員の主婦根本美穂子さん(39)は「同じ被災地として共有できる思いがある。被災地のことを多くの人に忘れないでほしい」と話した。


<阪神大震災20年>再生願い「ハート」の灯・郡山
河北新報 1月18日(日)9時35分配信

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ろうそくを並べ、犠牲者を追悼する市民ら=17日午前5時30分ごろ、郡山市開成山公園

  郡山市の開成山公園では17日朝、各地で災害ボランティア活動を続ける地元のNPO「ハートネットふくしま」が鎮魂のろうそく500本をともし、犠牲者を追悼した。

  メンバーや市民ら15人が、ガラス瓶に立てたろうそくに火をともし、ハートの形と「1.17」の文字を浮かび上がらせた。地震が発生した午前5時46分、兵庫県の方角に向かい黙とうをささげた。

  追悼行事は震災翌年の1996年から毎年開いている。ハートネットの吉田公男理事長らが、兵庫県西宮市で支援活動をしたことがきっかけだ。いまは東京電力福島第1原発事故で郡山市などに避難する住民を訪ね、炊き出しやお茶会をして回る。

  吉田理事長は「被災地を忘れていないというメッセージを東北から届け続けることが大切だ。4年前に私たちも被災者となった。忘れてほしくないというメッセージも届けなければいけないと思う」と語った。

  参加した郡山市の団体職員古川克雄さん(63)は「ろうそくをともし、祈ることで、遠い場所で起こった震災が近く感じられた。私たちも福島の復興に向けて頑張っていきたい」と話した。


<阪神大震災20年>キャンドルで「祈 忘れない」・石巻
河北新報 1月18日(日)9時35分配信

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阪神大震災の被災地に向けてともされたキャンドル=17日午前6時ごろ、石巻市の中瀬公園

  阪神大震災から20年に合わせ、東日本大震災で甚大な被害を受けた石巻市で17日早朝、犠牲者を追悼し、復興支援に感謝する集いがあった。

  会場の中瀬公園には住民やボランティアら約100人が訪れた。神戸市の方角に向け、約500個のキャンドルで「20 祈 忘れない」とかたどった。

  参加者は地震発生時刻の午前5時46分に黙とう。短冊に「命をつないでいきます」などとメッセージを書き入れた。

  石巻市の仮設住宅で暮らす女性(85)は「東日本大震災では神戸の皆さんにお世話になった。今でも手紙のやりとりを続け、生きる励みになっている」と思いを寄せた。

  集いはNPO法人石巻スポーツ振興サポートセンターが2012年から毎年開催。松村善行理事長は「復興に向けて石巻も前に進んでいると神戸に伝えたい」と話した。


<阪神大震災20年>「必ず元気になれる」神戸から東北へ
河北新報 1月18日(日)9時35分配信

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阪神大震災の犠牲者を悼む「1.17希望の灯(あか)り」に手を合わせる村松さん(左)=17日午前7時すぎ、神戸市中央区の東遊園地

  神戸市東灘区のパート従業員村松京子さん(57)は阪神大震災で夫=当時(36)=と小学6年の長女=同(11)=、3年の次女=同(9)=を失った。長い歳月の中で絶望を乗り越え、「輝く女性として生きる」と前を向く。17日の追悼行事後、20年を振り返り、東日本大震災で大切な人を亡くした被災者への思いを聞いた。(石巻総局・丹野綾子)

  一人きりになり、数年は「何で置いていったの? 何で連れていってくれなかったの?」と泣いてばかりいました。

  立ち直れたのは、友人たちの励ましがあったから。一人の友人からは「あんたが泣いていたら誰が3人を供養するの」としかられたこともありました。

  厳しかったけれど、陰では私が元気になることを必死に祈ってくれてい

 ました。今は夫たちが、人の絆の大切さを教えてくれたのだと思えます。

  震災10周年の追悼式典で、遺族代表の言葉を述べました。私が泣き暮らすことを3人は望んでいない。明るく、人に元気を与えられるようになることが一番の供養になると思い、「輝く女性として精いっぱい生き抜く」と誓いました。

  夫たちは私のすぐそばにいて、迷ったり悩んだりした時は必ず答えを出してくれる。3人が敷いたレールに乗っていると感じます。だからこそ、脱線してはいけない。

  東日本大震災からもうすぐ4年がたちますが、4年ではまだ立ち直れない。悲しい時は自分の気持ちに素直になって泣いてください。

  そこから一歩ずつでいいから、前に進んでください。心の痛みはそれぞれ違うけれど、亡くなった人は常に見守ってくれている。必ず元気になれる日が来る。亡くなった人もそう望んでいます。


<阪神大震災20年>追悼式典 東北と神戸「痛み分かち合う」
河北新報 1月18日(日)9時35分配信

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竹灯籠に手を合わせ、犠牲者の冥福を祈る長沼さん(手前右端)ら名取市の被災者=17日午前6時30分ごろ、神戸市中央区の東遊園地

  震災を経験した同士だからこそ、痛みや思いを分かち合いたい-。阪神大震災から20年を迎えた17日、東日本大震災の被災者が神戸市を訪れ、犠牲者を悼んだ。東日本大震災の追悼行事も開かれ、二つの被災地が共鳴。参加した多くの人たちが時空を超え、復興への思いと震災を語り継ぐ決意を新たにした。

  神戸市中央区の東遊園地であった「阪神淡路大震災1.17のつどい」。午前5時46分、津波で壊滅的被害を受けた名取市閖上地区に住んでいた10人も静かに目を閉じた。

  東北にボランティアを派遣する「ひょうごボランタリープラザ」(神戸市)に招かれた。

  会社員木皿俊克さん(58)は、津波で命を落とした妻典子さん=当時(50)=、2年前に病気でこの世を去った長男康之さん=当時(28)=の冥福を祈った。

  「今も心の傷が癒えない人が多いと聞く。20年たった時、自分はどんな気持ちになっているんだろう」。揺れる竹灯籠の明かりを見つめた。

  「神戸のボランティアは何度も支援に通ってくれた」と語るのは自営業長沼俊幸さん(52)。「震災を経験したから、誰よりも痛みを分かってくれる。思いを共有してもらい、癒やされている」と感謝の言葉を重ねた。

  東日本大震災の追悼行事は、1.17のつどい実行委員会が開催した。同じ会場に竹灯籠で「3.11」とかたどり、震災発生時刻の午後2時46分に黙とうをささげた。

  実行委参与の山川泰宏さん(76)は「二つの震災の被災者供養と、若い世代に震災の記憶を伝えていく思いを込めた。東北とつながり続けたい」と誓った。


「負けたら息子の死無駄になる」…震災津波訴訟、遺族はなぜ「和解」選んだのか
産経新聞 1月18日(日)9時23分配信

 平成26年12月、東日本大震災の津波で幼い命が失われ、遺族らが幼稚園や保育所の責任を追及した訴訟が立て続けに和解した。

 それぞれの状況も、1審判決も、和解の経緯もさまざまだが、共通していたのは真実を明らかにできなかった悔しさと、「教育現場に再発防止のための教訓を残せれば」という強い願いだった。(東北総局上田直輝)

■宮城・山元で園児1人の遺族が和解

 東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県山元町立東保育所の園児2人の遺族が、町に計約8800万円の損害賠償を求めた訴訟は昨年12月24日、仙台高裁(中西茂裁判長)で、園児1人の両親と和解が成立した。原告側によると、町が和解金計300万円を支払うほか、「保育中の子が死亡したことを重く受け止め、心より哀悼の意を表し、今後、園児らの安全な保育に努める」との内容になっていた。

 和解したのは、長男の歩夢(あゆむ)ちゃん=当時(2)=を失った渋谷亮さん(31)ら両親。

 1審の仙台地裁判決は「津波到達は予見できなかった」として請求を退けた。遺族側が控訴し、高裁が和解勧告していた。

 1審判決によると、23年3月11日の地震発生後、東保育所では、町総務課長の指示で園児13人と保育士ら14人が園庭に待機。約1時間15分後、津波が押し寄せ、車で避難中に流され、園児3人が死亡した。

 和解成立を受けて山元町は「園児について法律上の損害賠償義務があるものとは考えていないが、亡くなった園児に心より哀悼の意を表す」とのコメントを出した。 

■和解に踏み切った両親の葛藤

 和解が成立した昨年12月24日、渋谷さんら夫婦は仙台市内で会見し、「和解が防災への見直しにつながれば」と強調するとともに、提訴から3年余りを経て和解を選んだ複雑な心情を吐露した。

 保育所はなぜ、地震発生から1時間以上も園児をその場にとどまっていたのか。約1カ月後の説明会で町側は総務課長から待機を命じられたと証言したが、課長は否定。約半年、10回以上に及ぶ話し合いの場でも真実は分からなかった。

 津波が襲うまで保育所ではどう対応したのか-。親として、息子がなぜ犠牲になったのか、真実を知る必要がある。決意を胸に23年11月、提訴に踏み切った。

 弁論の中の証人尋問で、総務課長は待機の指示について「覚えていない」と繰り返した。渋谷さんら遺族は「証人尋問で『分かりません』『覚えてません』などの言葉が通用する裁判では真相は見えてこないんじゃないか」との不満を募らせた。

 1審の仙台地裁判決は遺族の請求を棄却。遺族が控訴したが、意見は対立したまま結審した。控訴審で裁判長は「遺族の気持ちは分かるが、法的責任を問うのは難しい」と和解を勧め、協議が続いていた。

 「判決で負けたら何も得られない。歩夢の死は無駄になってしまうのでは」と深く悩んだという。

 和解案では、被告側が「今後、安全な保育に努める」と明記。会見で、渋谷さんは和解を受け入れたことについて「判決には白か黒かしかない。和解することで紙切れ1枚でもいいから(山元町からの哀悼の意を)残して、この裁判を終わらせようと思った」と説明。現在の心境については「後悔はしていないが、最後まで(園児たちがなぜ命を落としてしまったのか)真実を知れなかったのは残念」と語った。

 それでも訴訟を起こしたことは無駄ではなかったという。「この訴訟をきっかけに、子供の安全について防災体制を見直してみようという場所(教育機関)はゼロではないはず」。渋谷さんは、こう力を込めた。今後は幼稚園や保育所のような小さな子供を預かる施設に防災のための取り組みを広めるため、なんらかの活動を始めていきたいという。

■石巻市の日和幼稚園訴訟も和解

 昨年12月3日には、東日本大震災の津波で送迎バスが流されて死亡した宮城県石巻市の私立日和幼稚園の園児4人の遺族が、計約2億6700万円の損害賠償を求めた訴訟は園側が法的責任を認めて謝罪し、計6千万円を支払うことで仙台高裁(中西茂裁判長)で和解が成立していた。

 和解内容には「園児らの犠牲を教訓として長く記憶にとどめ、防災対策に生かすべきだ」との裁判所の考えが明記され、事前の津波対策が不十分だったと園側が認めることも盛り込まれた。原告側代理人によると、裁判所の見解が付けられるのは珍しいという。

 1審の仙台地裁判決は「情報収集義務を怠り、高台の幼稚園から海側にバスを走らせた」などと園側の過失を認め、計約1億7700万円の支払いを命じ、園側が控訴していた。和解金額は1審判決の賠償額を下回るが、原告側は園側の支払い能力に沿った額だと説明している。

 原告側代理人によると、この訴訟は震災の津波犠牲者の遺族が管理者側に損害賠償を求めた訴訟の中で、1審で賠償を命じる判決が出ている唯一のケースとみられる。

 それでも和解に踏み切ったのは、仙台高裁の示した和解条項に判決では得ることのできない「園側の心からの謝罪」や「防災体制が十分でなかったと園が認めること」が盛り込まれたからだ。

 遺族らによると、和解協議で中西裁判長は和解条項を読み上げた後、「悲劇が二度と繰り返されないよう、訴訟終了後も被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべき」との前文を繰り返し読んだという。

 遺族らには「法廷で真実はわからなかった」という複雑な感情とともに、「この和解が教訓を最大限残せる形」という気持ちがあった。

■教訓として残り続けることを

 着任直後、初めて取材した裁判が津波訴訟だった。津波によって失われた幼い命。そのときなにが起こったのか、真実を知りたいという遺族の思い、大津波の予見はできなかったとする学校や幼稚園側の主張。取材の中で感じてきたのは、震災を風化させず、再発防止につながってほしいという思いだった。

 これらの和解により、幼稚園や保育所、学校などで防犯体制を見直し、教訓として残り続けることを願うばかりだ。

 ◆上田直輝=平成26年4月入社。高校中退後、船の仕事の手伝いをしつつ高卒認定を取得し大学へ。船舶操縦士、海事代理士。趣味はマリンスポーツ。好きな動物はネコ、カメ、パンダ。5月から東北総局に配属。福岡県出身。24歳。


3月11日「東日本大震災の日」に…法案提出へ
読売新聞 1月18日(日)8時47分配信

 鈴木俊一元環境相ら自民党の有志の国会議員が、大災害の教訓を忘れずに災害対策への理解を深めてもらうため、毎年3月11日を「東日本大震災の日」と定める法案をまとめた。

 今月26日召集の通常国会に議員立法として提出し、6月24日までの会期中の成立を目指す。

 法案は、2011年に起きた東日本大震災を「未曽有の国難」と位置づけ、政府と地方自治体に対し、3月11日に防災教育に関するイベントなどを行うよう求めている。祝日にはしない。

 過去の震災に関しては、閣議了解に基づき、関東大震災が発生した9月1日が「防災の日」に、阪神大震災が発生した1月17日は「防災とボランティアの日」に指定されている。


阪神大震災20年 復興の街、歩み次代へ 「悪い状況でも温かい出会いがある」
産経新聞 1月18日(日)7時55分配信

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阪神大震災から20年。発生時刻には、多くの人々が祈りをささげた =17日午前5時46分、神戸市中央区の東遊園地(沢野貴信撮影) (写真:産経新聞)

 6434人が亡くなった阪神大震災は17日、発生から20年となった。発生時刻の午前5時46分、神戸市など被災各地で黙祷(もくとう)がささげられた。人々は失われたかけがえのない命と復興の歩みに思いを巡らせ、災害に強い地域づくりを誓った。

 神戸市中央区の兵庫県公館では県などが主催する追悼式典に天皇、皇后両陛下が10年ぶりに臨席された。震災で母を失った同市西区の英語塾経営、小河昌江さん(51)が遺族代表として「悪い状況の中にも温かい出会いはあり、それは私の心をいつまでも温めてくれます」と述べた。

 一方、同市中央区の東遊園地で行われた「阪神淡路大震災1・17のつどい」には、20年の節目でもあり、昨年の倍以上で、過去最多となる約10万1000人が参加した。

 会場には竹灯籠約1万本が並べられ、「1・17」の文字が浮かび上がる中で犠牲者の冥福を祈った。母を亡くした同市東灘区の美容師、銘田奈津紀(めいだ・なつき)さん(26)が遺族代表として「夢を持ち続け、母の分も強く生きようと思います」と決意を語った。午後には東日本大震災の被災地に思いをはせ、竹灯籠を「3・11」の文字に並べて火をともした。

 平成7年1月17日に発生した阪神大震災は、近代化された都市を襲った未曽有の災害だった。しかし、震災5年で仮設住宅は解消し、10年で街がほぼ復旧。神戸市に災害医療や心のケアなどの拠点施設が整備された。

 一方で、課題も残る。被災者向けの災害復興公営住宅のうち、自治体が民間などから借り上げた住宅が27年度から順次、20年の返還期限を迎える。

 神戸市などは年齢や要介護度など入居継続の要件を設けているが、高齢者や障害者の孤立がますます深まることが懸念されている。


阪神大震災 神戸市民44%経験せず 「共助」の精神どうつなぐ
産経新聞 1月18日(日)7時55分配信

 阪神大震災から20年もの時が過ぎた被災地。このことを象徴する数字がある。「44」。最も被害が大きかった神戸市で、震災の後に生まれたか、市外から転入した「震災を知らない市民」の割合(昨年11月現在)が44%だ。このまま増え続ければ、震災を知らない人の方が多い時代が必ずくる。

 地域とのつながり、コミュニティーへの帰属意識も薄れていく。

 兵庫県が昨年1月に行ったアンケートで「最近1年以内に地域の防災訓練に参加した」と答えた人も35・1%だった。その事実は、命を守ることや高齢化社会を暮らしていくことと無縁ではない。

 20年前のあの日、消防など公的救援がままならない中、住民は「ここの家は1人だけやない、まだおるで」などと声をかけ合い、救助にあたった。

 近隣住民が助け出した被災者は、実は救助された被災者全体の約8割、約2万7千人にものぼる。避難した先の避難所などでも「いたわり」や「支え合い」があった。

 国の「高齢社会白書」(平成26年版)が、「世界のどの国も経験したことのない高齢社会を迎えている」と警鐘を鳴らす日本。国の施策には限界があり、被災地でみられた「いたわり」や「支え合い」、つまり「共助」の重要性が高まっていくはずだ。

 作家の司馬遼太郎さんは震災の約2週間後、「(都市的な自由と下町的な人情が溶け合った)神戸のユニークな市民の心は、この百難のなかで、かえって輝きを増した」と書いた。

 震災で学んだ「絆」の大切さを若い世代に引き継いでいくことは、被災地だけの課題ではない。(牛島要平)


震災教訓に東北支援 両陛下、若者らご激励
産経新聞 1月18日(日)7時55分配信

 天皇、皇后両陛下は17日、兵庫県公館(神戸市)での追悼式典で供花した後、阪神大震災の教訓を学んで東日本大震災の被災地を支援する地元学生らの話に耳を傾けられた。

 兵庫県立大の学生災害復興支援団体「LAN」前会長、井上幹太さん(21)は、福島県相馬市でジャガイモを植える農業支援活動などを説明。高校では全国唯一の防災専門科となる兵庫県立舞子高環境防災科3年の成尾春輝さん(18)と大西莉加さん(18)は、がれき撤去のボランティアをしたり、防災学習で被災生徒と交流したりしている経験を語った。

 陛下は「勉強しておかないとね」と、教訓を引き継ぐ若者を励まされた。

 同県園芸療法士会の上地あさひ副会長(29)からは、阪神の被災者が緑の成長する姿で癒やされた経験を踏まえ、宮城県の仮設住宅入居者や兵庫に避難中の被災者に植物と触れ合う教室を開いたと聞き、皇后さまは「助けになったんでしょうね」と話された。

 最後に、陛下が全員に向かい、「みなのために力になってあげてくださいね」と語りかけられた。

 両陛下は17日夕、空路で帰京された。


阪神大震災20年 鎮魂の祈り
産経新聞 1月18日(日)7時55分配信

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肉親への思いを語る消防士の萩原裕介さん =17日午前、神戸市垂水区(岡本義彦撮影)(写真:産経新聞)

 6434人の命を奪った阪神大震災から20年がたった17日、被災地は終日、鎮魂の祈りに包まれた。いまだ肉親の死を受け止められない人がいる。一方で若い世代が震災の教訓などを伝える使命感を胸に踏み出している。大切な人を亡くした悲しみは薄らぐことはないが、人々はそれぞれの未来に向かって進んでいく。

                   ◇

 □20歳の消防士・萩原裕介さん

 ■命を守る「兄ちゃん 頑張るから」

 「兄ちゃん、20歳になったで。今まで以上に責任感持って頑張るから」。神戸市須磨区の消防士、萩原裕介さん(20)は17日朝、自宅の仏壇の前で、震災の犠牲になった兄=当時(3)=に、いつものように語りかけた。「原点」という兄の死を通して命の重みを学び、2年前から消防士として人命救助の道を歩み始めている。

 「兄の分も、後悔しないように今を生きる」。萩原さんは物心がついたときから、いつも自分に言い聞かせてきた。平成7年1月17日、生後3週間だった萩原さんは、母(50)の実家にいて無事だった。

 しかし、同市長田区の父(51)の実家にいた幼い兄と祖母は、つぶれた家の下敷きになり、命を落とした。

 月命日の17日がくると、家族で墓参りをしてきた。写真立ての中で笑う幼い兄。「注射で泣かない子やった」「裕介をよくかわいがった」と両親は教えてくれた。自身の記憶にはないが、「いつも自分の中に兄はいた」。自分のそばで見守ってくれる心強い存在だった。

 両親は自ら震災当時のことをほとんど話したことはなかったが、小学生の頃に2歳下の妹と聞いた、母の言葉が忘れられない。

 「これ以上、自分の子供が命を落とすのは嫌や。あんたらにはあんなつらい思いを絶対にしてほしくない」。母は泣いていた。

 当時も今も消防士として活動する父。わが子を失った悲しみや弱さを見せず、ひたむきに働く姿にあこがれるようになった。23年3月に起こった東日本大震災でも派遣され、人命救助に当たっていた。

 「両親は多くを語らないけれど、兄の死を通して、命の重みや強く生きることを教えてくれていたと思う」。サッカーを始めたときも、高校進学のときも、消防士を志したときも、両親は自分の意思を尊重してくれた。そしていつからか、月命日には、自分の決意を兄に報告することが習慣になった。

 「宣言した限りは、絶対に実現せなって思えるから」

 高校卒業後の25年4月に消防士になり、同10月に垂水消防署(同市垂水区)に配属された。父も喜んでくれた。今はポンプ車に乗り込み、消火活動などに当たる。人を救える仕事にやりがいを感じる。

 21回目の命日となったこの日も、仏壇で手を合わせてから消防署に出勤した。火災や災害が起こっても、万全の備えで臨みたい。次の目標は救助隊員になることだ。

 あの時、生まれたばかりで非力だったが今は違う。「どんな災害が起きても、次は自分が最前線で命を守っていく」。返事はないけれど、いつも兄はそばにいて見守ってくれている。そう、感じている。

                   ◇

 □新成人を代表 嶋田健太さん

 ■未来築く「教訓を行動に変える」

 阪神大震災から20年の節目の年に二十歳を迎えた大学生が、防災を学び、将来に生かそうとしている。兵庫県西宮市の兵庫県立大2年、嶋田健太さん(20)。大学で防災などを研究するグループに所属する嶋田さんは、今年3月に仙台市で開かれる国連防災世界会議に県の学生代表として参加する。「震災と“同い年”の若者として教訓を活動に変えることが僕たちの役割」。17日には県などの追悼式典で新成人代表として献花した。

 嶋田さんは、生後6カ月のとき西宮市で被災。自宅に大きな被害はなかったが、両親らから「水が出なくて大変だった」とよく聞かされた。ただ小中学生のときは、父の転勤で横浜市で過ごし「震災は身近なものではなかった」という。

 故郷に戻り、高校3年だった平成24年8月、ユネスコが東日本大震災の復興を考えるために仙台市で開催した国際フォーラムに参加。当初は軽い気持ちだったが、他の生徒らと意見を交わすうち、「自分は被害実態などあまりにも東日本大震災のことを知らない」と痛感した。フォーラムでは兵庫県立大防災教育センターの馬場美智子准教授(防災まちづくり)に出会い、東日本の被災地のフィールドワークに参加。防災への関心が高まったという。

 同県立大に進学し、災害復興時の取り組みの研究や防災リーダーの養成を考える学内のグループに入った。昨年9月には阪神大震災の被災地を回ったり、復興状況を学ぶ震災フォーラムを企画したりし「復興は机上のものではないんだ」と災害を身近な問題として改めて感じた。

 高校時代から「君たちは震災と同じように歩んできたんだね」と言われてきた。「震災と“同い年”だという意識がなければ違った道に進んでいた」

 国連防災世界会議では、地域コミュニティーと防災について意見を発表する。嶋田さんは「震災から時間がたつにつれて語ることができる人は減る。でも、私たち若い世代が活動を続けることで教訓は行動としてさらに先の世代に伝えられるはず」と力を込めた。

                   ◇

 □今も行方捜す 佐藤悦子さん

 ■母どこに 「またこの日が来たよ」

 「お母ちゃん、どこにいるの」。神戸市中央区の東遊園地で17日に開かれた追悼行事。兵庫県加古川市の佐藤悦子さん(51)は、いまだ行方の分からない母の正子さん=当時(65)=に問いかけた。

 6434人が亡くなった阪神大震災で、正子さんを含む3人だけが遺骨や遺体が見つかっていない「行方不明者」だ。佐藤さんは写真を抱え「20年がたったね。またこの日が来たよ」と呼びかけた。

 正子さんが暮らしていた神戸市須磨区のアパートは倒壊し、火災で全焼した。焼け跡の捜索で見つかったのは男性の遺体。正子さんの姿はなかった。

 病院や避難所、遺体安置所などを何度も捜し回った。ボランティアに手伝ってもらい正子さんの特徴を書いたチラシもまいたが、見つけることはできなかった。

 7年7月、親族の勧めで営んだ葬儀では、骨壺にアパートの焼け跡のがれきを入れた。震災1年後に、裁判所に失踪宣告を申し立て、正子さんは戸籍上「死亡」した。悦子さんに残されたものは、焼け跡から見つけた正子さん愛用の腕時計や茶碗(ちゃわん)などの遺品、そして消えることのない胸のつかえだった。

 「母の死に顔を見ることができていたら。せめて骨のかけらでも出てきてくれていれば」

 孫も生まれ、正子さんが被災した年齢に近づいていく。悦子さんは「いろいろと相談したいことはあったし、生きていてほしかった。何年たっても気持ちの整理はつかない。死ぬまでこの気持ちを消すことはできないと思う」と静かに話した。


阪神大震災20年 東北からも「希望の灯り」
産経新聞 1月18日(日)7時55分配信

 阪神大震災から20年となった17日、神戸市でともされているガス灯「1・17希望の灯(あか)り」から種火を譲り受けた岩手県陸前高田市の気仙大工左官伝承館でも、地震発生時刻の午前5時46分に黙祷(もくとう)がささげられた。

 同館では平成23年12月、東日本大震災の犠牲者を追悼するため、NPO法人「阪神淡路大震災『1・17希望の灯り』」によって東遊園地に建立された「希望の灯り」から分灯された「3・11希望の灯り」が設置されている。

 この日は冷たい雨が降りしきる中、まだ夜が明けないうちから有志ら約10人が集まった。希望の灯りの前には花が手向けられたほか、神戸から送られた「祈り」「希望」「絆」と書かれた3つの竹灯籠が供えられた。

 「3・11希望の灯り運営協議会」副会長の遠藤健司さん(48)は「20年たっても課題が残っていると聞く。復興に向けて一緒に問題を解決していけたら」と神戸に思いを寄せた。

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